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紫陽花のゆらぎ・新鮮な感情・摩擦とサブスク

本当は毎日noteを更新したいのだけれど、noteはやはり5000文字以上書くときに更新するもの、という気持ちが自分の中であるので、note以外の場所で発信できればとは思う。ただ、まだnote以外のプラットフォームが思いつかないので、しばらくはnoteを継続することになりそうだ。


毎日少しずつときめくこと。変わり映えしない日常もいいのだけれど、でもやはり私たちは(私は)どこかで、新鮮さを求めている。腐敗したものや、崩落したものを望む生物もいると思うが(この時期特にうるさい小蝿など)、それはなかんずく、環境に適応した結果だろう。私たちは腐敗したものを食べればお腹を壊すし、新鮮なものを食べればほとんど無条件的に「美味しい」と感じる。

経験のこと。Spotifyをはじめとしたサブスクサービスが始まった頃のことをサブスク1.0、現在はサブスク2.0、そして今後は3.0、と呼ぶらしい。これまでのサブスクが、膨大な情報へのアクセスを許容したのだとすれば(知識の民主化、経験の民主化)、今後のサブスクは「選択」を合理化することになるようだ。膨大な選択肢から何かを選び取る、という煩雑さから逃れ、サービスが私たちに「おすすめ」してくれる(既にこれはいくつかの分野でローンチ済みだろう)。そのとき、抜け落ちてしまう私たちの感情のことを思う。確かに、私たちは選択肢の多さに疲弊し、「もう何もいらない」と願ってしまう。スマホに煌々と灯るウィジェット、幾つものおすすめ、購入する気もないメールでの広告、次々と現れる友達でもない誰か。

私たちは、その選択を本当に外部化するべきだろうか? あるいは、選択が外部化した後にこそ、私たちが本質的に選ぶべき何かが見えてくるのだろうか? 宗教さえも、サブスク化するだろうか?

ときめきさえも、サブスクされることを想像する。毎日何かの箱が送られてきて、これ見よがしの「素晴らしい体験」が溢れてくる。私たちは次第に飽きていくだろう。この「飽きる」ことは、ある種、私たちに残された特権ではある。機械や人工知能は、忘れることや飽きることを知らない。インプットされた情報を取捨選択することはあっても、なぜ飽きるのかは、知らない。というより、私たちの抱えている感情は、合理性やネットワーク理論を超えた矛盾をあらゆるところに孕んでいるのだ。

非合理的な選択。非合理性は、言語化してはいけない。コード化することも、不十分だ。領土化することも、脱領土化することも不十分で、非合理性を非合理的に受け入れなければいけない。なんで? という問いに対して、沈黙することでもなく、応答することでもなく、「なぜでしょうね」と、微笑むでもなく、語りかけるでもなく、不思議な顔を浮かべることだ。

そうなるとき、学校というシステムは、根本的に書き換えられなければならないだろう。というより、「試験」というシステムを、かもしれない。評価されるべき対象が斜め横断性化するのだ。「志望理由を聞かせてください」という質問に対して、私たちは明後日の方を向き、ため息とも呼吸ともつかない細やかな摩擦音を発するのだ。

摩擦すること。ときめくとき、私たちは摩擦に目を向ける。日常を生き抜いて、「普通」に生きるとき、それでも私たちはやはり摩擦する。むしろ、生命維持は摩擦の連続であるし、質量保存の法則が保たれながらも私たちが1日の終わりに虚ろな目を持つのは、それゆえであるから。ときめくことは、摩擦をしっかりと見つめ、そのギザギザの輪郭を温めることだ。

世界がフィクションになりゆくなかで、主体はギザギザの輪郭を要請されていく。生きているのか死んでいるのかもわからないアカウント、嘘なのか本当なのかもわからない報道、アカウントによって語り方が変わっていく私自身。あれであれ、これであれ、とにかく生き抜いていくしかない、ゆえに、私はとにかく摩耗して、疲弊して、消尽しきってしまう。


思ったより仕事が進まない。色々とあったので仕方のないことではあるのだけれど、どこかで埋め合わせはしなくてはいけない。締め切りは動いてくれないのだし。

今日はどうやってときめこうか、と考える。部屋は掃除しているけれど、でもやはり乱雑な印象がする。400冊ほどある本の並び方を変えてみようか。お風呂に入るときに、今日はちょっとぬるめにして、最低40分は入ってみようか。そういえばずっと前に買った雑誌をまだ読めていなかった。今年の夏こそはミントティーを買おうと思っていたのだけど、まずは手元にある紅茶を飲んでしまおうと思う。氷も昨日作ったばかりだし、紅茶を淹れて、お風呂にゆっくり浸かって、雑誌を読んで、それから後のことはまた考えよう。

もうそろそろ本格的に夏が始まる。去年の夏覚えた、あの激しい憎悪や痛みはまだ青く鮮烈な匂いを残していて、私はあの時からどれほど成長できただろうか、と思う。ゆっくりでいいから、なんて悠長なことは言っていられないけれど、でもやはり、意図的に休むことは重要なのだ——例えば道端の紫陽花の微妙な白と青の揺らぎに気づくことなど——。



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