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井筒俊彦「事事無礙・理理無礙」を読む(1) -意味分節理論入門

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井筒俊彦氏の著書『コスモスとアンチコスモス』に収められている珠玉の論考「事事無礙・理理無礙」を読む。

『コスモスとアンチコスモス』岩波文庫にも収められており、手が届きやすくなっている。

今回は「事事無礙・理理無礙」を、意味分節理論への入門編として読んでみることにする。

読むとは

「読む」とは、井筒俊彦氏がさまざまなところで書かれているように、極めて創造的な営みである。

書物に刻まれた文字列は、何か「単一の意味」のようなものをそこに封じ込められているわけではない。書物はあくまでも記号の系列であって、それ以上でもそれ以下でもなく、そのインクのシミやディスプレイパネルの濃淡を「意味」へと転換するのはあくまでも「読み手」の創造行為である。

しかもこの転換操作はカセットテープの磁気ヘッドや計算機の電子回路が行なっているような、ある一つの物質のパターンを、いつも繰り返し同じように他のパターンに変換するという作業ではない。読み手が行う意味転換の操作は、何を何に変換するか、変換前のパターンと変換後のパターンとの組み合わせのパターンを自在に変える可能性に開かれている。ここにおいて読むことは創造的な営みになる。これはつまり、つどつどの読み方に応じて、一冊の書物が互いにまったく異なるいくつもの意味を顕現させるということでもある。

ところで、この読むという転換操作・創造行為には、その操作行為のプロセスを高みから眺めつつコントロールする主体のようなものが、居るようで居ない。居るような居ないような「読む主体」は、能動的でもあり受動的でもある。

この点で、創造という言葉は「発生」あたりに言い換えておくのが良いかもしれない。創造が「主体が-作る」というニュアンスであるとすれば、発生は「勝手に生えてくる」というイメージである。

井筒俊彦氏の「言語阿頼耶識」というキータームを借りるなら、読むことは、二つの言語阿頼耶識が集合的言語阿頼耶識を介して異なりながらも一つに結ばれ、変容することである。

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例えていうなら、海と波の関係、毛糸の編み物に絡まった小さな毛玉、といったところである。

私たち個々の「読む人」は、海に対する波のようなものである。そして「集合的言語阿頼耶識」はこの場合の「海」である。

海があるから波がある。

波は、海の動きが波を見る人の心に現われ記憶される姿である。

あるいは毛玉。

読むことは、書物の文字の系列と、読み手の記憶の網の目が、互いに異なる別々の多なるものでありながら、幸か不幸か、一に絡まり合って、一つの新たな毛玉のようなものを発生させることである、とも言える。

毛玉は他の毛玉と縺れつつ大きく複雑になったり、強く締め上げられて固まったり、パラパラとほぐれて小さな埃に霧散していくこともある。

毛玉は動いている、生きている。

この毛玉発生プロセスは、明晰で合理的な意識によって方向づけることも部分的にはできなくもないが、大半は予期せぬ「むすび」の発生、「これはあれだ」という気づきの後にかろうじて意識される、無意識的な連想に委ねられている。

いや、無意識的な連想などと書くと大袈裟かもしれない。

生じていることはシンプルである。それはある言葉と他の言葉を互いに異なったまま同じと置くという極めて小さな動きである。この小さな動きが、無数に反復し、連鎖し、絡まり合っていくことで、毛玉のような、インドラの網のようなものが発生してくるわけである。

この複雑に絡まり合いを増していく状態を、カオスとみるか、それともカオスでありながら多数のコスモス発生の可能性を充満させたカオスモス、「如来蔵」のようなものと見るか。

これが「事事無礙・理理無礙」の主題である。

」の前に、まず「事物」

というわけで、井筒俊彦氏の「事事無礙・理理無礙」を、この数年、意味分節理論なるものに極めて強く惹かれている「私」という一つの毛玉の集まりのような者が読む。

それによって井筒氏が「事事無礙・理理無礙」に記した文字列が、私という毛玉の集まりをある部分でほぐしたり、またある部分で締めたりすることになる。

事事無礙、理理無礙は仏教の華厳経に由来する言葉である。

事事無礙・理理無礙」の冒頭、井筒氏は「想像とも推測ともつかぬ事柄」と断りつつ、華厳哲学への古代イランのゾロアスター教の影響の可能性、そして華厳の思想のプロティノス(古代ローマ時代のエジプトはアレクサンドリアの哲学者)の哲学やイスラム神秘主義やユダヤ教神秘主義への影響の可能性に触れた上で、「事」の話に入る。

「事」とはどういうことか?

「事」の話に入る前に、井筒氏はまず「事物」について論じる。

日常的経験の世界に存在する事物の最も顕著な特徴は、それらの各々が、それぞれ己れの分限を固く守って自立し、他と混同されることを拒む、つまり己れの存在それ自体によって他を否定する、ということです。」(井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.16)

事物とは、私たちの日常の経験世界に存在するものたちである。りんごもみかんも、犬も猫も、カレーもカツ丼も、私もあなたも、事物である。

私たちの日常生活に登場する「事物」たちの特徴はといえば、それは「己の分限を固く守って」いること、そして「他と混同されることを拒む」ことである。

犬が猫になることはまずないし、りんごがみかんになることもない。カツ丼であれば更に煮込んでカレー粉を放り込めばカレーのようなものになるかもしれないが、この過度の煮込みを飲食店で「ご注文のカツ丼です。」として提供すると面倒なことになるだろう。

私たちの日常は、犬は犬だし、猫は猫だし、リンゴはリンゴであると、大多数の「みんな」がそういうことにして生きている世界である。

そこでは犬は猫でもリンゴでもない”犬性”、犬の本質のようなものを持っていると推定されるようになる。

「AにはAの本性があり、BにはB独自の性格があって、AとBとはそれによってはっきり区別され、混同を許さない。AとBの間には「本質」上の差異がある。」(井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.17)

犬にもいろいろいる。チワワのような犬から、ドーベルマンのような犬、アフガンハウンドのような犬までいる。しかしどれも「犬」である。人間の感覚で捉えることができる印象は千差万別だけれども、ぜんぶ本質においては「犬」と考える。ここから骨格でも遺伝子でも犬の本質をそれに置き換えることができる物質的な何かのパターンが探究されることになる。

「Aの「本質」とBの「本質」とは相対立して、互いに他を否定し合い、この「本質」的相互否定の故に、両者の間にはおのずから境界線が引かれ、Aがその境界線を越えてBになったり、Bが越境してAの領分に入ったりすることはない。そうであればこそ、我々が普通「現実」と呼び慣わしている経験的世界が成立する…」(井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.17)

本質は、お互いに「否定」しあうものである。犬の本質と猫の本質は互いに否定し合う。そしてそれ「故に」、犬と猫の間には「境界線」が引かれることになる。

ここで重要なことは、何かと何かの境界線は元々即自的にあるのではなくそこに互いに異なる本質なるものがあるはずだと想定してかかる人間たちの営みによって、後から「引かれる」ものであるということだ。

」とは

」とは、このような「事物相互間を分別する存在論的境界線」によって「互いに区別されたもの」たちのコトである(井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.17)。

これが井筒氏による「」の最初の規定である。

しかし、このように書いた直後、井筒氏は「とは申しましても」と続ける。

「とは申しましても、華厳思想の初段階において、第一次的に「事」と名づけておく、ということでありまして、もっと後の段階で、「理事無礙」や「事事無礙」を云々するようになりますと、「事」の意味もおのずから柔軟になり、幽微深遠な趣を帯びてきますが、それについてはいずれ…。」(井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.18)

初期段階に名づけておくとりあえず仮にそう呼んでおこう、ということで、つまりこれは「仮名けみょう」なのです。

「事」が仮名であるということは、つまり「事」ということを先ほど解説したAとかBとか「本質」を持ったものだと考えてはダメだよということである。

「事」は非-事と本質的にどう区別されているか、などといったことを問う必要はないし、問うことはできないのである。なぜなら「事」は、本質なるものによって互いにあらかじめ区別された世界というものを解体するための、最初の足掛かりとして置かれた仮の突破口であって、それの本質を議論できるようなシロモノではない。

事を事として、非-事と分別すること自体が、「事物相互間を分別する存在論的境界線」を引くことである。これに対して「初段階」において「仮」の呼び方として置かれた「事」は本質を持たず、今ここから何かと何かを区別してみますよ、と宣言しているのみである。

「事」には、まず本質があってそれによってその周囲に境界線が引かれている、ということではなく、ただ差異のみが”存在する”。

そうであるからこそ、この分節、区別、差異を、不変不動に固着した何かとは考えずに、常にゆらゆらと動いている、繋がりつつ分ける=わけつつつなぐ動きとして捉えていくようになるにつれ、「事」の意味は「柔軟に」なり「幽微深遠な趣を帯び」ることになる。

「理」へ

ここでいよいよ話は「」へと進む。

この「柔軟」で「幽微深遠な趣を帯び」た「事」こそが、実は「理」と無礙になった「事」、「事」としての「理」なのである。

井筒氏は次のように書く。

事物を事物として成立させる相互間境界線あるいは限界線を取り外して事物を見るということを、古来、東洋の鉄人たちは知っていた。それが東洋的思惟形態の一つの重要な特徴です。」(井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,p.18)

境界線あるいは限界線を取り外して事物を見る。

境界線を取り外したところの「無差別性の空間」を、「無」とか「空」という。

そして理事無礙「理」は、「事」と並び立つ「理」とは、「空」と同じことである

ここで事と理は無礙である、つまり互いに妨げ合うことがないというのである。事は事のまま理(空)でもあり、理(空)は全くそのまま事でもある。理を海、事を波、とイメージしても良いかもしれない。

井筒氏はここに続けて重要なことを指摘する。「事物間の存在論的無差別性を覚知しても、そのままそこに坐りこんでしまわずに、また元に差別の世界に戻ってくるということ」が重要であるという(井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,p.18)。

即ち、「事」が実は本当はそれこそ”本質的には”「理(無)」なのだ!とやるだけでは不十分である。事が理だとして、さらにその先で理はまた事に戻ってくるのである。そして理から戻ってきた事はこれまた理であり、と永遠に行ったり来たりを繰り返すのである。

ここに二重の「見」、事物を、事でありながら理、理でありながら事、として、常に”二重”に見る、という話が続いていく。

理と事でもなんでも、何かと何かを分節する「枠」外したり嵌めたり自在にするのである。

* *

次回、「理」について詳しく読んでいきます。

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