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福田恆存を勝手に体系化する。15   エゴイズム    

エゴイズムの起源について 

 エゴイズムとは私的利益の追求である。あるいは、みずからの快楽をみたそうとする欲動であると、いちおうそういえる。それ自体になにも悪いところはない。ところがエゴイズム同士は角逐する。私の私的利益の追求が他者のそれと衝突することが、しばしば起こる。というか、それだからこそ、エゴイズムは人間的課題となる。概念としてのエゴイズムには、他我との軋轢があらかじめ想定されたものとして含まれているのだ。

 私が静かに読書にいそしんでいるのに、隣の部屋からヘビーメタルが聞こえてくる。私は読書に没頭したい。隣人は大音量で音楽を聴きたい。両者の私的利益はたがいに相反する
 それが私的なものである以上、その利益はときに他者のものとは一致しない。一致するはずがない。それがどんなに親しい相手であり似通うエートスをもつ者であっても、私と他者はぴったりと重なり合うことはない。私も大音量で音楽を聴くのは嫌いではない。だがそれも時と所と気分による。そもそも、ヘビーメタルもデスメタルも好きではない。両者のパースペクティヴはたがいに相手のそれを排除するのである。

 自己の私的利益を他者のそれと合致させようとおもえば、事前の合意がもとめられる。したがって、私のパースペクティヴにあらわれる他者は、基本的に、私の私的利益をはばむ存在者である。

 私はみずからの私的利益がみたされれば幸福になれる、そう考える。しかしながら、かならずしもそう単純にはいえない。

 私はとなりの部屋に苦情をもちこむ。隣人は反省してヴォリュームを下げる。私は満足する。ところがこの幸福感には、二つの要素がふくまれている。一つは、もちろん私的利益の達成だ。もう一つは、その私的利益が「正義」に裏づけられているという愉悦である。前者が後者に保証されることで、エゴイズムは十全にみたされる。

 これがヘビーメタルではなく、保育園の子供たちの声であったらどうだろう。たいていの人は隣りの保育園には直接おもむかずに、わざわざ役所まで出かけて苦情をのべ、善処をもとめる。人目もはばかられるし、分からず屋の冷血動物だとおもわれたくもない。私的利益が正義に結びつかず、ワンクッション置きたくなるのである。これで保育園が移転でもしようものなら、私的利益の達成感は、後ろめたさに相殺され、むしろお釣りがきて、幸福感はふきとぶことになる。こうしたとき、エゴイズムは意識される。

 要するに、エゴイズムは、自己の私的利益が阻まれたときにそれを押し通すことから生じるのだが、それは二層の構造をなしているといえよう。私的利益は必要条件であり、社会正義がその十分条件をなす。

 そして以上の考察から解ることは、エゴイズムが問題となる場合、それはたんに個人間の衝突として処理されうるものではないということである。私の欲求を他者が阻害するとはいっても、エゴイズムが「正義」を十分条件とするので、そこには社会が介在する。いいかえればそれは、私のパースペクティヴにおける共生の次元を舞台とするものである。

 ふたたび、私的利益の追求はそれ自体が悪ではない。それならば、エゴイズムはどの段階で悪に転化するのだろうか。

 デカルトは次のような指摘をする。

 知性の認識は、自分に示される僅かなものにしか及ばず、常に全く限られている。しかるに意志は或る意味で無限であるということができる。なぜならば、何か別の意志や、或いは神内にある無辺際の意志の対象になり得るもので、我々の意志の範囲に入らないものを、我々は全く知らないからである。従って我々は容易に意志をば、我々が明晰に認識するものの外にまで及ぼすのであって、もしかようなことをするならば、我々が間違いをするようになるのも、不思議ではないのである。

「哲学原理」桂寿一訳

 意志は無際限であるのに、人間の知性には限界が存する。そのアンバランスのせいで、人はあやふやな見通しに基づいても平気で意志的に行動しうるのであって、そこに悪は生じると、デカルトはいっているのである。つまり、およそ人間が意志する行為全般にわたって、エゴイズムの悪が生じる余地があるということだ。

 そこから逆算されることで、いかに正義だの愛だのと声高に叫んでも、蓋をあければそこにはエゴイズムがあるばかりなのだ、という科学主義や生物主義にすがたをかりた現代風の厭世思想は生まれる。そうした非常に割り切ったもののいいかたには、ニヒリスティックなスノビズムが感じられるが、その根底にあるのは浅薄な現実主義と科学への過信である。現今の、ハラスメントやコンプライアンスというものへの過剰な関心もこうした感情が底流にあると考えられる。人間の行動のすべてを私的利益の追求とみる不信が蔓延しているのだ。

 それは愛ではなくエゴイズムにすぎぬといふ一切の思想を、ぼくは暴力と呼ぶのに躊躇しない。もちろん、女を愛し、家庭を愛し、同胞を愛し、自分の階級を愛し、人類を愛すること――すべてはエゴイズムである。だから否定しなくてはならぬのではなく、だからこそこれを肯定しなければならぬのだ。
 エゴイズムがつひに否定し抹殺しきれぬものであるとすれば、たとへ自分を苦しめることによつてにしろ、これを否定せんとする身ぶりは、いたづらに相手を脅迫することにしかならない。

福田恆存「白く塗りたる墓」

「我々が誤りに陥るのは、たしかに我々の行為、即ち自由の使用における欠陥である」が、「我々の本性による欠陥ではない」と、デカルトものべている。「本性は我々が正しく判断しない場合も、する場合も同じだから」

 夫れ尺も短き所有り
 寸も長き所有り
 物も足らざる所有り
 智も明かならざる所有り
 数も逮ばざる所有り
 神も通ぜざる所有り
 君の心を用ゐ
 君の意を行へ

『楚辞』卜居篇

 これは、福田恆存の愛誦する屈原『楚辞』の一節である。
 君側の奸にしりぞけられた屈原は、いかにしてみずからの意を君主に達すべきか迷い、卜占者を訪ねた。かれはしばらく筮竹を案じていたが、あきらめて、引用した言葉をのべたのである。
 すなわち、デカルトがのべたのと同様に、われわれの知性には限界があり、どれほどデータをあつめたところで、いかなる理性にも将来は読み切れない。だとすれば、「自分の心を働かせ、自分の思ひ通りにやつてのけろ」と、屈原にアドバイスしたのである。

 屈原は今から二千二、三百年前の人だが、その時分の人間にはかういふ平凡な心境が解つてゐた。「智も明かならざる」ものがあるといふ智慧があつたのである。が、その後文明といふ魔女がこの人間の秀れた智慧を逆用してつひに成功した。「智も明かならざる」ものがあるといふ智慧をもつてゐる位なら、その智慧によつてやがては「明かならざる」ものをも解き明し得るであらう。人間はさう思ひ始めたらしい。しかし私の智慧はさういふ文明のまじなひに引つ掛かるほど発達してゐないから、今なほ二千年も昔の屈原の迷ひ方を遥かに珍重してゐる。

福田恆存「勇気ある言葉」

 君側の奸をのぞくことは、権力を奪取することであり、私的利益の追求という側面をもつ。しかし古代人・屈原はそんな近代的な感情に屈託することはなかった。かれの懸念はもっぱら、みずからの「正義」の正当性と、それを自分が実行し実現しうるかどうかという不確定の未来にあったのだ。
 福田恆存の解説には、近代以降の独我論から発する進歩主義への批判もふくまれている。

 デカルトが「本性」として想定しているのは、むろん「思考」であり「理性」である。
 しかし福田恆存が人間の基本的現実として考えているのは、「生きる」ということである。生きるとは行動することであり、一定の状況において、思考や判断をいったん停止することである。考えずにやみくもに行動しろというのではない。むしろ限度ぎりぎりまで考え抜くのである。しかしその先は、思考を行動するしかない。成否は結果にすぎず、対象となる相手、多様な要素をふくむ状況を主体が完全にコントロールするのは困難だ。まして事前に、それが私的利益の追求ではないかと気に病むのは無意味であり、思考と行動に集中すべきだと、福田恆存はいうのだ。

 両者の言述を比較すると、デカルトが個人の意識を基盤にしているのに対して、福田恆存はあくまで社会的、集団的自我の課題としてとらえてることが了解される。
 デカルトには、対他的な視点が決定的に欠けている。悪やエゴイズムは孤独な個人のものではなく、社会的共生の次元に出現する。したがって、正義や愛、真実、自由、平等といった社会的な価値と抜きがたい関係性を有している。しかもそれが集団的・社会的なものである以上、一定の歴史性を有しているのだ。集団的自我の背後にはかれの属する集団、民族、国家の歴史がひかえているからだ。

 それにもかかわらず両者に一致しているのは、人間の意志という要素である。
 そしてこの「意志」は「自由」の問題に接続する。

 しかしこの問題はいったん保留して、次回は、われわれのうちにあるエゴイズムの歴史性について、福田恆存の意見を聞いてみるつもりである。

福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。