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「異なるが、同じ」と置く等価性の原理が意味分節システムを発生させる -中沢新一著『レンマ学』を精読する(11)

中沢新一氏の『レンマ学』を精読する連続note前回に引き続き、第十一章「レンマ派言語学」の後半「詩的言語とレンマ学」(p.293)から読んでみる。

詩的言語は心/脳でのアーラヤ織の形成とそこに発生した人間の言語の本質に、「喩」によって肉薄していこうとしている…

中沢新一『レンマ学』p.293

キーワードは「アーラヤ織」と「」である。

アーラヤ識

アーラヤ織というのは「レンマ学」の中でも重要な概念の一つである。

アーラヤ織は人間の神経系-脳に生じる二つの動きが絡み合うことよってその姿を現す。

アーラヤ識の第一の動きは区別をする(分別する、分節する)」ことである。アーラヤ識もあくまでも「識」である。

それと同時に、アーラヤ識の第二の動きは、第一の働きが区別した何かと非-何かを結びつけ「別々なのだけれども、同じようなものとする」ことである。

違うとすることと、同じとすること。

○ / ○

この二つの動きが組み合わさることで、他と区別された一々の項目同士が互いに前後の項目と結びついて一列に並ぶことになる。

発声されたり書かれたりする、私たちがふだん言葉だと思っている互いに異なるものとして区別されたシンボルの配列としての「言葉」の姿はここから生じる。

即ち、「SVO」構造のように単語がチェーン状に一列に並んでいる言葉の姿である。

言語学ではこの一列に並ぶことを連辞軸(シンタグマ軸)と呼ぶ。

言語行動では範例軸から選び出された語彙項目を、連辞軸において統辞法的に結合して文をつくる

中沢新一『レンマ学』p.295

そして一列に並んでいる個々の語を、他の語から区別しつつ、潜在的に互いに交換可能なもの・置き換え可能なものとして蓄えているところ範例軸(パラディグマ軸)と呼ぶ。

このパラディグマ軸における、区別しつつ同じようなものとしてまとめておく働きこそ、アーラヤ織の二つの動きそのものである。

「お店、行かれたんですね」

などと理路整然と語る一列に並んだ単語たちは、これぞ言葉!という感じだけれども、実はこれは言葉の”表面”の姿、目に見える姿である。

ちなみに「お店、行かれたんですね」はとあるカップ麺のCMのセリフである。

なぜか5歳の長男が、「お店、行かれたんですね」のくだりを気に入ってしまい、「行かれたんですね!」を連呼している。

よく観察していると、母親に叱られたことに対して「ママ!イカれてる!」とやり返している。

どうやら「イカれてる」と「行かれてる」がその音の同一性により一緒になっていたらしいのである。

こういうのがレンマ的知性である。

長男は「お店、行かれたんですね」と言いながら、頭の中では「お店がイカれてる」…「イカれたお店」なるものをイメージしていたということだろうか。イカれたお店、どういうお店だろうか。店主が○○○○で、○○しながら○○しており、客が○○○○○すると、突然○○しながら○○してくるとか、それは確かにおもろい。

ちなみに私はといえば、このCMをずっと「赤いきつね」のCMだと思い込んでいた。競合他社の商品と混同してしまい申し訳ない。

表面の言葉の、その"下"に隠れた”深層”では、「区別をする(分別する、分節する)」動きと、「別々なのだけれども、同じようなものとする」動きが、絡まり合いながどろどろと蠢いている。

一列に整然と並んだ表面の姿からは容易に窺い知ることができない「カオス」あるいは丸山圭三郎氏のいう「カオスモス」である。

詩的言語

この深層で蠢く区別することと同じとおくこと、この二つの動きの影を、表層の一列に並んだ語たちの間に浮かび上がらせるのが、詩的言語である。このことについて中沢氏は次のように書かれている。

詩的言語は、言語が分別的なロゴス機能だけでなく、無分別的なレンマ昨日との直交補構造的な合成態としてできている事実をあきらかにする言語行為と言える。

中沢新一『レンマ学』p.296

ここで「喩」の話になる。「喩」は比喩の「喩」である。

比喩というのは、ある何かを他の何かに「たとえる」ということである。私たちは「コレは、まるで〇〇のようだ」などと例えてみることで、「コレ」について何か「分かった」ような感じを覚える。

「分かった」というのがキモである。

私たちは、何らかの謎の「コレ」を、「良いー悪い」「食べられるー食べられない」「動くー動かない」といった区別・分別・分節され対立関係をなすペアのどちらか一方と「同じ」と置く。「コレ」を、良いー悪い、などなど、何と何でも良いのだけれども、対立するペアのどちらか一方に振り分けることで、「コレ」について「分かった」と感じるのである。

これは先ほどのアーラヤ織の第一の動きと第二の動き、そのままである。

まず「コレ」を「コレ」以外の他のものから区別する動きが動いている。また別のところで良いと悪いのような区別をする動きも動いている。こうしたいくつもの区別する動きが無数の対立関係を区切り出すこれがアーラヤ織の第一の動きであった。

そしてある対立関係にある両極のうちの一方が、別の対立関係にある両極の一方と「同じようなもの」として置かれる。これがアーラヤ織の第二の動きであった。

こうして最少四つの項の関係からなる、意味分節の素が出来上がる。

上に引用した『レンマ学』に書かれているように、「喩」において生じていることをつぶさに観察することで、アーラヤ織に、アーラヤ織の動きに「肉薄」することができるのである

等価性の原理

アーラヤ織が「区別をする(分別する、分節する)」こと、と、「別々なのだけれども、同じようなものとする」こと、この二つの動きの絡み合いであるという話を『レンマ学』の言葉で読んでみよう。

範例軸にはレンマ的知性が強く作用している。そこでは無分別的な「理法界」の様態が支配的である。理法界は事物の差別相ではなく平等相を示す知性である。…詩的言語では、この等価性=理法界の作用を、選択の軸(範例軸)から結合の軸(統辞軸)へ強力に投影して、それによって詩的テキストの全体を統一するのである。

中沢新一『レンマ学』p.295

範例軸(パラディグマ軸)において、さまざまな語を別々なのだけれども、同じようなものとするのがレンマ的知性の「等価性の原理」である。

レンマ的知性を特徴づける等価性の原理というのは、一体どこから現れたのだろうか?

もともと等価性の原理など存在しない分別分節一辺倒の世界に、あるとき何かの大事件が起きて、突然、スペシャルな力である等価性の原理が動き始めたのだろうか?

この問いに対する答えは「んなわけあるかいな(いいえ、違います)」である。

何が違うかというと、問題の立て方が違う。この問題を構成している語と語の対立関係の重ね方では、等価性の原理の由来を分節できないのである。

「等価性の原理」と「等価性の原理ではない原理」を区別する。

ここまでは良い。

また、「ある」と「ない」を区別する。

ここも良い。

そして時間的な「前」と「後」を区別する。これも良い。

しかし次で間違える。

「等価性の原理」を「前」に重ねて、そして「ない」とも重ねる。そして次に「等価性の原理」を、「後」に重ねて「ある」に重ねる。こうすると元々なかった「等価性の原理」というものが、どこからか出現したという具合に分節してしまえるのだけども、コレが間違いである。

「等価性の原理」は最初からある。もともと等価なのである、

しかしそれを人間の心が、その合理的な「ロゴス」が「理解」しようとすると、前後とか、原因と結果といった二項対立関係を持ってきてしまい、その対立関係の中のいずれかの項を「等価性の原理」そのものとして置いてしまうのである。

等価性の原理は、前ー後の区別のどちらか一方だけと重ねられるものではない。等価性の原理は「前」とも重なるし「後」とも重なる。前後どちらとも重なるということは、等価性の原理は、あるーないの区別で言えば、ずっと「ある」の側と重なっている。等価性の原理は分節以前、二項対立以前なのである

『レンマ学』の関連する記述を参照してみよう。

レンマ的知性は縁起の理法によって全体運動する法界の純粋な表現である…。それはまず縁起と生起によるので(一)空有構造をなし、それによって「相即相入」によって互いに縁起の全体運動を行う。…(三)縁起する諸事物には同一性がなく、その本性は空である。それゆえ縁起を理法とする空間は無限の差異性によって成り立つことになる。

中沢新一『レンマ学』p.297

等価性の原理は、最初はバラバラ別々に存在するものを、後からまとめる原理ではない

事態は逆で、最初から”ひとつ”なのである。もちろんこの”ひとつ”は均質で平坦で一切の差異を拒否する一者ではない。この”ひとつ”は「運動」している。どう運動しているかというと、無数の差異を生じるように運動している。

もともと”ひとつ”だったところに差異が生じ、互いに他と区別されるある事物がその姿を浮かび上がらせる。

バラバラ別々に存在する事物たちというのは、”ひとつ”が示す差異化の動き、区別する動きが残した影というか波紋のようなものである。これが「諸事物には同一性がなく、その本性は空」ということである。

バラバラ別々にそれ自体として存在するかのように見える事物たちは、もともと"ひとつ"だし、バラバラの相で見えていながらも”ひとつ”であり続けている。このことを諸事物は「相即相入」しているというのである。

後か先かという話で言えば、最初からひとつ、等価なのである。

ただしそのひとつ、一者は無数の差異を生み出す運動であり、らにその差異化の動きを反復することがある。そうであるが故に互いに他と区別される事物という相をいくつも生み出され、バラバラな世界、生死や善悪、物質と精神やあれやこれやが厳然と「分けられた」秩序あるコスモスが厳然と存在するという雰囲気を醸し出す。

言語は、この”ひとつ”でありながら差異化し、差異を際立たせつつ相即相入する「法界」あるいは「純粋レンマ的知性」の二つの動きとそっくり同型なのである。

このことを中沢氏は「言語能力の基礎は、このように心そのものである法界の理法に根ざしている」と書く(中沢新一『レンマ学』p.298)。

つづく

前回の「『レンマ学』を精読する」はこちら

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