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ロゴスの生成変容をレンマでモデル化する科学へ -中沢新一著『レンマ学』を精読する(12)

中沢新一氏の『レンマ学』を精読する連続note。今回は「第十二章 芸術のロゴスとレンマ」と「エピローグ」を読んでみる。

今回のところに直結する一つ前のnoteはこちらです。

喩の力、相即相入

『レンマ学』305ページに次の一説がある。

「ホモサピエンスとしての人間に特有な「的」言語が発生する。それまではどの生物もコミュニケーションのためにある種の「言語」を用いていたが、そこにはまだ「相即相入」の原理が十分な自在さを持って組み込まれていないので、表現と内容が分離していなかった。そのため彼らの「言語」には象徴能力が欠けていた。」(中沢新一 『レンマ学』p.305)

他でも書いたけれども、人間の言語も表面的には動物たちのコミュニケーションと同じように表現と内容の一致を保ち分離しないように努めている。

そうしておかないと日常の現実世界に関する情報を効率的に伝達できなくなってしまうからである。りんごのことをみかんだといえば間違っていると言われ、馬のことを鹿だといえば馬と鹿の区別ができない人だと言われるのが日常の世界と、それにピッタリ一致したかのような顔をしている言語の表面である。

しかし人間の言語には深層の動きがある。

深層の言語の動きでは、語と語は相即相入しあっている。そうであるからある語が他の語の代わりをしつつ、しかし元々の意味も同時に引きずって居るために、二つ意味が重なりつつ一つのことを現すという象徴表現、比喩表現ができることになる。

動物の場合は、それぞれの感覚神経系が分節・分別・区別の処理を通じて動物の身体の内部に構成した”外界についての内部"情報に浸りきって生きている。元々「一つ」である動物とその外部環境の全てが連続したこの世界を、「食うか食われるか」の野生の動物は自他の区別を先鋭化する差別相で生きている。レンマ学の言葉でいえば、動物においては法界は事法界の様態を示す。

ところが人間の場合、動物と同様にそれぞれの感覚神経系が分節・分別・区別の処理を通じて生産した”外界についての内部"情報が、脳内で、改めて互いに結びつけられる。そうすることで仲間を食べてしまったジャガーのことを「あれはご先祖の生まれ変わりなのだ」と、喩えて言うことができるようになる。レンマ学の言葉でいえば、人間においては法界は事法界の様態を示す一方で、理法界、理事無碍法界、事事無碍法界の様態をもまた示すのである。


ここで相即相入を引き起こしているのは、特定の語と特定の相手方の語との等置関係を予めコード化する何かではない。この倒置関係をコード化という話は、先に区別・分別があって、つまり最初から別々であることを前提として、その上で、後から、別々のものをつなぎましょうという話になっている。

しかし「相即相入」はそういうことではない。

相即相入は区別・分節の後に続く処理ではない。また相即相入は区別・分節の「前」にあるというのも違う。相即相入と区別・分節は一つのことの二つの様相なのである

これに関して『レンマ学』には面白い一節がある。

「西欧の言語学なら四項的な空間秩序として表現する連辞の秩序範例の秩序として示すところを、中国の芸術理論では陰陽の変動運動を現すダイナミックな回転として表現した。」(中沢新一『レンマ学』p.316)

陰陽、太極図による表現は、なんといっても「ダイナミック」である。

二つの軸、直線の直交として描かれる下のような図式は、どうしても互いに対置されたそれぞれの「○」が、あたかもそれ自体の自性を持った所与の存在であるかのような印象を与えてしまう。

○-○
| |
○-○

この図式は、元々他と違うものとして区別されて存在する○たちが、後から、二次的集まって構造化された、という読み方を許してしまうというのである。

しかし、ヤコブソンにせよ、レヴィ=ストロースにせよ、この手の図式で訴えようとしているのは、ある「○」を他の「○」と区別し、区切り出すことで生産しつつ、ペア関係に結日つける「|」の作用・動き・働きの方である。しかしこの動きが、「○」と「|」ではうまく表現できないもどかしさがある。

これに対して、太極図は、最初から回転運動そのものを表現している。回転運動が残す影のようなものとして、両極が、二つの「○」が生まれる。


 ー区別を反復する。(○と○を区別することを反復する)

 ー置き換えを反復する。(○→○'の重ね合わせを反復する)


この二つの反復を通じて、システムが自己組織化する。

神話のシステム、言語のシステム、音楽のシステム、数学のシステム。

あるいは生命のシステム。

区別と置き換えが反復される上で、その反復が「揺らぐ」ことを可能にする喩の力。それは言語専用のアルゴリズムということではないし、言語システムの下部モジュールでもない。喩の力は、詩的言語を生み出すこと、数を数えること、音楽を生み出すこと、神話を語ること、そして神という観念をも、一挙に可能にしたのである。

いずれも、区別し、並べていくシステムであり、その区別されて並べられたものたちの系列を重ね合わせ、その重ね合わせ方をずらしていく動きを止めることなく続けている。

「生物はどれも「自己」の意識を持っていて、原始的なものから高度なものまで、あらゆる生物が「自己」と「非自己」を分別するのである。(中沢新一『レンマ学』p.327)

自己と非自己、自分と自分ではないもの。その区別をすることが生物にとっての、生命にとっての出発点である。

しかしその出発点の手前には、とにかく「無分別」がひろがっている。

「その(自己と非自己の分別が生じた)とたん生物の心の中で「レンマ的知性」と「ロゴス的知性」への構造組み換えが起こる。この過程を大乗仏教では「無分別」の知性が、自我意識という客塵煩悩によって、「分別」的知性に瞬間的な変化を起こし、その時から生物としての煩悩を感受するようになると考える。これが『華厳教』に始まる如来蔵的仏教思想の生命-意識論の核心部である。」(中沢新一『レンマ学』p.327)

もともと無分別、区別がないところで、区別する動きを駆動させ、自他の区別を作り出すからこそ、その後に「煩悩」が始まる。食べるものを欲し、愛されることを欲し、そして失うことを恐れ、死をおそれる。それが煩悩である。

しかもこの自他の分別と「煩悩」は「脳や中枢神経系」が作り出したものというよりも、さらにそれ以前の単細胞の生物においてすでにそのように動いている。

中沢氏は脳や中枢神経系を「純粋レンマ的知性からの分別知と無分別知との分解を確実に行うための物質機構として発達した」ものではないかと論じる(中沢新一『レンマ学』p.330)。

ここでロゴス的知性、理路整然とした理性、人工知能がその真似を超高速で行おうとしている人間の意識による「分別知」は、それ単独で単立するものではなく、実は絶えず無分別知から区切り出され続ける部分として生成している。

分別知は必ず無分別知とセットになっている

ロゴス的知性はレンマ的知性と「直交」し、「アーラヤ織」となるのであった。

人間は皆、生きている限りその意識、理性、ロゴス的知性が作り出す「煩悩」に追い立てられたり苛まれたり、あるいはまた束の間の幸福を覚えさせられたりするのだけれども、それとは全く別のスケールで「レンマ的知性」が動き続けている。

レンマ的知性自体は宇宙的規模で繰り広げられる「華厳的進化」の只中にあって、縁起の理法にしたがって事物の配置と組み合わせを不断に変化させていくが、それ自身は本質を変えない」(中沢新一『レンマ学』p.333)

ロゴス的知性がレンマ的知性から区別される動きを凝視しながら、ロゴス的知性のことを考える。そういう思考が「レンマ学」の科学ということになる。

さて、ここまでで『レンマ学』のエピローグまでを読み終わってしまった。

本編は終わりである。

しかし『レンマ学』の単行本にはこの先まだ100ページほどある。「付録」が三つもついているのである。

そういうわけでこの「精読する」も継続する。

続く

前回の「『レンマ学』を精読する」はこちら


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