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ウズベキスタン行きの飛行機/溺死する汀/それでも日本語を愛すること

前回のnote記事にこんなことを書いた。

苦しみや痛みや——あのとき言えばよかった後悔、傷つけられた言葉、冷たい目線、胃が溶けるような痛み——それらを何度も何度も折り重ね、畳み込み、他者への恐怖や期待がある一つの中性子星になったとき、表現は一種のグロテスクさを持つ。ここまで踏み込んでいいのか、と思うほどの強烈な憎しみに似た磁場がある。けれど、それは期待や喜びや優しさでもあるのだ。他者への期待、愛して欲しいという期待、これでよかったという喜び、あなたはここに来なくていいという優しさ。こんな苦しみを味わうのは、私だけでいいのだから、と囁いてくる。人はこれを異常性と呼ぶのだろう。血を吐くほどの表現とは、そういうことだと思う。線の震えや、言葉の端々に滲む他者への尋常でない恐怖や、トラウマや、脳が痺れるほどのノスタルジーや、泣きたくなるほどの痛み。何も、命を捨てろとは思わないし、捨てるべきだとは思わない。けれど、私たちは(表現者は)、常にどこかで命を落とし続けているのだ。「そうであったはずの過去」や、「そうであるべきだった私」という未来を、何度も何度も執拗に切り刻み、いくつもの可能性という嬰児を中絶させている。表現は、出産行為に近い。世界という巨大な分娩室で、孤独きりで、叫びながら、世界を謳歌している。私も、そうでありたい。少なくとも、いまは。

この文章を書き終えて、一種の確信に似た感情が駆け巡った。文章を書くことは、そうした確信と逡巡のはざまを往復することでもある。脳内にある絶望や期待や、吐き出したい有象無象が言語というフォルムを持って眼前に立ち現れてくるとき、日本語という(言語という)魔力を目の当たりにする。どう足掻いたところで、私は日本語という場所から離れることはできないのだし、日本語という表現をこれ以上ないほどに愛している。人を愛したり、恋したりすることとは全く別の温度で、地平で、日本語を根本から愛している。言語に対する執着心ともいうべきだろうか。成績評価を盾にする訳ではないが、東大模試の古文や漢文では満点に近い点数を取ったことがあった。日本語を用いて表現するとき、あるいは点数を付ける/付けられるとき、そして日本語を読むとき、広大な原野がそこにある。しゅうしゅうと言葉が湧き上がり、あらゆる現象に言葉が付せられる。

ドローイングやデッサンと同じくて、日本語での表現にも練習は必要だと思う。それは、推敲するとか校正するとか、そういうことではない。語順や形容詞の語感、取捨選択、全体の構成として、イメージを「私にとって」正しく書き写すこと。あなたにとって、彼にとって、彼女にとって正しいかどうかは問題ではない。私にとって、いままさに現前している(現前せんとしている)イメージが、この言葉によって表現されうるのかどうか。みぎわに打ち寄せる波濤の優しさを、あるいは六月の湿った風の中で逍遥することの清々しさに似た絶望を、言葉が声帯を震わせてあなたの内側に染み込むことの幸福を、それらのスペクタクルを、ここに書き記すことはできるのか。表現を変えよう。何が果たして、そこに「書かれなかった」のか。私たちが気を配るべきは、書かれたことではない。むしろ、書かれなかった剰余の痕跡や、夥しい後悔や、音を立てずに通り過ぎてしまったあなたのことに、目を向けるべきなのだろうと思う。言葉を記すとき、もうすでに気持ちが変わってしまったのだろう彼や彼女や何より私自身の痛みに敏感にならなければならない(あくまで私にとっては)。

絶対的に。そうであるべきだった。好ましいのは。私にとって。少なくとも。言葉を紡いで、あなたに差し向けようとするとき、そこに付される但書は、優しさを持てば持つほど曖昧になっていく。絶対的に、私はこう思っている、というより、少なくとも、私はこう思っていると述べるようなやり方で。表現を押し付けるとき、それは暴力になってしまうから。少なくとも、今は、差し当たり……。ほんの少しでも、あなたや、私に対して、痕跡を残そうとする努力はしかし、優しさによって打ち消されて、はかない泡沫になってしまう。曖昧な優しさは、むしろ人を傷つけてしまう。

音のない銃弾や、声のない悲鳴がそこらに飛び交っている。いいね「しなかった」ことや、伝え「なかった」ことや、知ろうと「しなかった」ことたち。目を背けてしまった、醜くなってしまったあの人。逃げずに、真っ向から、「あなたは間違っている」と言えばよかっただろうか。真実は痛みを伴う。宇多田ヒカルが「考えすぎたり ヤケ起こしちゃいけない 子供騙しさ 浮世なんざ」と歌っている。知ろうとしないことは、傲慢だと思うし、驕慢であり、怠惰だと思う。難しいから、ということは理由にならない。難しいだけで、迫害されてしまった人たちが、歴史の中で執拗に名を刻んでいる。安易に「むずいね」とか「やば」とか溢してしまうけれど、あくまで感想としてのみ、そう述べるだけにしたい。難しいから、やらないとか、難しいからやめるとか、そんなことを言えるだけの才能を持っていないから。真摯に言葉に向き合い、その視線を掴みたい。ヒトはいつだって複雑なのだし、それぞれの人生があって、事情があって、捨て去った可能性がそれぞれの双眸に込められているのだから。黒目と白目がはっきりしたその目を思い出す。意志的な目で、現実を見つめようとしていた。自分を思い出すと同時に、心配になってしまう。見つめようとした先に、絶望があったのではないだろうか。どう足掻いたところで、彼処には行けないのだと分かったときの、渇いた喉や、ざらついた声を、私は何度も経験しているから。

ウズベキスタン行きの飛行機や、チリ行きの飛行機が、今も飛び立っている。意志さえあれば、おおよその場所へは降りたてる。けれど、どんなに推量しようと、その枯れた目には、辿り着けない。

知識を得れば得るほど、経験を得れば得るほど、諦めることが増えていく。世界の解像度が上がっていくにつれて、見たくないものも見えてしまう。言葉の端に滲んだ後悔を、感じ取ってしまう。目の端に捉えたその後悔を、あなたの逡巡を。そんな目の澱みに、私は介入することはできない。そこから、抜け出すも、溺れるも、あなたの努力次第なのだから。

1年ほど前に来たメールの返信を思い出す。簡潔なメッセージで了解の意志を示したひとのことを。その四文字だか三文字だかの言葉で、全てを分かった気になっているのだろうかとうたぐってしまう。「おけまる」とか「なるほど」とか「そうね」とか「おけみ」とか「了解」とかなんだとか。もちろん、そうやって終える会話だってあるのだし、捨象したいくつもの可能性を思えば、妥当な返信だと思う。

そうだよね。ソウダヨネ。簡単に言える。分かっている。「そうしなかった」選択のために必要だっただろう覚悟や、切り捨ててしまった可能性や、見殺しにした分身や、生き埋めにしてしまった感情を。それでも、私は許すことはないのだし、今でも怒りを覚えている。表現のたびに、あの虚ろな目を思い出す。力なく笑うその顔に、なんとなく張り付いているだけのようなあの目を。あの目は、今何を見ているのだろう。現実に目を向けず、空想の世界で理想論を振りかざすことは、楽しいのだろうか。

言語は、あらゆる可能性へと転化する。羽化とも言えるかもしれない。人を傷つけてしまうなら、コトバを発さないこともまた、「あなたにとって」正しいと思う。けれど、それでも私はコトバを発する覚悟をしている。私は、「普通」に生きていれば、コトバを持たなかったはずなのだから。血の滲むような努力で勝ち取ったこの言語を捨てるなんて、そんなことはできない。できるわけがない。自己嫌悪に陥って、言葉を発せなくなることも、悲しみのあまりに言葉が潰えることも、これから先のいくつもの絶望や悲しみも、覚悟している。覚悟とは、振り返らないことだろうか。そうではなく、むしろ振り返ることのようにも思う。過去を思い出し、過去の失敗や恥じらいを直視すること。過去を哀れまないこと。埋葬しないこと。

曖昧な優しさを、曖昧なまま受け入れることができるようになったとき。言い換えよう。曖昧な言語を、曖昧なまま受け入れるようになったとき、世界の彩度は少しだけ、戻るような気がする。もちろん、言語を排して好きだとか嫌いだとか言えるような世界の彩度には比ぶべくもないのだけれど。

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