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「文章を書こうなんて思う人間は、全員何か傷ついている」、という話。

「文章を書こうなんて思う人間は、全員何か傷付いている。これは絶対です。傷を負ってなきゃ、何か書こうなんてわざわざ思わないんですよ、普通の人は。」

私がこの台詞を聞いたのは、大学2年の春。文学部で文芸を専攻して、その年度が始まった最初の授業でのことだった。

私の出身大学の文学部は当時学科が存在せず、全員が「文学部」として入学して一年生の間を過ごし、二年への進級時に専攻を選ぶシステムだった。
実際に受けた文芸専修の授業は、私には正直意味があるとは思えないものばかりで、別の専攻にすれば良かったかと後になってから後悔したが、たった一つだけ強烈に覚えている教授の台詞が、それだ。

教授と書いたが、正確には教授だったのか臨時講師だったのかも定かではないし、顔も覚えていないその人の、かなりの偏見で出来上がった台詞であることは間違いない。
だが、この言葉は凄まじい納得感で私の中に刺さった。

なるほど、だから私は書きたいのか――という納得感。

そして、だから私は読んだものの方が納得しやすいのか――という理解だ。

単に文字が好きだから、ということも勿論あるだろう。
だが私は、話として「聞いた」他人の意見よりも、文章として「読んだ」意見の方を取り入れやすい。
恐らく、何であれ喋れば十分だと考えている人と、手間をかけても文章にしたいと考えている人の間には結構無視できないような差があって、「書く人」の方に私は親和性を感じたり、共感しやすいのだと思う。

その授業を受けてから何年も過ぎた後だが、大学卒業前後にしていた編集プロダクションでのアルバイトで、「テープ起こし」の仕事をする機会が結構あった。
ライターさん達によるインタビューの音声を録音したものを、単純に聞いたままタイピングして、テキストデータに変換する。そうして文字化されたインタビュー内容を元にして、ライターさんたちがインタビュー記事を書き、それが雑誌などに載る訳である。当時は本当に音源がカセットテープに録音されていて、ウォークマンのような再生機器で聞きながらPCに打ち込んでいた。今の時代はテープではないので「文字起こし」と呼ぶはずだ。そして大分AIが肩代わりできるようになってきているので、近い将来、完全に消える仕事かもしれない。

私のアルバイト先では当時、中小企業の経営や起業などに関わる事柄を中心に、ビジネス誌向けの記事を書く仕事を多くしていた。なので私が聞く音声テープは、中小企業の経営者や自営業を行っている人に対するインタビューが多かったのだが、私が音声を聞いていて、苦痛を感じないインタビュイーは非常に稀だった。そして、苦痛を感じないと思った音声は大抵が「何らかの著書のある人」だった。

無論、私が個人的に陽キャを苦手としているとか、経営者にありがちな押しの強さ・語調の強さなどを受け入れられなかっただけの可能性は高い。当時の私もそう判断していた。
だが本を出すまで行かなくとも、例えば今、noteを書かれているような方々に対するインタビュー音声だったならば、私が苦痛を感じる確率はもっとずっと下がっていたのではないだろうか。

冒頭の教授の台詞で言う「何か傷付いている」人の言葉には、たとえ同じ内容であっても、相手を傷つけないような思いやりや、その人が抱えた傷の分だけの深さがあるのかもしれない。そして、そうした人の言葉であれば、私自身が負っている傷を無神経に抉ることがあまりなく、私にとって苦痛を覚えずにインプットできる言葉なのではないだろうか――と、思う。

当時の00年代やそれ以前と比較して、今の時代は「文章を書く」ことへのハードルはめちゃくちゃに下がっている。大して傷を負っていない人でも文章を書く必要は出ているだろうし、「書く」選択をするのかもしれない。
そもそも人生を生きてきて、何一つ傷付いていない人というのもあまりいないとも言える。

でもきっと、「書きたい」と強く思い、自分の内面を文字にして表現することに熱心になれるような人は、何かの傷を抱えていて、でもその傷の事を忘れていない、忘れないように生きようと思っている人だ。
そう私は勝手に思い、勝手に親近感を抱きながら、書くことが好きな人たちの文章を、今日も読ませて頂いている。

えへへ、noteの皆さんの事ですよ。


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