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福田恆存を勝手に体系化する。13   人間的時間の本質と運命 


時間について

 前節において私は、福田恆存の思索における根本的現実について語った。しかし、そこにはまだふれられていない困難な問題がのこされている。
――それは、「時間」だ。根本的現実に時間はどうかかわっているのか。

 福田恆存は時間の問題についてどう考えていたのか。
 それについては「処世術から宗教まで」と題する講演のなかで語られているエピソードが、ちょうどいい入口となる。

 挿話の舞台は当時世論が沸騰していたとおもわれるロッキード事件だ。
 主人公・田中角栄は、ご存じのように、貧しい境遇から成り上がり、総理大臣にまでのぼりつめて、一時は「今太閤」ともてはやされていた。
 が、文芸春秋に掲載された「田中角栄の研究」という連載記事によって、その金権体質を明らかにされ、のみならず、ロッキード社から五億円の賄賂を受け取ったとして、受託収賄罪で起訴された。その結果、それまで角栄氏を熱狂的に支持していた民衆は、騙されたと感じて手のひらを反し、轟々たる非難に転じたのである。

 だから、人間の理解といふのは時間と空間といふものの、これはいよいよ難しい問題になつてきますけれども、簡単なことを言へば、その人間は空間的に同時存在してゐるわけです。悪と善、あるいは狡さと正直さといふものが同時存在してゐるんですけれども、それを見るときにどつちのはうから順々に見ていくかといふ時間の問題が関係してきて、先に悪者と見られてゐたら後で得しますよね。いくらでも後でお土産たくさん出せるわけなんですけれども、先にいい人間だと思はれたり、立派な人間だと思はれたりするといふと困る。動きがとれなくなつてくる。         

  「処世術から宗教まで」

 前節にのべたように、人間の認識はつねに単数であり、同時に一つの観念にしかフォーカスできない。したがって、複数の観念を把握しようとする場合、一個一個、順番にみていくことになる。その前後関係によって、人間の価値判断は大きな影響をこうむるのである。

 つまり、田中角栄氏における金権体質と政治能力は、かれにおいて同時に存在しているわけであるが、われわれはそれを一挙に認識することが出来ない。したがってそれらの二つの要素を順番に把握する。その結果、その順番によって株が上がったり下がったりするわけである。
 現在、ロッキード事件の衝撃は風化し、さらに政治家の質の低下という深刻な事態に接しているために、ふたたび角栄氏の「株は上がって」いるようにみえる。無能な小悪党よりは、何かをなしとげる悪党の方がまだましだ、と。

 二つの要素は空間的に同時存在しているのであるから、本来、その時空において評価は一定のはずである。幾何学的な思考においては、そのように解答される。しかしながら、人間の物理的相対性によって、矛盾と背理が生じるのである。「理解の前後関係は大切なのだ」と。

 それは、人間が一つの視点に縛られており、その視点は時間と空間の交差する一点に位置づけられているということを意味している。さらにここでは、私と事象との枠組みという根本的現実は、ただ空間的なものではなく、時間という因子によっても構成されているということが示されているのである。
 それは客観的時間――絶対時間の否定であり、時間は空間とともにパースペクティヴを成立させる意識の現実的な条件としてとらえられている。


 で、私がここで気になるのは、「これはいよいよ難しい問題になつてきますけれども、簡単なことを言へば」と、話を反転させた部分だ。簡単なことをいわなかったとしたら、どうなっていたのか。それを再構成するのが、この節の眼目である。

「同時存在」というような用語から推測できるのは、まず第一に、カントの影響である。福田恆存は、「知的な快楽」をあたえる哲学書の典型として「純粋理性批判」を第一にあげていることから、そこから多くのものを受けとっているのはまちがいない。(「文学の効用Ⅱ」)
 もちろん、少しでも哲学に親しんだ者ならば、デカルトの「方法序説」や「純粋理性批判」などは、マストな基礎文献である。それらは哲学の歴史の地層において、大きな岩盤をなしており、われわれは意識せずともその上に立っており、そこから養分を得ている。

 本題にもどろう、周知のごとく、カントにおける時間は、空間とともに、人間におけるアプリオリな知覚の形式として措定される。
「すべての認識は経験からはじまる」とカントはいっているのだが、それでいて、「すべての認識が経験から生ずるわけではない」とことわっている。つまり、経験に先立つ人間特有の感性の形式を仮定しなければ、認識は成り立たないと主張しているのである。

 それを時間にかぎっていえば、経験から得られる現象は、同時存在か継起的な生起のどちらかに分類される。
 同時存在は、たとえば赤い薔薇と白い薔薇がならんで咲いているような状態だ。継起的な生起は、ドミノ倒しのように、つぎつぎと起こる現象をさしている。カントはそれを、薔薇やドミノというような「もの自体」の性質ではなく、いずれも人間の感性を起源とした認識の結果であると考える。

 なぜならば、すべてのものは人間の経験において、現象として知覚されるのであって、「もの自体」を直接的にとらえることはできないからだ。それにもかかわらず、われわれがそれを同時存在、継起的な生起として認識しうるとすれば、時間というものが、あらかじめ認識に先行する形式として用意されていなくてはならない。空間にも同じことがいえる。時間と空間は、もの自体ではなく、現象の側に属する形式なのだ、というのがカント哲学の要諦である。
 したがってカントは、時間と空間は感性の主観的条件であると考える。だからふだん、われわれの頭にある、社会的に共通で時計ではかる時間は、「超越論的仮象」つまり、人間の認識形式がつくりだした幻影ということになる。

 こうしたカントの見解を見ていくと、先行するものとして、福田恆存の思索の基礎的な成分をなしていることがよく解る。かれはカントが苦労して運んできた荷物をうけとり、そこからさらに先へ進もうとしている。

 それから、時間論といえば、なんといっても、聖アウグスティヌスだ。かれは「告白」の十一巻で時間について考察している。それはフッサールが、現代においてもなお、「これを凌ぐ研究は成し遂げられていない」と絶賛する名高いもので、まちがいなく、福田恆存も読んでいる。当時は「懺悔録」といわれていた。

 私たちは子どものころ、三つの時があると習いました。すなわち、過去、現在、未来です。またそのように子どもたちに教えました。
 しかし、そのような三つの時などというものはない、あるのはただ現在だけだ、なぜなら過去と未来とはないのだからと、いったいだれが私にむかっていう者があるでしょうか。

 もしも未来と過去とがあるとするならば、私は知りたい。いったいどこにあるのかを。それを知ることが、まだ私には不可能であるにしても、すくなくとも次のことを知っています。どこにあるにせよ、そこにおいてそれは未来でも過去でもなく、現在であるということを。じっさい、もしそこにおいても未来であるとすれば、それはそこにまだないし、もしそこにおいても過去であるとすれば、それはそこにもうないはずですから。それゆえ、どこにあるにせよ、およそあるものはすべて、ただ現在としてのみあるのです。

 おそらく、厳密にはこういうべきであろう。
「三つの時がある。過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在」
 じっさい、この三つは何か魂のうちにあるものです。魂以外のどこにも見いだすことはできません。過去についての現在とは「記憶」であり、現在についての現在とは「直観」であり、未来についての現在とは「期待」です。

アウグスティヌス「告白」山田晶訳

 アウグスティヌスは、それまで信じられていた天体の運動が時間の基体であるとか、「時間は物体の運動である」とするアリストテレス以来の客観的時間解釈を廃し、独自の思索から主観的解釈を主張したのである。かれはいう。

――私の精神よ、私はおまえにおいて時間を測るのだ。

 凄くないですか、アウグスティヌスは四世紀を生きた人であり、わが国でいえば、崇神天皇の御代にあたる。それが十八世紀のカントを先取りしているのだから。しかもそれは、孤独な思惟から導きだされたヴィジョンなのである。

 そしてアウグスティヌスは、讃美歌を例題として、さらに時間の本質を追求する。

 そこで私の精神活動の生きた力は、二つの方向に分散します。一つは記憶の方向であり、それはうたいおえた部分のためです。一つは期待の方向であり、それはこれからうたおうとする部分のためです。しかも私の直観はいまここに現在あり、それをとおって、未来であったものは移されて過去となってゆくのです。このようなはたらきが実現されてゆくにつれて、期待はますます短縮され、記憶が長くなってゆき、ついに期待の全部が尽き果てますが、そのときその作用は完全に終わって記憶へと移るのです。

アウグスティヌス「告白」山田晶訳

 こうしたアウグスティヌスの時間分析を引き継いだのは、やはりフッサールである。かれもまた、「内的時間意識の現象学」において、メロディを題材として時間の本質について考察している。

 私は本当はメロディーを聞くのではなく、個々の現在する音を聞いているにすぎない。メロディーの経過した断片が私にとって対象となるのは、記憶のおかげであり、また私が個々の音を聞くたびに「もうこれで全部だ」と思い込まないのは、先見的予期のおかげである。

フッサール「内的時間意識の現象学」立松弘孝訳

 ここからかれは、得意の微細な分析にとりかかる。
 メロディは、順序にしたがって連続的に継起する一まとまりになった音の集合である。個別の音それ自体には意味はない。しかしわれわれが知覚しうるのは現在の音だけなのだ。どうしてそれを全体として系列として認識しうるのか――そこに、時間というものの謎がある。
 そこでフッサールは、「過去把持」という概念を導入する。それは「第一記憶」であり、想起される過去としての「第二記憶」とは明確に区別される。それは現在の知覚に属する一時的な過去なのだ。

 過去把持とは、知覚された現在を核とした「彗星の尾」のようなものだと、かれにしてはめずらしく秀逸な比喩をもちいて説明している。それは現在を頂点として、非常に短時間で記憶の底に沈んで消え去る――あたかも彗星の尾が一定の長さで減衰するように。
 端折っていえば、この過去把持を契機として人間は対象となるシークゥエンス全体を連続的に把握できる、というのがフッサールの基本的な考え方である。

 アウグスティヌスとカントは、時間を内的なものとして人間の認識の形式にかかわるものとみなし、フッサールはそれを認めつつも、なんとか客観的な時間にむすびつけようと努力している。(注 一)

 さて、福田恆存はそれをどう考えているのか。手がかりとなるのは、いうまでもなく福田恆存の「本業」である舞台劇における時間である。

 舞台のうへでは、すべてが二重性において進行する。私たち見物人のまへには、つねに現在しか存在しない。その現在はつぎつぎに過ぎ去るが、それはけつして過去にはならない。つぎつぎに眼前に現れる現在のうちに、それらは一切ふくまれてゐる。(中略)
 未来についても同様である。未来は、未来の側からやつてきてはならぬ。といふことは、つねに現在が、いかやうなる未来にも到達しうる形で、私たちの眼前に存在してゐなければならぬといふことだ。

「人間・この劇的なるもの」

 劇においては、つねに現在が躍動しながら、時間の進行にともなひ、過去と未来とを同時に明かしていく。現在のうちにすべてがある。いま起こりつつあるもののうちに、すでに起こつたものと、これから起こるであらうものとが、この二重性が劇における時間の法則である。(中略)
 劇の時間は不可逆である。現在だけしかあつてはならぬ。それが現在としての溌剌さを失ふと、とたんに時間の流れが切断される。

「人間・この劇的なるもの」

 こうした舞台上の時間についての記述はそのまま、われわれ人間の実生活の時間の性質を明かしている。福田恆存はそのつもりで書いている。

 私の視点はつねに「現在」という一定の幅をもった場にある。確定した過去は現在にふくまれ、記憶の底へと沈下していく。その現在も、刻々と過去の領域へとおくりこまれていく。
 同時に、現在はまだ来ぬ未来にたいしてひらかれている。それはあらゆる可能性であり、期待であり、不安であり、畏れであり、宿命である。

 ゆえに「現在」は、それ自身とはべつに、二つの位相をもっている。「彗星の尾」は、核を中心として、後方だけではなく、前方と後方、その両側にのびているのである。われわれの時間的パースペクティヴはそのような構造をもっている。そしてその位相構造がわれわれにとっての時間を構成している核心である。
 現在の場において、深い記憶の領野にある過去と絶えざる未来の予測とがはげしくせめぎあっており、そうした「二重性」を有する「躍動する現在」の運動の過程が人間の時間を生じている。
 福田恆存は時間をこうしたものと考えていたとおもわれる。

 さて、冒頭にもどろう。話を反転し、福田恆存がいいよどんだことは何だったのか――「空間と時間」「同時存在」の真の意味とは何か。ここまでの考察では、その半分を解き明かしたにすぎない。

 それについて、手掛かりとなる貴重な証言がのこされていた。

 私は今でもあの時の事がまざまざと目に浮かぶ、中学三年の時だつた、ある日の昼休みに弁当を食ひ終はつて、それを片附けてゐる私に、突然、ある光景が目に、映つたのではない、襲ひかかつて来たのだ。それは古代から明治までの、それまでに習つた歴史が、自分を含めて同時存在しているといふ幻覚である。それは竝みの感覚ではなく、はっきりと、しかも極く薄く刷かれたやうに各時代の人物が現れ、私もそのうちの一人として蠢いてゐるのである。どうせ中学三年生のことだから、歴史で習つた名のある武将も何人かゐた。時間にして十秒位であつたらうか、私はひどく時間が経つたやうな気がして、慌てて弁当を包み終はつた。

「反核運動の欺瞞」

 これは幻視体験である。
 幻視とは、恍惚のうちに世界の本質を垣間見ることである。福田恆存はヤコブ・ベーメのように、通常はけっして見ることのできない、みずからのパースペクティヴの外側の世界を幻視したのである。そこに現れた光景はある意味、本質の「無底」だった。
 それは走馬灯のような順序をもったコマ送りの幻覚ではない。すべての出来事が「同時存在」として現れる。未来も現在も過去もなく、万物は同時に蠢いている。ということは、そこには、未来から現在、過去へという時間の流れが存在しないということだ。(注二)

――すなわち、われわれのパースペクティヴの外に、時間は存在しない。

 時間のパースペクティヴは、現在を起点として、過去と未来という位相を有している。アウグスティヌスのいう「過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在」だ。それらの動的な構造が――福田恆存のいう「現在の溌剌さ」が、時間というものを生みだしていると考えられる。そしてそれは、空間のパースペクティヴとからみあったものとして機能しているのである。

注 一) ハイデガーはフッサールと異なり、過去よりも未来に重点をおく。かれによれば、時間はsich zeitigenする。「時熟」するという意味ありげな訳語があてられている。とにかく、本来的な時間はみずからの「死への先駆」から生ずるといわれている。
 通常われわれの意識している時間は「非本来的」なものであるとされ、真の時間はそこから脱け出し、かれの言葉でいえば「脱自態」の地平にあらわれる。ここには深い洞察があると、私もおもう。
 ハイデガーの文体は、そのものズバリの明言を極力避け、どこか逃げ道をつくりながら進むようなところがあって、まことに解りにくい。私の理解の範囲でいえば、時間性は「存在了解」とセットになっており、「現存在」の「実存」の条件に組みこまれているということになる。
 フッサールの哲学が「意識に還帰する」ものであるなら、ハイデガーのそれは、つねに「存在に還帰する」ものだ。過去や記憶を軽視し、未来に偏重するのはそのせいである。

注二) アインシュタインの「相対性理論」を読んで、私が衝撃をうけたのは、やはり時間についての理論である。なかでも、いちばん驚いたのは、単純化していえば、私の「現在」は距離が離れれば離れるほど拡大されるという記述だ。一般相対性理論によれば、私の現在は火星ではおよそ十五分間にふえる。火星でさえそうなのだから、アンドロメダまでいけば数百万年にのびる。
 これは何を意味するのか。いろいろイメージしてはみたが、結局のところ、私が「今」と感じているものは、宇宙の規模においては実在しないということではないか。
 時間は人間の知覚できる能力の範囲内にしか存在しない。いいかえれば、相対性理論の示唆する現実は、われわれのパースペクティヴの外に時間はないということの物理学的な根拠の一つではないだろうか。


福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。