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「詩」としての哲学——理性ではなく「想像力」重視の哲学

「哲学って、難しいことをゴチャゴチャ言ってるだけじゃないの?」と思っている方もいるかもしれません。まぁ正直そういう側面もあります。「真理探究」の学(Wissenschaft)としての哲学(Philosophie)においては、かなり込み入った議論が行われているからです。

ただ、そのような自分の意思には関係なく定まった対象(例えば客観的真理)を把握しようとする哲学以外にも、哲学の活動領域は拡げられるはずだと僕は思うのです。

本記事は、冨田恭彦『詩としての哲学』を頼りに、「可能性を想像するための哲学」について紹介したいと思います。加えて、ハイデガーの後期思想について触れようと思います(僕がハイデガー重視なのはもはやお約束)。


1. 従来の哲学 ソクラテス&プラトン由来の哲学

哲学という活動は、学問的には古代ギリシアから始まったと言われます。んで、特に有名なのがソクラテスとその弟子プラトンのペアです。

彼らは「ほんとのこと」って何だ!?と考えました。

「〇〇とは何か」という問い――例えば「正義とは何か」「善とは何か」という問い――を立て、「〇〇そのもの(〇〇のイデア)」を希求するのがソクラテス&プラトンペアの思考法です。彼ら的には、このように「真理を問うこと」や「本質を問うこと」こそ哲学だったのです。

冨田さんは、ここにはある前提があり、その前提が人間を苦しめているのだと考えます。すなわち、真理は定まっていて人間はそれを正しく認識しなければならないという前提です。

もしこの前提が妥当であるとすると、「真理」に即していない生き方は無駄とか、役に立たないとか、誤りということになりかねません。「これがホントです」と言われるような認識や生き方以外はすべて否定的評価を下されないといけないんですか???と冨田さんはツッコンでいるわけです。

私たちは私たちの意思とは関わりなく定まった特定の目標に向かうべき存在なのではなく、自らどこまでも道を切り開いていく可能性を持つ創造的存在である(6頁)。

よりよい未来を創造するため、過去を乗り越えるための「新しい物語」を構想するための営みも「哲学」と考えられるはずです(185頁)。

2. ハイデガーはポエマー「詩」と「哲学」

ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーはその主著『存在と時間』以後、「思索」(Denken)と「詩作」(Dichten)とを重ね合わせ、自らの思考が持つ「思索」としての性格を強調しました。詩と哲学ってあまり結びついていない気がしますが、ハイデガーは「似てるで!」というわけです。彼の言い分を見てみましょう。

ハイデガーの後期思想では、一人の人間の詩的営為とともに、それを導く自分以外の何か――すなわち「存在」なるもの――が、常に思索者の相関項として取り上げられます。「詩」と「存在」という両者の緊張関係が、後期思想を特徴づけているのです。これは、『存在と時間』の頃に現存在(人間)の分析を頑張ってやっていたのとは趣が異なることがわかるでしょう。

ハイデガーは、ドイツの詩人ヘルダーリンを好んで取り上げました。彼は1934-1935年の冬講義においてヘルダーリンを取り上げ、次のように述べました。

詩作とは、存在[ある]を言葉によって作り出すこと(Stiftung)である(79頁)。

ハイデガーによれば、詩作とはあらゆるものの存在と本質とを命名しつつ作り出すこと(das stiftende Nennen)なのです。

1936-1938年の『哲学への寄与』では「存在を探究する者」=「思索者」は、存在を作り出す「詩人」として考えられています。

1946年の『ヒューマニズム書簡』においては、人間は言語の「番人」であると言われます。(言い回しがかっこいいですね。)

ハイデガーによれば、詩人と思索者(後期ハイデガーは存在を考える人のことを”哲学者”ではなく”思索者”と呼んだ)の語りこそが、存在の「開示性」(Offenbarkeit)を成就させるのです。

3. 冨田さんからの批判とその応答

そんなハイデガーを冨田さんは2つの点で批判します。

1つは、人間ならざる「存在」に人間が従わなければおかしいとハイデガーが考えている点です。よくわからない「存在」に何で人間が従わないといけないんだ!という批判です。

もう1つは、ハイデガーは自らを、西洋の形而上学を「思索者」(Denker)として全体的に把握できる者であると特別視している点です。そんなにお前は偉いのかっ!と批判しています。これは、アメリカの哲学者リチャード・ローティーのハイデガー批判が援用されています。

僕はハイデガーの支持者なので、ハイデガーの立場に立って、冨田さんに応答しようと思います。

ハイデガーは人間が「存在」の言いなりにならないといけないと述べているのではなく、「番人」としてちゃんとお勤め果たしてねと言っているのです。つまり、人間の「言語」や「存在」へのそのつどの態度が大事(自分が存在できていることの有難さの自覚が何よりも大事なんだから調子乗るなよ)と主張しているわけで、これは固定的な真理に従うという態度とは根本的に異なります。

またハイデガーは「存在者」と「存在」を区別して西洋哲学史を捉え直したという点で、その功績は十分すごいんじゃないかと思います。つまり、人間の考えの歴史(西洋哲学・思想史)をひとまとめにして捉えるための観点をハイデガーが導入したのは、人間の思索の対象を別の対象に、さらに言えば異なる次元へと移行させる狙いがあったのです。単に「全体を捉えたい」という動機で思索したのではなく、他者の世界(いま・こことは異なる可能性)を拓くための思索だったのです。

思考の材料

参考文献

その他

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

※2024/3/25(月)に一部加筆・修正しました

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