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「科学」と意味分節理論 - 分化と結合の科学(2)

以前、下記の記事で次のように書いた。

自然科学に、技術のイノベーションに、資本主義にと、産業革命以来の人類の世界は「分けつつなぐ」動きが自在に動き回ることができるフィールドを、広げ続けてきたように見える。インターネット上のWeb空間など、まさにこの分けつつつなぐことを空間的近接性を超えて可能にしているわけである。(分化と結合の科学)

ここで産業革命「以来」と書いているが、実は産業革命「以前」から、おそらく人類が発生した当初から「分けつつつなぐ」ことは人類の存在の鍵だったと考えられる。

何より、人間の言語という意味(意味分節システム)を発生変容進化させることができるシステムが、この「分けつつつなぐ」を最も基本的な原理としているのである。これについて上の記事には次のように書いた。

言語もまた、「わけつつ結ぶ」動きから発生するシステムである。

言語は「わけつつ結ぶ」動きを”自在に”沸騰させやすい、極めて柔軟性に富んだシステムである。それと同時に、あるいはそうであるが故に、言語は表向きには、この「わけつつ結ぶ」動きを”自在に”遊ばせることができてしまうという事実を、覆い隠そうとする傾向を示そうともする

言語のシステムに限らず、生命のシステムも、物質のシステムも、全てが全てと自由自在に繋がったり離れたりするようにはできていない。自分とその外部環境とを区切り分節しようとする「システム」は、いずれもシステム自体を安定的に維持し続けようとする傾向を持つ。(分化と結合の科学)

このわけつつつなぐ(わけつつ結ぶ)「システム」が、変容しようとすると同時に安定的に持続しようとする(ように私たち人間には見える)という「矛盾」。

これをどう理解するかに関して、最近手に取った西垣道氏の著書『新基礎情報学』が非常に参考になったので紹介したいと思っていたところ、これまた同時に手に取った野家啓一氏の『科学哲学への招待』にさらにその前段の話が言及されていたのでご紹介します。

異なりながらも「同じさ」が回帰しているように見える

自然複雑で多様で動的に変容しながら現象する

例えば、川面に落ちた小石が描く波紋を眺めるように、自然現象の複雑性、多様性を「そのまま」感覚器官で捉えることはとても充足した、いわゆる「マインドフル」な時間を開いてくれる。

それと同時に、その複雑で多様な自然現象の中に「規則性」を発見してしまうのもまた人間である。

はるか遠い過去以来、人間が感覚できる物事の中でも特にその規則性が際立っていたのが天体の運行である。

天体の運行の規則性、特に反復的な規則性は、ようやく「象徴(シンボル)」を発生させる能力を開花させた大昔の人類に強い印象を与えたらしい。

C.S.パース流に言えば、インデックスでもなくイコンでもない、シンボルとしての記号は、別々の事柄として区別できる二つの事柄を、異なりながらも「同じ」と置くことによって発生する。

この置く、というのを「つけるー憑ける」と言い換えてもいい。

AにBが憑く、ある何かに別の何かが憑依する

憑依においてシンボルとしての記号が発生し、動物の鳴き声とは異なる人間のコトバが始まる。

人間の言葉の特徴は、比喩表現にある。

ある何かを、別の何かに「喩える」=置き換えるのが比喩である。私たちは初めて出会う物事xを、既知のAに喩えることで、xをA”として意味づけ”、xを(Aとして)理解する。

ここでいう比喩表現すなわち「憑けること」とは、使っても使わなくても良い文章表現の技巧ということではなく、言葉ということを、シンボルということを、すなわち意味分節システムを発生させる基本的な原理なのである。

このような別々に区別できる二つの事柄が、二つでありながら同時に一つに繋がっている様子を体現しているかに見えたのが天体の運行である。星々は互いに異なる光の点でありながら、その間には常に一定の距離が保たれながら(人間が感覚できる時空でのことであるが)周期的に回転する。その星々の間を、太陽や月や、そして肉眼で捉えられるいくつかの惑星が互いに接近した(ように見えた)り、離れた(ように見えた)り、また接近し(ように見えた)りする。

周期で天体の運行の反復的な規則性は、付かず離れず別々に分かれながらも一つのセットになって繋がっている異なりながらも同じになっている、というシンボル能力の根源にある分離と結合の絶対矛盾的自己同一」を印象付けたようである。

象徴ということ自体を象徴する天体の運行は、人類の「神話的思考」を大いに触発したようである。

天体の運行は、さまざまなモノゴトが現れたり消えたり、くっついたり離れたりする象徴(シンボル)の発生を「象徴」するものと受け止められた。

* *

野家啓一氏は『科学哲学への招待』で、今日の科学に通じる古代ギリシアの自然哲学の始まりに、この天体の運行の規則性を理解しようとした哲学者たちの思考をおいている。

古代ギリシアの哲学者たちは「カオス」と対立する「コスモス」という言葉で「秩序立った規則的運行を続ける宇宙」のことを呼び表した。

そしてこの「コスモス」には、カオスからコスモスを一定のパターンで区切り出し、分節する原理が組み込まれていると考えられるようになる。その原理こそがロゴス ことわり」である。ここに「コスモスに内在するロゴスを研究する学問」としての「コスモロジー(宇宙論)」が成り立つ(『科学哲学への招待』p.33)。

コスモロジーは最初はまさに「神話」として語られたが、やがて「自然現象を自然的原因によって説明しようとする自然哲学へと発展した(『科学哲学への招待』p.33)。

自然哲学の課題は「自然界の生成消滅や変化を説明する基盤となる万物の「アルケー(始原、根源物質)」を探求することであった」と野家氏は書かれている(『科学哲学への招待』p.34)。例えばエンペドクレスによる「四元素説」、すなわち「土、水、火、風」という四つの「元素」が「結合と分離を繰り返す」ことで自然現象を発生させる、といった考え方である。

ここで分節理論の観点から興味深いのは、四つの元素の「分離と結合」という話である。すなわち、互いに区別される4項がくっついたり離れたりする、付かず離れずのバランスをとることで森羅万象の生成消滅を説明しようしている点である。これは人類のシンボル化能力の端的なあらわれである四項関係のモデルである。

四項モデルについては下記の記事に書いているが、改めて引用しておこう。

どれかひとつの分割結合に注目する。



この区別(分割結合)によって、この「/」の両側に、二つの項が現れる。生命と非生命でもよいし、物と心でもよいし、現実と夢でもいい。なんでもよい。

○ / ○
ところで、この二つの項「○」もまた、さらに分割結合される動きに貫かれている。
(○ / ○) / (○ / ○)

という具合である。すべてのあらゆる項○は、○=(○ / ○)である。
あとは永遠に繰り返される。

 ( (○/○) / (○/○)) / ( (○/○) / (○/○))

わけつつつなぐ動きは、区別があるとかないとかを言えるようになる手前、区別の「有ー無」の区別以前で動いている。このわけつつつなぐ動きは、あらかじめ区別済みの分節システムの内部で動き出すものではない。このわけつつつなぐ動きの「外側」にあらかじめ分けられていたり選択的に結びつけられていたりするシステムの存在を想定しないのである。

とはいえ、このわけつつつなぐ動きは幾重にも、無数に、多重化するがゆえに、あるわけつつつなぐ動きが、先行してすでに動いているわけつつつなぐ動きを前提として発生するように見えることもある。

この一直線一次元の置換論理を、二次元に変換して表現したものが、先ほどの熊楠の四項関係である。
○ - ○
| × |
○ - ○
四項関係の図は実によくできている。

(石燕) - (燕石)
|   × |
(酢貝) - (眼石)
例えば、左上の(石燕)に注目すると、この(石燕)は(燕石)と分割結合され、同時に(石燕)は(酢貝)とも分割結合され、さらに(石燕)は(眼石)とも分割結合される。

さらにさらに、(石燕)の左上には下の図のように、さらに「事の線」が隠れている。
× |      
- (石燕) - (燕石)
  |   × |
  (酢貝) - (眼石)
分割結合の動きは、すべての○と○の間で動いている。

こうしてわけつつつなぐ根源的な動きは、最小で4項から構成された関係として、私たち人間の意識の表面に浮かび上がってくる

ある一つの○は、他のすべてのあらゆる○と分割結合の動き(事の線)で分割結合される。仏教の言葉でいう法界縁起というのはこの○同士の分割と結合(「事」の線)のネットワークのことである。

この法界縁起、「事の線」のネットワークを、私たちは線形一次元でも表現できるし、平面二次元でも表現できるし(熊楠の四項関係や南方曼荼羅、もちろん両界曼荼羅も)、さらに多次元で表現してもよい

どのような次元で表現しても構わないが、全ての○が全ての○と「事の線」で分割されながら結合されている、別々に異なりながらも一つになっている、ということである。

前の記事からの引用が長くなってしまった。

ここで、古来の神話も、憑依(神がかり)も、古代の自然哲学も、いずれもカオスの中に浮かび上がるコスモスの発生を、最小構成で四つの項からなる分離=結合システムとして見ようという点で通じるものがある。

* * *

自然哲学と憑依と神話を一つにするなんて、なんたる外道と思われるかも知れないが、そんなことはない。ここで井筒俊彦氏による『神秘哲学』の冒頭の一節を紐解いてみたい。

「ここで自然は一つの形容詞ではなく、主語であり、絶対的超越的主格である。それは宇宙万有に躍動しつつある絶対生命を直ちにに「我」そのものの内的生命として自覚する超越的生命の主体宇宙的自覚の超越的主体としての自然を意味する」(井筒俊彦『神秘哲学』p.30)

なかなか大変なことが書かれている。

自然哲学における「自然」というのは、近代の科学革命以後の私たちが素朴に思っているような、工業製品の材料や燃料のような硬く固まって止まっているモノに貼り付けられるラベル(「形容詞」)ではない。自然は主語、主格、主体、動く主である。

しかもその自然が主語・主体であるというのは、いわゆる近代的な「主ー客」の二項対立の一方であるということではなく「主ー客」の分節以前の「生命」の「躍動」である。主ー客の区別なども、この生命的自然の躍動を通じて、後から区切り出されるつ一つに結びつく一つの分節なのである。

そしてこうした主ー客の分節以前の「自然」ということをある人が、思考することができるかどうかは、その人物が「宇宙万有を十方に貫通しつつ生々躍動する汎生命の久遠の脈搏を直下に「我」そのものの心臓の鼓動にかよわせ」た「実体験」を持つかどうかにかかっている、という。

「問題の重心は、ひとえに自ら汎神観の主体となったことがあるか否かにかかっている宇宙万有を十方に貫通しつつ生々躍動する汎生命の久遠の脈搏を直下に「我」そのものの心臓の鼓動にかよわせ、尽天尽地に遍満する生命の寂光を直ちに自己の内的生命として主体的に把握したことがあるかないか、その実体験の有無によって、いわゆる「汎神論」の虚実が決定されるのである。」(井筒俊彦『神秘哲学』pp.34-35)

ここでいう生命、汎生命としての「自然」は、人間の身体ー精神においては最小構成で四つの項からなる分離=結合システムが創発するプロセスとして経験される。ここで「自然」とは、上でいう「わけつつつなぐ」動きに与えられる仮の名であるとも言える。

そして神話も、憑依(神がかり)も、自然哲学も、このような二項対立関係の対立関係としての四項関係が、発生と消滅と再度の発生を反復し続けるプロセスとして、カオスの中に浮かび上がるコスモスを思考、言語化しようとした試みということになりそうである。

二つの自然、二つの分節システム

同じ「自然」と言っても、天体の運動の秩序は、地上のあれこれの生成消滅に比べると、その規則性が際立っていた。野家氏はギリシア的コスモロジーを「集大成」としてのアリストテレスの自然観において、天上の秩序と地上の秩序が別々のものとして区別されたことに注目する。

地上界は生成消滅と変化を繰り返す不完全な世界であり、他方の天上界は永遠の秩序に支配された不動不変の完全なる世界であると考えられた。[…]地上の物体の自然運動が始点と終点を持つ上下の垂直運動であるのに対し、天体のそれは一様な円運動であった。円こそは始点も終点もない完全な図形とみなされていたからである。」(『科学哲学への招待』p.37)

この(1)天上と地上の秩序を区別すること、その上で(2)天体の動力として「天球」の存在を考え、(3)天体の自然運動を「一様な円運動」であるとすることが「古代天文学のセントラル・ドグマ」であったと野家氏は指摘する。

ところで、このセントラル・ドグマに対しては、最初から二つの「変則事象」が知られていた。第一に「地球と惑星の距離が変化しているという事実」であり、第二に惑星の不規則な運動である(p.38)。地表から観測する限り、惑える星、惑星たちは「一様な円運動」しているようには見えないのである。

ここで惑星がふらふらと惑っているのは「見かけ上」のことであると考え、その惑える動きをも「円運動」の理論で整合的に説明することが古代天文学の課題になったのである。ここからプトレマイオスの「周転円説」が成立し、後に観測を通じて複雑化していく周転円説を合理化する理論としてコペルニクスの地動説が登場するのである。

一方、地上の秩序については、以下のような「古代運動論のセントラル・ドグマ」が考えられた。そこでは水が上から下に流れたり、ボールが転がったりする「物体が本来あるべき場所へ戻ろうとする自発的運動」問われた。

(1)自然運動の「原因」として「自然的傾向」があると考えること、(2)運動が発生する原因として「接触」による作用を考えること、(3)物体の速度を「動力に比例し、媒質の抵抗に反比例する」と考えること。

この三つが古代運動論のセントラル・ドグマであると野家氏は書かれている(p.44-45)。

科学革命へ

この天上と地上に関する二つのセントラル・ドグマを破壊したところに、近代へと至る「科学革命」が始まる。

古代天文学のセントラル・ドグマケプラーによって、古代運動論のそれはガリレオによって、それぞれ完膚なきまでに破砕された。残された課題は、これらの天上の運動と地上の運動とを同じ法則によって統一することである。(『科学哲学への招待』p.72)

この天上と地上の運動を、両方とも一つの数式で説明し得たのがニュートンの万有引力の法則である。

1)リンゴ🍎が木から落ちる落下運動は、「地上」の運動である。

2)月🌖が地球🌏の周りを回転する運動や地球が太陽の周りを回転する運動は「天上」の運動である。

この1)と2)の二つの運動、地上と天上の運動を共通の単一の法則が万有引力の法則である。それは「質量M及びmをもつ二つの物体の間に働く引力は、質量の相乗積Mmに比例し、両者の中心距離rの二乗に反比例する」というものである(p.74)。ここでMとmは、林檎と地球でも、地球と太陽でも、地上のものでも天上の天体でも、どちらでも良い。

野家氏によれば、天上の運動と地上の運動を同じ一つの法則で説明するという「天と地の統一」が科学史上で重要なのは、それがアリストテレスの自然観、すなわち「天上と地上は物質の組成からして異なり別個の法則が支配する」という考え方を覆したからである。

ところで、万有引力の法則の特徴は「距離を隔てた物体間に働く遠隔作用だということ」にあると野家氏は指摘する。この「遠隔作用」は物体と物体の「接触」こそを運動の原因と考える「アリストテレス運動論」を覆すものであった。

しかし、この”触れずに動かす”得体の知れない力の概念は、オカルト、「中世の魔術的伝統への回帰」として批判されたという(p.77)。

互いに別々の二つのものの間で、両者を接触させることなく、結びつけ、動かし続ける力触れずに動かす力重力、引力をどう考えるのか、どのように数式で記述するかが、その後の物理学の大きなテーマになっていくわけである。

分かれているけれども繋がっている。

分離しつつ結合している。

付かず離れず。

二でありながら一、一でありながら二

感覚器官と直結した経験の相においては矛盾を排除しようとする「分節」の道具である言語的記号システムの中に、こうした「矛盾」影のようなものを浮かび上がらせる

そのためには連続を非連続として記述し、動態を静態として記述する非AをAとして記述する互いに対立する二項関係の一方を、真逆の相手へと変換するシンボル的記号化の変換技術が重要なのである。

そして何より人類は、この変換システムを、意味分節システムの多重化によって作り出す方法を探究してきたのである。井筒俊彦氏が「東洋哲学」として一括りにする伝統群はまさにこれである。

例えば、唯識にいう前五識と意識が矛盾なく分ける方に向かうとすれば、その深層の無意識の「阿頼耶識」を、分節する動きそれ自体が生成消滅するフィールドと捉える如来蔵の思想などがそれである。

これについては下記の記事に書いていますので参考にしてください。

つづく


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