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日本の国民的ボーイズグループ『SMAP』について

SMAP』は、1991年にジャニーズ事務所からデビューした男性アイドルグループ。グループ名は「Sports Music Assemble People」の略であり、「スポーツと音楽の融合」、「スポーツと音楽をするために集められた人々」という意味で名付けられた。活動は28年間に及び「国民的グループ」・「日本の宝」・「日本のビートルズ」等と称された。総売り上げ枚数は3500万枚以上を記録しており、日本の男性アーティストではB’z、Mr.Children、GLAYに続く4組目の快挙となっている(2000年代後半~2010年代に嵐がブレイク、全盛期を迎えるまでジャニーズ事務所のアイドル及び日本の男性アイドル史上で最も成功を収めたアイドルグループだった)。

スケートボーイズ名義時代のSMAPのメンバーたち

1987年、ジャニーズ事務所の創設者であるジャニー喜多川は光GENJIの成功の後、「ローラースケートの次はスケートボードだっ!」と考え、「第2の光GENJI」を計画する。スケートボードに乗りながら歌って踊れるコンセプトのアイドルグループとして結成された『スケートボーイズ』がSMAPの前身として知られている。メンバーは定まっておらず、延べ20名近くのメンバーが参加していた。

デビュー前のSMAPのメンバー6人が出演するコマーシャル

1988年4月、スケートボーイズの中から6名が選抜され、「SMAP」が結成される。当初、グループ名は「Skateboard(Skate Boys) Music  Assemble People」=スケートボードと音楽をするために集まった仲間たちといった意味だったが、次第にグループの方向性がスケートボードからバラエティ路線(ドラマ、コメディ、スポーツなどマルチな活躍をするグループになった)へシフトしたため、現在の意味合いになった。またSMAPとなってからもしばらくスケートボードのコンセプトは継続された。

現役当時のSMAPメンバー6人

結成から3年を経て、1991年9月9日、シングル『Can't Stop!! -LOVING-』でメジャーデビュー。セールスはデビューシングルとしては事務所始まって以来最低の15万枚で、アイドル業界全体が下火となる中で音楽番組も次々と打ち切られ、事務所もSMAPの売り出し方について確たる方針を定められないでいた。 この状況を打開したのが、当時事務所の事務職員だった飯島三智である。飯島はSMAPのマネージャーに志願すると、それまで事務所が距離をとっていたバラエティ路線にSMAPを積極的に売り込み、1992年に放送開始の『夢がMORI MORI』では本格的なコントなどに挑戦した。翌年の1993年に発売した10枚目のシングル『$10』ではデビューからのポップなアイドルソングとは一変して大人な内容の楽曲を歌い人気を集めた。1994年に発表した12枚目のシングル『Hey Hey おおきに毎度あり』ではグループ初のオリコンシングルチャート1位を獲得したが、関西弁の歌詞とコミックソング的な作品だったこともあって大衆的にはあまり良い評価が得られなかった(当時は一般的にも、メンバー本人たちもダサい歌、変な曲といった評価が多かった)。次作の『オリジナルスマイル』も発売当時は話題にならず、ごく普通のアイドルが歌っているアイドルソングといった印象しか残せなかった(この曲は発売から17年後の2011年に東日本大震災が発生し、みんなを勇気づける曲として再評価され、人気が出た)。そしてデビュー3周年のときに発売されたシングル曲『がんばりましょう』がそれまでに発売されたシングルの売上枚数を突き放す記録を叩き出し、グループの人気上昇に大きく貢献した。この曲からSMAPはブレイクした。

SMAPの2TOPと呼ばれた森 且行と木村拓哉

SMAPの2TOPと言えば現在では中居正広と木村拓哉というイメージを持っている人たちが多いが、本来はルックス、歌唱力、ダンスなどが優れていた森 且行と木村拓哉を指す名称だった。この2人はSMAPのツインボーカル的存在であり、楽曲でも歌うパートが多く、一番人気があったため、森と木村のコンビで2TOPと呼ばれていた。以後、1996年に森が脱退した後、年長者である中居正広と木村拓哉の2人が2TOPと呼ばれるようになった。

3人ずつに分かれた衣装を着用していた6人時代のSMAP

また6人時代のSMAPは、先輩グループの光GENJIや後輩グループのV6などのように木村・稲垣・森の3人をドラマチーム、中居・草彅・香取の3人はバラエティチームと呼ばれていたことがあり、衣装も3人2組に分かれて着用していたこともある。

6人組体制で活動していた頃のSMAPメンバー6人

1994年のブレイク以降、SMAPはドラマやバラエティにも積極的に進出し、確固たる地位を築き始める。1996年からは、フジテレビ系で冠番組の『SMAP×SMAP』が放送を開始。コント等のバラエティ企画と音楽ショーの二部構成のフォーマットにすることにより、身近な親しみやすさとスター性とをあわせもつ存在であることがわかりやすく示された。こうしたSMAPの「音楽とお笑い」の両立路線は、かつて戦後の昭和期において音楽、テレビ、映画など様々な分野で活躍し、オールラウンド型の音楽グループとして国民的な人気を獲得していたクレージーキャッツ(植木等)、ザ・スパイダース(堺正章)、ザ・ドリフターズの路線を受け継ぐものであったとの指摘もある。また1998年に発表した27枚目のシングル『夜空ノムコウ』は自身初のミリオンヒットを記録。この曲が世評に合致してヒットすることにより、1990年代末にはSMAPは全世代の支持を受けることになる。以後、メンバーの年齢が20代後半~30代となり、アイドルとしての年齢(全盛期)を過ぎた後は、グループのターゲット(ファン層)を高齢者層にも拡大し、2000年の『らいおんハート』や2003年の『世界に一つだけの花』など子供やお年寄りでも歌いやすい、簡単なメロディーに乗せて歌われる楽曲やバラード調の楽曲を多く発表するなど音楽面でも変化を見せた。

■日本国内のアイドルに与えた影響

SMAPに影響を受けたアイドルグループの一例

SMAPの活躍は、TOKIOや嵐などのジャニーズ事務所の後輩グループだけでなく他の芸能事務所の男性アイドルグループ、女性アイドルグループにも影響を与えた。ライジングプロダクション所属のDA PUMPやw-inds.、そしてLDH所属のEXILE系列グループ、男女混成パフォーマンスグループのAAAなども歌手活動だけでなく、バラエティ・ドラマ・映画・ラジオ・レギュラー番組などSMAPの遣り方をベンチマークして成功した例である。

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