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ウルトラマン素人の正直すぎる「シン・ウルトラマン」感想文

ウルトラマンをわかってない奴が、
うっかりシン・ウルトラマンを鑑賞してしまった


 幼い頃「ウルトラマン」を観たことはあるはずなのだが、「怪獣と戦い、2分50秒くらいになるとスペシウム光線でやっつけ、シュワッチと去っていく正義の味方」くらいしか覚えていない。

「最初からスペシウム光線だせばいいのに」と思った記憶だけは残っている。

 つまり、私なぞ「シン・ウルトラマン」を100%堪能し得る土俵にも上がっていないわけだ。なのに下調べもせずにうっかり観てしまった。

 ウルトラマンのことも特撮のことも、さらには庵野・樋口ご両人のことも何もわかっちゃいないズブズブのド素人が、映画館を出る時に思ったのは「普通に面白かった(棒読み)」だ。

 笑いどころも泣きどころもハラハラドキドキもお色気も一通り揃っていて、現実社会への示唆もあり、何よりも主役のウルトラマンが美しかった。

CGになってイケメン度アップ

「男は黙ってサッポロビール」とか、「自分不器用ですから・・・」みたいな寡黙で強く優しい、古き良きニッポン男児の佇まい。アルカニックスマイルを湛え、怒り、悲しみ、慈愛を全て内包した顔と、スッと背筋の伸びた細マッチョボディも、凛とした色気を発している。

シン・ウルトラマン公式サイトより

 成田亨の描いたウルトラマン の理想像が、着ぐるみではなくCGになったことで結実した感じだ。ただ、「シュワッチ」とさえ言わないなんて寡黙にも程がある。綺麗なCGになって声も出さなくなった分だけ、超然たる存在感が増したものの「来〜たぞ、我ら〜のウル〜トラマ〜ン」的な親近感は薄れた気がする。

成田亨作品集表紙

魅力的な悪役メフィラス

 「〜〜〜。私の好きな言葉です」というメフィラス構文が流行るなど、主役を食うほどに強力なキャラ「メフィラス」を山本耕史が好演していた。

 郷に入っては郷に従えの言葉通り、人間の…いや日本人の特性を深く理解し、溶け込み、知的で慇懃な振る舞いで懐柔していく。すべてが高度に計算づくの冷徹で狡猾なキレ者。

 ウルトラマンより先に地球入りし、綿密に推進してきたプランでも、ゾフィーだかゾーフィーだか知らないが、ウルトラマンの上司みたいなのが登場し、採算が合わないと判断するや、とっとと撤収。「せっかくここまでやってきたのにぃ」みたいな未練もなく、瞬時に損切り決裁する潔さ。

 成功したいビジネスマンは、今すぐメフィラスのビジネスセミナーとか受けた方がいい。根性論、精神論しか吐かない無能な上司より、メフィラスと仕事した方が学ぶことが多そうだ。割り勘でいいから飲みに行きたい。

実在の本ではなくフィクションw

 このキャラを憎むべき悪役として配置しなかったことは、この作品の見所のひとつだ。「コイツ怖ぇ〜」とは思っても、「心底嫌い!クズ!」と唾棄する人は案外少ないのではないだろうか?

 腹黒いと分かっていても、どこかユーモラスで抗い難い魅力がある”人たらし”。嫌いじゃない。

神永、ウルトラマン、そして禍特対の人々

 脇役であるメフィラス があんなにキャラ立ちしてるのに、ウルトラマンと融合する主役の神永が一体どんな人物なのか一切描かれていない。さらに言えば、ウルトラマン自身の人格?性格?もよくわからない。

 肝心の2人のキャラと背景がボヤっとしてるために、せっかくCGであんなに美しくなったウルトラマンが、外見だけで中身空っぽに見えてしまう。

 そもそも「地球で怪獣が暴れてるから退治してこい」という辞令があってやってきたのだろうが、降着時に自分のせいで神永が犠牲になったことに罪悪感を覚えたのか?あるいは”他者を守るための犠牲”という概念に興味を抱き、人間との融合という掟破りをやらかしちゃったのかもしれない。

 外星人が人類よりも遥かに高い知能と文明・テクノロジーを有しているならば、非力ながらみんなで力を合わせ、勤勉に、秩序ある社会を必死で守っている人間たちは、彼らから見たら”アリンコ”みたいな存在なのではないだろうか?

 以前、南国のプールサイドで食べこぼしたビーフジャーキーの欠片を一生懸命に運ぶ蟻の群れを眺めていたことがある。その時の「コイツら健気に頑張ってんなぁ」と食べカスを投げてやった私の超・上から目線は、ウルトラマンが人類に向けたものと同じだったかもしれない。

 自分たちがその気になれば、ひとたまりもなく滅びる小さな命に共感し、かわいそうだから守ってやろうとしたのだろうか?故郷の掟に背き、自らの命を捨ててまで????

 いやいや、おかしいでしょ?

「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン」で済ませる問題じゃなくない??

 ウルトラマンがどんなに真面目でピュアであっても、僕もアリンコになってエンパシーを感じてみようと思う?さらにアリンコのためなら死んでもいいと思うことを愛だ、ロマンだと言われたらちょっと引く。

 アリンコのような市井の人々の営みも申し訳程度にしか描かれていないし、神永をウルトラマンが融合するに値する人物としても描けないのなら、いっそのこと長澤まさみ演じる”地球美人に一目惚れしちゃいましたぁ”の方がまだ「恋は盲目」ってことで納得できる。

 その他、禍特対の人々も、政府の人々も人となりがほとんど描かれていない。ただのゲームの駒みたいだ。禍特対はただ右往左往するだけでこれと言った活躍もせず、何もかもウルトラマン頼み。人類の叡智を出し合い、協力しあって問題に立ち向かっていくというカタルシスもない。

 最後の最後に物理学者の滝が、ウルトラマンが残したヒントを元に世界中の学者とVR会議で見出した作戦もイマイチ盛り上がりに欠けた。何よりもラスボスとの戦闘シーンがもうショボ過ぎて、手に汗握るような緊張感も皆無。

 だが、それもこれも初代へのオマージュ、リスペクトとして”ノスタルジア”が吸引していく。ノスタルジアの吸引力はダイソンの比じゃない。ブラックホール級だ。

主成分はノスタルジアとオタク魂

 この映画の主成分は、ウルトラマンや特撮への濃厚な思い入れがグツグツに煮込まれたノスタルジアだ。おそらく作り手もオタク魂を余すことなく発揮し、観客と同じ目線と感性の噎せ返るほどの熱意で作ったに違いない。各々の情熱が熱すぎて作品そのものがとっ散らかってしまうほどに。

 この主成分が作品の大半を占めているため、人物描写の希薄さや、映像でわかることまで全部セリフで喋るバカっぽい脚本やリアリティのない設定、安っぽいアクションシーンや大味な演技、悪ふざけ気味の時代錯誤で陳腐な演出もすべて、”ノスタルジック”に昇華する。

シン・ウルトラマンはそれでいいのだと思う。

 だって、元は昭和の”子供向け”テレビ番組なのだ。幼稚なのは当たり前。それに夢中になっていた子供たちが大人になって、あの頃を懐かしむ同窓会映画ではないか。童心に帰って何が悪い?目を輝かせてマニアックな感想を吐き出して何が悪い?

 大人たちは懐かしい怪獣、懐かしいシーン、懐かしい音楽が詰め込まれた玉手箱を、大切に映画館から持ち帰るのだ。

 もし、シン・ウルトラマンをトップガンマーヴェリックのチームが200億円かけてリメイクし、どんなにクオリティがアップしようとも、「こんなのウルトラマンじゃない!」となり、ここまでのヒットにはならないだろう。

 ハイスペックEVとなったデロリアンの新車が、「こんなのデロリアンじゃない!」とバックトゥーザフューチャーのファンにそっぽを向かれるように。

 ノスタルジアとは、楽しかった思い出とそれが過ぎ去ってしまった寂しさが入り混じった複雑な感情だ、接触頻度が高く、また時間が空けば空くほどその濃度は高まると言う。

 その心理学的効能は思いのほか多く、映画だけでなく音楽や街づくり、広告、商品開発などにもレトロブランディングとして多用されている。

・心の防御作用と身体的ホメオタシス機能
・退屈さを軽減し人生の意味を考えることの促進
・孤独感を低め社会的つながり感の向上
・社会的態度を変化させる機能

日本心理学会:なつかしさの心理学より

 ノスタルジアは後ろ向きな懐古趣味ではなく、懐かしむことは癒しであり、ポジティブさに繋がる効果があると言うわけだ。次から次へと往年の名作のリメイクや続編が作られるのも肯ける。

ノスタルジアに反応しない人にとってはただの駄作?

 ウルトラマンの原体験がなくても、あのチープな特撮っぽさをエモい!と喜ぶデジタルネイティブの若者もいるだろう。それはクリームソーダをレトロなエモさとして珍重するのと同じだ。

 つまり、この作品の90%位を占める主成分”ノスタルジア”に対し、どれだけの受容体があるかで評価が分かれるのだと思う。

 シン・ウルトラマンはシン・ゴジラのように単体では成立せず、初代全39話をすべて覚えるほど観てからじゃないと、その真価はいつまでたっても味わえないのかもしれない。

 顔洗って出直してきます!

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