うまくできなかった。その理由。

その原因は、23年生きて分かった。
自分に素直じゃなかったんだ。

うまくできるようになれる人が羨ましくて、
自分らしさがある人が羨ましくて、
少しでも自分もそうなれるように、できるふりをして、
できもしないのに。

そこに目を背け続けた私に、最大限の優しさをくれたのが、
あの人たちだった。

小・中・高の先生、そして大学の教授。
それから誰よりも母と父、そして妹。

できるようになりたい。何でも、誰よりも。
でも、それはつらかった。あまりにも。
日々生きていくと、いろんな人の良いところが見えて、
それが羨ましくて、でも届かなくて。

なんとかしようとしたけど、なんともならなかった。
だから一番大切だったスポーツも高校でやめた。

周りを言い訳にして逃げることで、自分をまもった。
もちろんそれでいい時もある。だけど、あの時は違った。

年を重ね、次第に自分にできることと、できないことが見え、
ありたい理想との狭間でもがき苦しむ日々。

勝手に自分に課した理想の姿は、事ある毎に自分を否定し続けた。

辞めたさきに、あるもの。
それは果て無く続く、真っ白な地平線。

あの時の僕には、何もないとしか思えなかった。
でも違うんだ。そこにあったのは、あまりに無垢で、子どもっぽくて、
あの時から何も変わっていない自分でしかなかったのだ。

一旦は真似た。御先祖の特技を。
型にはめてみたけど、思ったよりもはまらない。
始めたカメラに映るのは、どこかありきたりな写真。

もちろん、目の前の景色が刻一刻と変わりゆくその瞬間を納めることができた時は気持ちよかったが、それまで。

次にやるのは、放浪。
気になった場所に旅をする。

一旦は十八きっぷを使って、旅をする。
見知らぬ土地を、自分の足で踏みしめるあの心地は忘れられない。
でも、何か足りなかった。

一先ず、私立でバイトもできなかったから、大切なものを諦めたけじめに、
頑張ろうと決めた受験にいそしむ。

友達とのカラオケを断り、(歌も下手だったし、ノリが嫌いだった)
もちろんたまには教室ではしゃいだけど、
もう自分に負けたくなかったから、毎日塾に通った。
それだけで褒めてくれるし、頑張った分結果がでるから楽しかった。
とはいえ、ここにもどうしたって出来ない科目があった。

どこにいっても、どうしようもないと思わせる壁がやってくる。
でもこの時は、今までと違った。
できないところには向き合いつつ、できるところを最大限伸ばそうと。

それが自身になった。
国語は偏差値40だけど、日本史は60獲れた。
なんなら英語も頑張れば行けそうな兆しが見えた。

結局二年間頑張っても、本番で国語が150点中、60点とかくそみたいな数字だったが、英語と日本史でジーマーチの最後の人席に食い込めた。

たぶん、俺より国語できないやつはいなかったと思う。
うん、絶対。

そして時は流れ、大学生に。
でもサークルには入れなかった。なんかなじめなさそうで。

でも何かしなきゃって思って、また旅に出た。
今度は旅先でちょっと働くやつ。

せっかくならと、日本史でしか聞かないような離島にいった。
地元から新幹線を使っても、片道4時間。さらに港から3時間の隠岐の島町。

後鳥羽上皇が流されたその島で、炎天下の中2週間砂浜でカヤックを引きずった。

そこで出会ったのは、10歳くらい年上の悩みし兄貴と、なんかつかめない大人たち。僕が描いていた普通とはちょっと違うけど、でもそれでいいと背中で見せる大人たち。

兄貴が好きな歌手は斉藤和義。彼の唱には、時にさえない凡人の、小さな幸せみたいなのが描かれていて心地よい。

とにかく、圧倒的な非日常の中で、個性的な大地と人々と暮らした。
そしてその町の景色と、空と島で大切にされているという一本の木はどのものよりも美しかった。

あの体験から、同じような旅に取りつかれた。
次は富山の氷見に、そして伊豆諸島の利島に。

確かにそのどれもが素晴らしかったのだけど、最初の時のような心の底からのワクワクや発見というよりも、どこか想定の範囲内だったと思う。

それは後の二つが悪かったわけではなく、隠岐で最大限広がった価値観の器みたいなものが与えてくれた心の余裕みたいなものなのかもしれない。

何が来ても大丈夫と思えるような、(決してそんなことはないと思うけど)
肝を据えてくれたのかもしれない。

道中の雪化粧をした立山連峰や氷見の人々は二年後にリピートするほどの経験だったし、利島で過ごした10日はあの日、拾った椿の実から蒸して、絞ってつけた灯りのようにあたたかいものだった。


そこからまた、しばらく悩んだ。
苦手を克服しつつ、地域のことにからめるゼミに入った。
でも上手くいかなかった。
何より、先輩が話していることがわからない。
いつかの国語の文章みたいだった。

教授の話すことはかろうじで聞けた。
でも、難しかった。わかないことが、どう聞いてもわからなかった。
あの時どうしたらよかったのだろう。
今でも正直わからない。

こんな時になって、大学入ってから地元で始めた野球でコツをつかむ。
いつかそんな風に、あとから分かる日が来るのだろうか。

悩んだ、一生懸命やったつもりだったが、うまく成果が出せずやめた。
とてもじゃないけど、好いものを自分たちで作れやしないのに、世代交代した下の世代たちと作れるわけがなかった。

一方で、大学の終わりは近づく。
悩みの晴れぬままに、就活が近づく。

やみくもに受けまくるなんてメンタルが持たないことはわかっていたから、
自分のことを受け入れてくれそうな場所を選んだ。
そして、ありのままに伝えた。

不器用ながらも、まっすぐに。
幸いオンラインで最後まで行ける就活だったので、緊張しすぎることなく話せた。

そして受け入れてもらえた。
この頃、同時に彼女ができた。

お菓子屋さんで働く彼女もまた、うまくできない自分をわかってくれる。
みんなわかってくれる。

どうしようもなく、根がポンコツで、ぶきっちょ。
でも、自分で言うのもおかしいかもしれないけど、
できなくて悔しい気持ちはわかるし、その人が本音かは目を見ればわかる。
だからこそ、できることはある、かもしれないと今なら思う。

昨日、あんまり話さない職場のBMと面談をした。
その時にいわれたのは、相変わらず今のうちに色々聞いとけよってことと、
何よりも人だからな。何よりも相手のことを想えて、
それでいて誰よりも一番に動いて、誰よりもいい売り場を作る。
そういう人であるのなら、きっとみんなついてきてくれる。
それにそうあろうとするなら、先輩たちも支えてくれるよ。
ここの人はみんな。
って言われた。

好い職場だと思う。
あのゼミになぜ自分が選ばれたのかは分からなかったけど、
この職場に自分が選ばれた理由は何となくわかる気がする。

やらなきゃいけないことと、やりたいことのはざまで、
すぐにはうまくいかないかもしれない。
でも、うまくいったときには、きっと本当にいい会社になる。
そして、お互い様が根底にある、いい社会が作れる。
そんな気がする。

23年たった今も、時々あのまま野球を続けていたら、、
あのままゼミを続けていたら、、とか思わないことはない。
確かにその先にも未来はあったと思うが、
たぶんきっと、いまが一番自分に素直にいられている気がする。

自分を許すことができるようになった。それが一番の違いと思う。
だから、おととい連絡をもらった彼にまた連絡を帰えそうと思う。

中学生のころ、最悪の関係性だった彼から新年早々連絡がきた。
彼がドキドキしながら連絡してきているのは、文面からわかる。
最初は、何をいまさらと思ったけど、
なんか頑張って生きているらしいことはインスタの写真から垣間見える。
高校の時、何度もけんかしたやつと結局はなんやかんや支え合えたその後。
もしかしたら、またこいつと会うことで、よりいい方へと風が吹くかも。

声をかけてくれるありがたさ。
相手の気持ちは踏みにじってはいけない。
5年前の自分なんて、誰からも声を掛けられなかっただろう。
お互い様の気持ちを忘れずに、そして誠実さと素直さを忘れずに
生きていこうと思う。

2024年 1月8日 
世の中は成人式らしい。オメデトウ。新成人。










そういうことを、すべて

自分にできないこと。
上手くやること。器用に立ち振る舞うこと。

だからできること、
不器用な人と共にあること。
誰かがうまくいかない時の、その気持ちを考えること。
決して突き放すことなく、その人のことを大切にすること。

何よりも、人。ヒト。ひと。
目の前の誰かのことを想うこと。

その為に、いつも全力であること。


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