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補遺 正義とは何か         エルサレムのアイヒマン カント アレント スタイナー


 どなたもご存じのこととおもうが、カントには物議をかもした『嘘論文』とよばれるものがある。

 命を狙われている友をかくまう。そこに殺人者がやって来て戸口でかれに問う、この家に友はいるのか、と。そうした状況でも、嘘をついてはならないと、カントはいう。
「嘘をついてはならない」というのは、いわゆる「定言命法」とよばれるもので、いかなる場合においても守られなければならないとカントは主張する。例外を認めてしまえば、定言命法はその意味を消失するからだ。「嘘も方便」は道徳秩序そのものを破壊するとかれは考えているのである。

 ここまでなら私も、同意はできないにしても、理解はできる。
 しかしそのあとがいけない。本当のことをいったからといって、かならずしも殺されるとはかぎらないとか、話している間に、友人は裏口から逃げたかもしれないとか、訳のわからない弁解をしている。なんのことはない、カント自身の感情が、定言命法に抵抗を感じているのだ。
 しかも、手紙の末尾につける「あなたの従順なしもべ」というような決まり文句は例外としている。「誰も本気にしないから」というのが、その理由だ。(「人倫の形而上学」)
 それなら、「私は神だ」という嘘もみとめられるのか。「私は嘘をつきません」「この町のために、私は命を捧げます」等々。

 つまり、カントの思考はゆらいでいる。

 カント自身すら反発をおぼえるのは、カントの道徳論が血のかよわない形式論理であるからだ。倫理は行動にかかわるものであり、人間の行動はつねに形式をはみだす。

 カントの哲学は、「もの自体」は認識できず、人間が知覚するのは現象だけであるという公理を前提としている。そこから、空間と時間は人間の知覚の形式であるという認識論はみちびかれる。
 同様に、かれの倫理学においても、「善」それ自体は認識できず、現象としてあたえられる。「定言命法」は、それをわれわれが行為としてとらえるための形式なのである。

 人間の行為は「善意志」にもとづいたときだけ、善とみなされる。「善意志」は「善」を志向する自律的な意志である。しかし「善」それ自体は把握できないので、定言命法に照らして行為は決定される。それが適法であるか、普遍的なものでありうるか点検されるのだ。
「善意志」はたんに思弁的なものではなく、行動のうちに見いだされる。思弁と行動――その両者を統括するのが、「実践理性」とよばれるものである。カントの道徳律はそのような建付けになっているとおもう。

 定言命法は、「Xをすべきであるから、Xをせよ」という公式であり、「もしYであるなら、Yをせよ」という「仮言命法」と区別される。前者は絶対的・普遍的であるが、後者は状況に左右される相対的・蓋然的なものであるとカントはいう。

 エルサレムで裁判にかけられたアイヒマンは、「自分はカントの道徳律にしたがって生きてきた」と陳述している。
 法廷に立った男の風貌は、それまで誰もが想像していた残虐で野獣のような犯罪者というより、どこにでもいる平凡な官僚だった。

 傍聴席にいたハンナ・アレントは、「驚くべきことに、かれはカントの定言命法の正しい解釈をのべた」と書いている。(『イェルサレムのアイヒマン』大久保和郎訳)
 ちなみにアレントにとってカントの道徳哲学は、みずからの思想をささえる基礎的な成分である。

――ユダヤ人は殺されるべきである。だから私は殺す。

 むろんこれは、定言命法として破綻している。「ユダヤ人は殺されるべきである」という「格率」が普遍的なものではありえないからだ。
 それはアイヒマン自身も理解していた。かれはナチス独裁下のドイツにあって、それは「適法」であり、総統の意志が普遍性と置き換えられたと答えているのである。

 つまりかれは、保身のために――「みずからの生命と四肢を守る」「自然権」を行使して、ユダヤ人虐殺に手を染めたと自己弁護している。「安心・安全」が最高価値であるとすならば、いったい誰がかれを責められよう。

 問題は、こうした決定的状況において、「長い行進」をつづけてかたちづくられた近代的な道徳秩序はなんの役にもたたなかったということである。個人を守ってくれぬばかりか、いかなる指針をも示しえなかった。

 現実的には、アイヒマンが命令に背いたところで、殺されることはなかっただろう。しかし、更迭は必至だった。
 学歴のないアイヒマンにとってその忌むべきポストは、ことさら大事なものだった。かれはそれを失うことをおそれたのだ。みずからの地位と生活の維持と、出世欲。要するに、かれはエゴイズムから、ガス室の運営につとめたのである。

 カントは、「実践理性は、自然なものとみなされ、道徳の法則に先立ってわれわれのうちにある自己愛を、道徳法則との一致という条件に制限することで破壊する。そのとき自己愛は、理性的自己愛となる」とのべている。
 しかしことアイヒマンに関していえば、実践理性はなんの効力も発揮しえなかったのである。エゴイズムを破壊するどころか、かれの判断に理論的根拠すらあたえたふしがある。それというのも、かれは自己の行為を正確に把握していたからだ。それは「理性的自己愛」といえるのではないか。
 いずれにしても、カントの道徳哲学を生涯にわたって守ってきたにもかかわらず、アイヒマンにとってそれは、判断と行動を正す力をもたなかった。それはただかれだけの個別特殊な事例なのか。

 アレントは、ナチスによるユダヤ人虐殺を、「法の枠には納まりきらない犯罪」いいかえれば、いまだかつてない人間の根本悪の不気味な露出とみていたのだが、小役人然としたアイヒマンを目の前にして、「陳腐」と形容した。
 この発言は大きな物議をかもしたのだが、私にはアレントの真意がわかるような気がする。
 アイヒマンが小型ヒトラーのような怪物なら納得もいくが、犯罪の甚大さ、残酷さ、深刻さと比較して、その人物像はあまりにも凡庸にすぎる。
 しかしこの「陳腐」さにこそ、問題の特異性の本質はある。アレントはたぶん、そういいたかったのだ。

 虐殺行為は、戦時におけるような忘我の興奮状態ではなく、満員電車にゆられて出勤したサラリーマンが事務をこなすように、平静に淡々と実行されたのである。退勤後、ふだん通りに家族と夕餉の食卓を囲み、そののち寝酒のブランデーを手に、ワグナーを聴きながら、ふかふかのソファーに腰をおろしてカントやゲーテを読む。「炉辺の幸福」
 かれはそれを守るために、営々とガス室の虐殺をこなしたのだ。太宰治のいうように、「家庭の幸福は諸悪のもと」なのか。

 そこには人間存在の深層にひそむ底知れぬ悪の不気味さがある。しかもアイヒマンの背後には、炉辺の幸福を守るために、同様の判断を下した無数の顔のない普通の人びとが存在するのである。そしてその無名の肖像は、われわれ自身とはまったく重ならないと、はたしていいきれるであろうか。

 アレントは認めたくはないだろうが、ここにはカントの道徳律の限界――もっといえば、近代的価値観の手には負えない難問が横たわっている。いやむしろ、その帰結としてあらわれてきた「悪」といっていい。
 近代的な道徳秩序を構成する価値観には、こうした事態を規制する契機はふくまれてはいない。

 もう一つ、つけ加えておきたいのは、民族の抹殺という発想は一神教ならではのものではないか、という疑問である。

 ジョージ・スタイナ―に「サンクリストバルへのA、H、の移送」という小説がある。それは生きて隠れていたヒトラーを連行して裁判にかけるという話で、アイヒマン裁判に想を得たものだろう。
 ここでもヒトラーは怪物ではなく、無口な疲れた老人に見える。 ヒトラーは何もいわず何もせず、護送中の退屈な描写がえんえんとつづき、読むのに骨の折れる小説である。しかしそれは作者としては、戦後つづく現代の「倦怠」を象徴する表現であり、そしてなにより最終章のクライマックスを際立たせる効果をねらっているのだとおもう。

 最終章にあるのは、ヒトラーの演説である。そこでかれははじめて口を開き、自分のやったことは、「ユダヤ人が考え出した選民思想のちゃちなパロディにすぎぬ」と語る。「旧約聖書は一つの都市をまるごと殲滅する話にみちているではないか」
 自分の民族を特別なものにすること、その純粋性を穢れから守ること、約束の地を定めること、そこから他の住民を一掃すること、それらすべてはユダヤ人から学んだと、ヒトラーは主張する。
 さらにその後あらわれたイエスは愛の思想によって人類を「去勢」してしまった、といい、「西欧文明全体が病んでしまう前に、ユートピアのウィルスを見つけ出し、焼き殺」すのが「最終的解決」なのだと、自己の行為の「正義」を弁明する。(『ヒトラーの弁明』佐川愛子・大西哲訳)

 むろん、これがそのまま作者の主張なのではない。
 スタイナ―はナチスから直接迫害をうけたユダヤ人なのだ。この小説を世に出すことにはなみなみならぬ勇気と使命感を要したはずだ。当然、手厳しい批判をうけてもいる。
 だとすれば、そこにはユダヤ人として、ヨーロッパを代表する知識人の一人としての、つらく苦い自己批判をふくむ洞察が示されていると考えるべきであろう。

 福田論で私は、キリスト教思想の肯定面ばかり強調してきた。しかし、その暗黒面が見えていないわけではない。

「汝の敵を愛せ」という格率は、キリスト教の歴史的において、どうしても愛せない「敵」があらわれた場合、つねに、「敵」の存在を抹殺してしまうという極端な行動に帰着したのである。愛すべき「敵」がいなくなれば、格率を破ることもない。あるいは、「敵」ではなく「悪魔」ならば、愛する理由はない。十字軍や宗教戦争にしても、魔女狩りにしても、植民地政策にしても、すべて同じパターンでおこなわれている。ホロコーストもその延長線上にある。
 しかしそれは、イエスの本来の思想とはかけ離れたものだ。われわれならば、世を棄て隠遁をえらぶところだろう。
 ところがかれらはそうは考えない。あくまでも「汝の敵を愛せ」という格率を厳格に守らんがための行為としてとらえる。みずからの「正義」をなんとしても押し通そうとする自我――やはり、選民思想とむすびついた一神教にその起源はもとめられると、私も考える。

 ここで注意しておくべきことは、独我論も、意識に還帰する哲学も、社会契約説、自由主義、資本主義、共産主義も、シェークスピアもドストエフスキーも、さらには現代をおおうグローバリズムも、すべてそこを起源としているという事実である。
 他人事ではないのだ。それらは私のパースペクティヴを構成する主要な要素となっている。少なくとも、そうした世界観にとらえられた強固な自我をもつ人々と否応なく付き合っていかなければならない。

 もっとも、われわれ日本人もまた、人間存在の深奥に暗黒の闇を有しているのである。一神教はその暗い闇の力を開放するすべを教えたということにすぎない。


福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。