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未完成のまままわり続けること −パース『連続性の哲学』と岩田慶治『コスモスの思想』を読む


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チャールズ・サンダース・パースの『連続性の哲学』に「われわれの探求の途(みち)」を「妨げる」、四つの「有害な思想の形態」という話が出てくる。

第一に「絶対的な断言」

第二に「いくつかの事柄は絶対に不可知である、と主張すること」

第三に「科学におけるあれこれの要素が根本的かつ究極的であり、他のものから独立であって、それ以上の説明を寄せ付けない」と主張すること。

第四に「法則や真理が、最終的で完全な定式化を与えられていると主張すること」である。

ちなみに探求の途というのは、われわれが(1)無知であることを知り、その上で、(2)断片であれ何かしら知りうる可能性を求めて推論し、(3)仮説を論理的に構築し、そして(4)一度仮”設“した仮説を訂正する、ということを決して止めることなく繰り返すことである。

それに対して、この四つの「有害な」思想・考え方をとってしまうと、それ以上先に探求の途を歩み進めることが出来なくなってしまうというのである。

せっかくなのでくわしく見てみよう。

その1 絶対的な断言

「探求の途を塞ぐ思想の第一の形態」は「絶対的な断言」である(p.65)。

AはBだ、それは決まったことだ。断言できる。という具合にやられてしまうと、いやいや、AはBではないかもしれない?AはCかもしれない?などと試みに言ってみることができなくなってしまう。

その2 いくつかの事柄を絶対に不可知であると主張すること

探求の途を塞ぐ思想の第二の形態は、「いくつかの事柄は絶対に不可知であると主張すること」である(p.66)。Aというものについては、それはもう端的にAであって、Aが何かと問うことはできず、AをBやCに置き換えたとしても、更に深くAについて「分かる」ということはない。という具合にやってしまうことである。

探求は、あるAについてAとはなにか?と考えることである。それはAをBに置き換えて「分かる」こと、であり「わかり直す」ことであり「わかり方を変える」ことでもある。

Aについての無知から始めて、Aを非Aである何かに置き換え続けることがAについての知を探求するということなのであるけれども、Aを「絶対的な不可知」としてしまうと、それ以上先にAを別の非Aに置き換えていくことが出来なくなってしまう。不可知のAを前に、それ以上先へと「知ろう」とする置換のプロセスは強制的に止められてしまう。

その3 他のものから独立した、根本的かつ究極的な要素を置くこと

探求の途を塞ぐ思想の第三の形態は「科学におけるあれこれの要素が根本的かつ究極的であり、他のものから独立であって、それ以上の説明を寄せ付けない…と主張すること」である(p.67)。

これも第二の場合と同じで、ある要素を、それ以上先へと置き換えられないものとして据え付けてしまうということである。

探求の途は、何らかのAについて私たちは「まだ知らない」「無知である」という立場を堅持しつつ、その上で推論し、仮説を形成し、つまりAをBやCやDやその他に置き換えていく、その置き換えの可能性を試し続けることである。

この置き換えを試し続けることを止めないためには、「それ以上先には置き換えできません」という事柄を置いてしまってはダメなのである。それが第二の障害物のように「不可知」のものであっても、第三の障害物のように「それ以上の説明(言い換え・置き換え)を受け付けない」ものであっても。

その4 最終的で完全な定式化を与えられた法則や真理

探求の途を塞ぐ思想の第四の形態は「あれこれの法則や真理が、最終的で完全な定式化を与えられていると主張すること」である(p.67)。

ある事柄を記述するやり方、ある事柄を記述するための言葉が他の言葉と組み合わされる関係のパターンが完全に定式化してしまっている、つまりそれ以上変更できないように固まってしまっている、と考える。

そのように考えてしまうと、これまた第一、第二、第三の場合と同じように、ある事柄Aを他の事柄へと、他の事柄の組み合わせの中へと置き換えていく試みの動きがストップしてしまうのである。

未完成のまま歩む、というか、まわる

私たちの知は最初から最後まで、徹底して「未完成」なのである。

未完成ということは、乱雑に散乱したままお手上げで思考を放棄して諦めたということではなくて、あくまでも「成(なる)」の途上にある。未だならず。だけれども、なろうとしている、なりつつある。そしてこのなりつつある途は、永遠に「なりつつある」のであって、どこかで最終目的地に到着したり「完成(つまり未完成ではなくなる、非−未完成化)」したりすることはない

しかし、永遠にゴールにたどり着かないからと言って、何もがっかりする必要はない。

知も、人間の生も、何かのゴールに向かって手順を踏むべきシーケンスではないのである。迷いながら、ぐるぐると歩き回る。生きることと問うこと&答えることはそのような出来事である。

「完全にわかる」と「完全にわからない」は、どちらも生きている人間とは関係のないお話である。

実際の生身の私たちは、「完全にわかる」と「完全にわからない」のあいだに無限に細分化される世界の中でその世界そのものとしてある。私たちの「知」はその形を泳ぎ回るタコのようにうねうねと変身させながら、この無限に増殖する「完全に分かる」と「完全にわからない」のすき間という「謎掛け」の中で、それとつきあい、おりあいをつけながら、つかの間持続する形であり、そのパターンである。

ここで思い出すのが、岩田慶治氏の『コスモスの思想』の一節である。

歩く、あるいは、あゆむ。それは目的あっての歩行である。…これにたいして、<まわる>の場合にはそこに到達すべき目的地はない。ある中心をめぐって歩みを反復しているのである。<まわる>は旋回するである。そのさい、歌と音楽にあわせて舞うこともある。」(岩田慶治『コスモスの思想』p.203)

目的をもった歩行と、到達すべき目的地をもたない「まわる」。

パースが問うところの私たち人間の「知」というのは、この「まわる」の姿とよく似ていると思う

岩田氏はこの「まわる」の民俗の一例として「かごめかごめ」を挙げている。

「「かごめかごめ」の要点は中央にかがんで眼をつむった子供が<一種の神がかり状態>になって、後ろの正面にいる子供の名を言い当てるところにある」(岩田慶治『コスモスの思想』p.207)

かがんで眼をつむって、つまり背筋を伸ばしてゴールを見据えるのとは真逆の身体で、「うしろの正面」の名を言い当てる。後ろの正面は見えていない、判別できていない、区別できていない。しかし「もしかしたら」と後ろの正面に居る誰かの顔を思い浮かべ名前を想起することはできる。そうして当たるも当たらないも偶然なのだけれども、しかしほんの僅かな自信をもって、名前を挙げてみる。それで、もし当たれば驚きと畏れの声がどっと湧き上がる。そうしてまた「もう一回!」と、ぐるぐる歌いながら回り始める。

知には、この目をつむったまま後ろの正面を言い当てるようなところがある。

子どもたちはぐるぐると回っては「うしろの正面だあれ」を何度も何度も繰り返す。これぞまさに人類の知の可能な姿についてのもってこいの象徴ではないか。

人間は古来から「天と地のあいだ」、中間に、虚構の世界を築いてきたと岩田氏は書いている。理路整然とした論理的なロゴスの知は、まさにこの虚構の世界の先鋭化したもののひとつである。

ここで考える知的な人の存在が、二限的な世界の中における「中間的」な存在であることに注意しなければならない。

人の存在は、その意識と無意識、表層と深層からなる知の体系=「意味」の世界は、まさに中間的で媒介的であること、そして二つの極限へと接近しては遠ざかるサイクルを回し続けることによって、存在する。

人が天と地を、出発地と目的地を、いまこことゴールとを区別せざるをえず、その区別が生み出した二元性のイリュージョンを世界に押し付けざるを得ないことを、自ら知ったうえで、こと更にその二元性の虚構性を、一方であり他方である「媒介者の両犠牲」という霊妙な虚構によって照らし出すこと。民俗から科学まで、人類の、ホモサピエンスの知というのは、そのように動く。


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