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何度目かの桜の季節に悲しくなった話

「きっと何かの区切りで今日会えばもうしばらく会わない気がしてる」と電車に乗りながら感じていた。

高校時代の友人3人と集まった。私を含むと4人だ。
私はどうにも文章が上手くないがこの出来事は私の今までそしてこれからの過程として記し忘れないようにする必要があると思ったので。
人間は変わらないということを目の当たりにした。

私、A、B、Cとしよう。

Aは高校時代から何かと不機嫌で文句を言う人だった。ナチュラルに、ううん、惨めにもマウントを取りたがる。
Bは温厚で平和主義で優しくて気が利いて。とにもかくにも優しいのである。
Cは気性が荒い訳では無いがたまに偏った思考を。そして何より男癖に難ありなところがあった。

Cが出産し結婚をした。その祝いに集った。

私はどうにも前向きなだけの「おめでとう」が言えず澱んでいた。
もちろん、子供を目の当たりにして赤ちゃんという存在は純粋無垢で可愛いし尊いと本当に思えた。
そしてなにより、出産という大きなことを成し遂げたCを尊敬した。
しかし、高校時代からの男癖の悪さや今の旦那である当時の彼氏(高校時代からの付き合い)への愚痴を散々見てきた私にはひっかかるところがある。
SNSには旦那じゃない男が今も、旦那には見えない形で私たちには見える形で残されている。
あれは、わざと残しているのだと私は感じた。
Cに軽蔑をしているのだろうか?はたまた、何かこう人生の一儀式を終えた彼女を大人に感じているのだろうか?
どれも、これも、違うきがしている。私の知っている言葉に該当しない。ただ、涙が出るほど嬉しく祝福する思いが湧いてくるわけではないのは確かだ。

AはAだった。

本当にそのままだった。
私はこの日の出来事で何より彼女に対して悲しくなった。
はっきり言おう、高校時代も卒業後もわたしはこのメンツで集まる際には、楽しさと共に違和感を含んでいた。
AもCも人の人生にやんや言うのが大好きで。
私もきっと高校時代は顕著だったし、言われれば相槌もしていただろう。
いつから、これを大きな違和感に思いその類の人から距離を取ったのかは記憶にはない。
私は弱いので会話に間ができるのを嫌う。正確には本当に親しい友人との間は気にならない。違うから気になるのだ。
高校時代も今も、このメンツで集まる時の空間を作っているのは紛れもなく4人である。私も一因。だから、その空間に違和感を感じるのならば私の責任でもある。だからAとCだけを責めるのはお門違いなのは重々承知。
そして、己を棚に上げて話しているのも承知で言う。

AもCも例えば「高校時代のあの子、整形したよね?」「私の元彼いまこうなってる〜」「あの子、キャバ嬢になってやばいよね」と本当に何故そんなに他人の人生に興味をもてる?と問いたくなるぐらい詳しいし口を出す。
Aは特にこれが顕著で私は高校時代から何も変わっていないそれに悲しくなった。不動産業で勤めていたこともあり、Cの家を訪れる間際にも「家の名前(マンション名)分かればどのぐらいの家賃とか分かっちゃうかも」みたいなことを言っていた気がする。ぼんやりとしか覚えていないが。
私はひっかかる内容を覚えていたくないので極力聞かないようにそして忘れるようにする癖がいつの間にかついてしまった。

何故、こんな狭い田舎のコミュニティで過去の武勇伝を話すのか。
何故、こんな場所でマウントをとりたがるのか。
何故、他人の人生に口出しするのか?それはやはり自信がなく己の自尊心を保つためには必要なことなのだろうか。

Bは変わらず優しかった。
意外なことにもBがこの中で一番親しいのはAである。
私には分からない、AはBとの会話でも愚痴愚痴言うのである。
Bはそんな毒素たっぷりの内容を聞かされて疲れないのだろうか。

性格は顔に出るということもこの日はっきりと感じた。
毒素のある話が好きなAはきつく。
いつも温和なBは優しく。
僻みの温床みたいなCもまたきつい。
私はきっとこのメンツで集まる日は心ここに在らずな顔なんだろうな。

私はこの約2年間でこの愚痴愚痴いうだけの人達とは距離を置けるようになっていた。
だから、久しぶりにそうゆう人に会ってカルチャーショックだった。
これは裏を返せばこの2年間私は関わる人を正しく判断できていた証だと肯定したい。

変化や成長だけが美談とされるが、それが全てじゃないことはわかる。
しかし、愚痴をいう性質が変わらない彼女2名は本当にただ高校時代の延長話を聞いてるようである種、懐かしさはあるが本当につまらなかった。
たった6時間ぐらいの出来事でこの2人を「変わってない」と悪い意味で判断する私もかなり浅はかだと今気づく。
でも、それでも悲しかった。
私も何も変わっていないのかもしれないという裏返しだろうか。
はたまた、こんな会話を聞かされる場にいる私もその程度だと認識してしまったからだろうか。

人の人生を否定的にジャッジするような会話をする人を嫌いだと語る私は、
その直後に友人を否定するようなことを平気で言えちゃうようになったのはいつからだろう。
私はいつからこんなに偉そうにものを言えてしまう人になったのだろう。
それとも、私も変わらず元からこうなのだろうか。
彼女たちもまた私に静かに悲しくなったりしたのだろうか。

ところで、性別や年齢問わず
会話を愚痴や、他人の人生や容姿へのジャッジや下ネタでしか成り立たせられない人が多過ぎではないか。
これ本当に反面教師に私も気をつけたい。
変に相槌も打ちたくない、そんなことするぐらいなら無視したいその会話を。


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