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万引きについて、当事者視点で考えてみる話。

万引きは、それ自体に快感がある。
「達成感」と呼んだ方が近いかもしれないその高揚は、「狩り」「採集」で得られる感覚に似ている。手を伸ばしてもぎ取るだけのイチゴ狩りやリンゴ狩りとは異なるけれど、昆虫採集や潮干狩り、綺麗な落ち葉やドングリを探しながら拾い集めていく感覚に近い、といえば少しは伝わるだろうか。
もちろん、実際の盗みにはもっと緊迫感がある。例えば猟銃を使ってシカやイノシシを狩るような本当の「狩猟」で得られる達成感は、もっと近しいのかもしれない。やったことがないので分からない上に、正しく趣味にしている方に怒られてしまいそうな気もするが。

狩り、採集――『狩猟本能』。
純粋な快楽としての「盗み」の動機は、そこにあると私は思っている。

私が初めて万引きをしたのは、小学校1年の冬だった。

そしてその万引きの後、私は強い罪悪感を感じていた。
盗んで手に入れた「宝物」が視界に入る度に「とてつもなく悪い何かをしてしまった」という恐れに戦き、やがてそれに耐えきれなくなった私は、「宝物」を自分の目にも触れない場所に隠して、ようやく安心した。

だが、誰にも見咎められなかったその最初の万引きは、私の中で「成功体験」になってしまっていた。
2回目の万引きについては、ふんわりとした記憶しか残っていない。つまり、私は大して葛藤もせず、ちょっとした思い付きのレベルで、再び実行したのだろう。

当時よく母と二人で買い物に行っていた大型スーパーの衣料品・雑貨コーナーで、1個10円の小さなガムを2,3個買ってもらった私は、「あと1つ」欲しいと思って、母がガムの会計をしている間に盗んだ。確かそれが2回目の万引きのきっかけ、だと思う。
だと思う、というのは、何十回も同じ店・同じ手口で、同じ10円のガムを繰り返し万引きしていたので、その記憶と混ざってしまっているからだ。
当時は母の買い物に必ず同行させられ、留守番したいという私の意思が通らない事への反感もあったし、母の過剰な干渉にかなり強いストレスを感じていたこともあったと思う。だが何よりも「最初の一回」の成功体験により、万引きそのものへのハードルが下がってしまっていた。

周囲の気配に気を配りながら、絶対に誰にも見つからないように盗みを行い、戦利品を持ち帰るという「狩り」は、私に高揚をもたらした。
当時の私は離人症のような症状を慢性的に感じていたが、万引きをするために神経を研ぎ澄ませている間は、体の周囲を漂う靄のようなものが遠ざかり、世界が生々しくリアルに感じられた。
そして、誰に言う訳にもいかないが、誰にも判じられることのない「戦果」を獲得することで、深い満足を感じてもいた。

言い訳するならば、当時の私は善悪について混乱していた。
母は、私が学校の先生やクラスメートのお母さんなどに誉められたと報告すると、必ず「それはお世辞だ、おだてられて真に受けるのはバカだ」という種類の否定をした。
学校では称賛される95点のテストを家では叱責され、外で大人に褒められるのも良くないことだと断じられる。かといって母が誉めてくれることも稀で、特に悪いことをしたつもりがなくても叱られ続ける。つまり何が良い行動で、何が悪い行動なのか、「母の判断基準がその他の大人と違う」ことすら分からなかった当時の私には、理解が難しすぎた。
そんな中で「誰から見ても確実に悪いこと」である万引きを隠れて行うのは、露悪的な「安心」を私に感じさせた。理不尽に思える母の𠮟責も「まだバレていない悪事」があることで、「アレがバレるよりはまだマシだ」と思えたし、盗みは悪い事だが、逆説的に「盗んでいない時の私はそこまで悪くない」とも言えた。当時の私は、「確実に悪いこと」をすることで、残りの時間を「そこまで悪いことをしていない私」で過ごせるようにも思っていた。

こうして思い返してみると、当時の私が万引きに手を染めていたのは、ある種の必然だったのかもしれないと思う。当時7歳だった私の内面は、十分すぎるほどに歪んでいたし、それを正せるチャンスもなかった。

私は臆病で、それ故に慎重だった。TVや新聞、本などから、万引きやその他の犯罪に関する情報を仕入れ、「万引きをする人間は徐々にエスカレートし、それをきっかけに捕まる」ことを学んで、10円ガムを上回る大きさや金額の商品は狙わないように気をつけた。
狙う獲物は10円ガムから徐々に文房具へと移り変わっていったが、「ねりけしのごく一部」「香り玉を数粒」のように、万一発見されても「友達から学校でもらった」と言い張れる量に留めた。私が狙う商品の棚の周辺は勿論、店全体の店員や客の数が多いと感じた日には実行自体を取りやめた。
一度成功した店以外では万引きをしないようにしたし、「母がレジで会計をしている間」以外のタイミングでは盗まなかった。母と店員、二人の人間の意識と目線が確実に私から外れるタイミングが、その瞬間だったからだ。
恐ろしいほどみみっちく、スケールの小さい盗みに、私は全力で取り組んでいた。そしてあまりに被害金額が少なかったからなのか、私の「全力」が功を奏していたからなのか、一度も捕まることはなかった。

2年余りの期間、そんな盗みを繰り返していた私が止めたきっかけが何だったのかは、自分でもよく分からない。

小学4年生になっていた私はある日、いつものように獲物を狙おうとして、ふと「もうそろそろ止めよう」と思った。
「見つかったらマズいから」とか「よく考えるとそんなに欲しくないな」とか、理由はいくらでもあったが、どうあれその日なんとなく止めることにした私は、それきり万引きをしなくなった。

9歳になっていて、分別が付いた部分もあるだろう。
だが「小学校4年生」という時期で切り取ると、多少の心当たりがある。

まず、学年が上がったことで金管バンドに加入して、学校での活動時間が増えていた。同時にクラスの担任が変わって、学校生活を面白く感じ始めた時期でもあった。
そして父の浮気事件が起こり、母の意識が父に向かっていて、叱られる回数が減っていた。更に父方の祖父ががんで入院し、その見舞いのために母の外出が増えて、家にいる時間が少なくなった。
母との接触時間が減り、「母以外の、外の世界」を手に入れた私は、盗みでしか得られなかった達成感を「外の世界」で感じられるようになったのだろう。
善悪についての混乱も、「家と外では違う」という風に呑み込める年頃でもあった。ストレスが軽減し、リスクなく達成感を得られるならば、わざわざハイリスクな万引きをする必要はない――と感じられる正常さが、当時の私にあったのは幸いだったと思う。

さて、もしも身近な人の万引きに困っている方がこの文章を読んでいたら、一つ試してみて欲しいことがある。
万引きに近い達成感を得られる――と私が思っている――「狩猟」「採集」による置き換えだ。

手っ取り早いのはゲームだろう。明示的に「狩り」をテーマにしていなくても、敵の配置を確認し、狙いを定め、攻撃したり逃げ隠れしたりしながら目的を達成する行動は、多くのアクションゲームに組み込まれている。今度はゲームに依存してしまう危険性はあるが、コントロール可能であれば即効性のある対応策のはずだ。
なお、万引きの検挙人口は年々減少しており、特に10代の検挙人数は平成22年から令和元年の9年間で8割も減少しているらしい。ゲーム人口の増加の功績ではないか――と個人的には思うが、どうだろうか。


もしアナログな「狩り」が可能なら、そちらの方が望ましい。ストレス発散も兼ねられるし、新たな生活習慣にもなり得て、子供ならば特に根本解決にもつながる可能性がある。
冒頭にも書いた昆虫採集、潮干狩りなどの他、キノコ狩りやタケノコ掘り、魚釣り。射撃などのアプローチも良いかもしれない。アクティブな成人ならサバイバルゲームが最適だろう。
潮干狩りやキノコ狩りはスリルには欠けるが、食べ物という分かりやすい成果物を持ち帰ることが「狩り」として非常に大きな達成感を生む。戦利品を家族に褒め称えられれば、傷ついている自己評価の回復にも繋がるはずだ。

古今東西、どんな法律も宗教も、一律に「盗み」と「殺し」は禁じている。
「盗み」と「殺し」を容認すれば人間社会は成立しないので、それは当然必要なルールだ。だが同時に、これらは明確に禁じなければ必ず発生することでもある。

例えば野生動物にとって「盗み」や「殺し」は何ら悪いことではなく、生きていくのに不可欠ですらある。
サルにとってもそうだろう。我々がサルでなく、ヒトであるが故に「盗み」と「殺し」は禁じられ、狩猟本能は封じられる。

「欲しいものを購入する」ことが染みついていない子供にとって、狩猟本能を抑えて「盗まない」ことは、自然にできることではない。
「盗んではいけない」というルールを理解し、その意味に納得と同意をして、「欲しい」と思う欲求を抑えなければ、「盗まない」ことはできないのである。大多数の人にとってあまりに当然な「盗まない」という行動は、実は非常に高次の機能を必要としている。

「たかが万引き」などと言うつもりはない。紛れもなく窃盗だ。
だが、「悪いことは悪い」で全てを完結出来てしまうような、潔癖なモラルを持つ人には、そのモラルを持てていることは当然ではないのだ、と伝えたい。
子供に無償の愛を適切に注げる親が、当然ではないように。
「悪いことは悪い」という種類のモラルを獲得して成長し、その後も揺ぎ無く持ち続けられる人間も、当然ではない。

大人になってからの私は、一切の犯罪行為を行わないまま生きている。
だが、それは「非合理的だから今は行わない」選択をし続けてきた結果だ。
犯罪に類する行為は、私にとって常に行動の選択肢の中に存在している。

そして同時に、たとえば私が今道を歩いていて殺されないのは「非合理的だから今はコイツを殺さない」という選択を、道行く人たちの全員が行っているからだ、と思っている。
だからといって常に怯えているわけではないし、大きな問題は起こっていない。だが、自然に犯罪に対するモラルを獲得できていれば、恐らくこんな思考はしない大人になっていたのではないか、と思う。

社会を、他人を、無条件に信頼するために、モラルが必要なのだ。
もしも私の息子が万引きをし、それに気付くことが出来たなら、出来る限りの対策を取って、私の持ち得なかったモラルを――人間社会への信頼を、息子が獲得できるように努力したいと思っている。


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