最近、鬱のトリガーとなった不安を追体験することが多い。社会生活の中で“ああ、私は考える力がない”と思い知ること。雑談ができないこと、人の中で緊張すること、その緊張が1人になっても解けなくて勉強も頭に入らなくなったこと。話さないことで人から変な視線で見られること。

文字にしてみれば、よくあることだよ、で片付いてしまうような些細なことごと。実際、中高生の頃はその範囲の軽いもので「頭が悪い、働かない」などと悩むことは無かった。大人になるにつれてそんなに社会が複雑になったと思わないのに、私が後退しすぎている。

今は本当に頭が空っぽで、錆び付いた自転車のように前に進まない思考が自分ではないかのようで不安で、時間軸の違う(私のペースよりかなり進んでいる)外の世界から素早く投げかけられる言葉に緊張している。人に興味がない(というか何にも興味も考えも湧かないし、ずっと頭がぼーっとしている)中で定型的な表現で当たり障りないコミュニケーションしか取れなくて、雑談ができないで浮いている。まとめてしまえば社会生活が怖い。それだけだと甘えだったり気持ちの持ちようと言われるだろう。でも、私は「人と話したいのに緊張したり考えすぎたりして話せない」という意味でのコミュニケーション障害ではなくて、本当は1人で何もせずにいたいけど、話せない自分を異物として不自然に見られることが怖いのだ。話したいことが浮かばなくても“喋らないとおかしいと思われる”といつも怯えている。「考えや感情、意志といった頭が動いている感覚」がないまま、自分を表現・主張したり、感情的なコミュニケーションを取ることが苦痛で仕方ない。仕事の息抜きとして、また関係を円滑にするのにする会話に楽しさなんて感じられなくて、他に楽しみがあるわけでもないこと。会話が緊張でしかなくて、空っぽで人の顔色を伺う自分が嫌でしかたない。何だろう、生きている実感や「自分」というものの確信が持てないというのが適切か。文字だとこうして言葉が出てくるのに、会話は考えをまとめるのにはスピードが早すぎて何が起こっているのか把握するだけで精一杯で、返す言葉まで思い浮かべることができないんだ。

  でも社会生活の中では、自分の事情に合わせてもらえるわけじゃ勿論ない。いったん仕事は脇に置いても、日々の中で自分の感情や意志が感じられないのに生きることの味気なさ、その時間の果てしなさに圧倒される。


自分で判断してそれを貫くことに自信がなくて、そうする事は孤立する結果しか産まないという思い込みが拭えない。他の人が堂々と自分の意思を示して対等な関係を築いているのを観察してイメージトレーニングはしているのに、いざ自分の意見を言おうとすると相手の顔色が恐ろしくて右往左往する自分がいる。そしてそんな自分が恥ずかしくて馬鹿みたいで、壊してしまいたくなる。


    何で生きなくちゃいけないんだろう。どうしたら自然と「生きたい」と思えるんだろう。日々感情の波に揺れて、それを他人と共有することを喜ぶ、みずみずしい精神を得たい。エネルギッシュな生命を感じたい…。


    家庭の問題は確かに私の人生に影を落としたけれど、行き詰まった原因はそれだけじゃないと最近思っている。家が落ち着いて周りから就職が出来ないことを責められることが無くなった今でも、不安で仕方ない。「大学を出てすぐに正社員就職していないなんておかしい。空白期間が短いうちに正社員になれ」という多数派の意見、同調圧力に怯えている。不安で何も手につかなくても休むのは罪悪感しかなくて、人と足並み揃えて生きなくてはいけないのだろうか。それが幸せなんだろうか。幸せでなくても、平均を目指して生きないといけないんだろうか。

対人恐怖もやまない。家族関係が良くなれば安心感が持てて落ち着いて自分の意思で行動できるようになると思っていたのが、今でも変わらないということは家庭環境だけのせいではなかったということだろう。小中高と家が荒れていた時期は【 外のコミュニティ<家】で、家から離れた自分を真剣に・深刻に悩むことがなかった。だからスルーできてきたけれど、物事に対して何も心が動かない、自分の気持ち・性格がわからないのは元々だ。                                                             幼いころ母に「我が強い」と言われ高校生まで礼儀正しい優等生的な振る舞いを続けた。自分に嘘をついて演技しているとストレスだったけれど、母が絶対である小さな頃はともかくとして普通は成長するうちに意志が入り込んで自分で考えて動くようになるはず。それに、小中学生で二度不登校をしているが、それは休み時間や行事で強制的に人と感情的なコミュニケーションを取らないといけないことがストレスでしかなかったからだ。一般的にみたら統合失調症の父が昼夜怒鳴っている家の方がストレスフルで、そのストレスは私も強かったけれど、それ以上に学校生活の騒がしさ、友達と話すこと=楽しいという強制感、一瞬一瞬何が起こるかわからない感じに耐えられなかった。高校でも大学でも人と何を話していいか分からなかった。人と感情を共有する力が本当になくて、苦しかった。

   きっとこれが私の自閉症スペクトラムらしさ。関心とか努力の問題だと思って、大学では積極的にサークルやイベント、学外交流に参加してきたけれど、そうした場に出れば出るほど、自分は何も感じていない、思っていないんだと実感し、賑やかな空間の中で一人いることの不自然さにいたたまれなくなることを繰り返して、大袈裟なようだけどじわじわ追い詰められていった。苦手なことを無理に続けて、消耗するだけだった。

自力で人間関係を築くこと、人を楽しませること、人といることを楽しむこと、内在的な意思ではなく、小説や周囲から学んだ枠組みの中でしか会話できないこと、「自分」を示さなくていい気楽さから人より物に関心を持つこと。この辺りが私の自閉症スペクトラムらしさじゃないかな。小説や人の真似ではなくて自然に自分の気持ちが持てている人が羨ましい。心が動くことが生きている意味だと思う。意思を得て、その意思を叶えるために動く。そうして経験が積み重なっていき、その中で気持ちが変化したら自分の心に従って新しい道を決める。年齢も立場も困難の決め手ではなく、生きる上で必要なのは“心”、“意思”だけだ。それさえあれば、日々を自覚することができる。今もだけれど、内から湧き出る感情や意思が持てない限り、私は鬱から抜け出せないのだろう。

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