《発展する面白さ》という体験価値を与えるシェアリングスペースに、行動力を伴わない批評家がいると困るという話。

自分が《住み開きの古民家「ギルドハウス十日町」》を設立してから1年半が過ぎました。これまで延べ4,300人を超える訪問を受け、相変わらず、ゆるやかながらも刺激的な毎日を過ごしています。

くるひと来る人の話を正面から受けとめたり、もしくはみんなの会話を少し離れたところから聞いてみたり、その姿勢はさまざまです。

そんな1年半で感じたことのひとつに、「行動力を伴わない批評家がいると困る」ことがあります。

そういえば、先日のニュースでの東京都知事の発言が良かったです。

「みなさん一人ひとりが批評家ではなくて実際にプレーヤーとなって ...」

ギルドハウス十日町に集う人の多くは、プレーヤーもしくは冒険者の部類に入ると思うんです。そこに行動力や挑戦を伴わない批評家タイプの人が混ざると、とたんに言い合いになるというかコミュニケーションがギクシャクし始めます。

プレーヤーとか冒険者と言っても、常にあちこち動いているとは限りません。普段のんびりしているようで、きっかけさえあれば驚くほどの行動力を見せる人もいます。

ギルドハウス十日町では、そんなきっかけを得られる機会が多いゆえに、毎日いろんな出来事が起こるわけです。たとえば茶の間での食事中に誰かが言った些細な発言から、その場のノリで盛り上がり、具体的な企画として実現することもよくあります。

ところが、そこに前述の批評家タイプの人がいて「〇〇〇だから難しいよ」などと出来ない理由だけ言われると盛り下がってしまいます。

ちなみに、批評家タイプの人も居ていいと思っています。いろんな視点から革新的な物事が生まれると考えているからです。自分にもそうした助言のおかげでいい具合に展開できた経験がいくつもあります。

しかしながら、経験や行動力を伴わない知識だけに偏った人の意見は、個人的な経験上、いいことはありませんでした。ひどい場合、その人と距離を置くことになったことも。

そんな人との会話では、たとえば

「東洋大学の初代学長って、新潟県出身なんだよね」

といきなり言われても、

「へえ、そうなんだ」

で終わると思います。

さて、これをどう変えればギルドハウス十日町っぽいかというと、

「東洋大学の初代学長って、新潟県出身なんだけど、明治初期に妖怪を科学的に検証した人らしいよ。

江戸時代までだと暗い夜道に出るだなんて、まことしやかに語られていた妖怪だけど、その人は科学的な検証を通して明治時代に始まろうとしていた日本の近代化を推進しようとしたんだね。

あなたがやろうとしていることって、なんだかその人に似ているかな。もしよかったら東洋大学の記念館に知人がいるから話してみる?なにかヒントが得られるかもしれないよ」

なんだか長ったらしくて、まったくギルドハウス十日町っぽくない気もします。。。すみません。もっといい例えを思いつけばいいんですけど、ご容赦ください。

つまり何が言いたいかというと、なんらかの行動につながる発言かどうかなんです。その人の背中をそっと押すような羅針盤というか道しるべになる、思いやりのある言葉。

そんな意図もなく、いかにも雑学王よろしく知識をひけらかされても普段の発言がそればかりだと「へえ、そうなんだ」で終わります。挙げ句の果てには会話しなくなったり、経験したわけでもないような知識だけの言い合いで建設的でなくなるでしょう。

ギルドハウス十日町のような場でシェアすべきものは《行動を伴う事柄》だと思います。そこから発展する面白さが、ここでの大きな体験価値だからです。もちろんどうでもいいおしゃべりもあって然るべき。大切なのはバランスでしょうか。

自分がこれから年老いても頭でっかちにならず《老害》などと言われないように。何もしない人や自信のない人ほど批評家になりやすいそうなので、いつまでもしなやかな雲のように行動を起こしながらゆったりと隠居していきたいものです。

よかったらサポートをお願いします。もしくはギルドハウス十日町へ遊びにいらしていただければうれしいです。