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【毒親育ち】来客と女性が苦手、という話。

先日呟きで大騒ぎして、慰めと応援を頂いていくらか正気に戻ったのだが(本当に助かりました、ありがとうございました!)、私はマジのガチで来客が大の苦手である。

私目線で「この人は親しい/信頼できる/来てくれて嬉しい」と感じる相手なら大丈夫なのだが、そうでない人……顔と名前が辛うじて一致するレベルのご近所のおばあちゃんや、会いたいとまでは思えない親戚、それ以外でもまぁまぁ大多数の人々は全員ダメだ。よほどの用事がない限り敷地内に立ち入らないで欲しいし、「野菜持ってきたよ!」とか「(ぽよ息子)ちゃんの顔を見たいと思って!」とか、もう何一つ嬉しくないから一生来ないで欲しい、と真面目に思っている。

回覧板なんてシステムはマジで失くして欲しいし、宅配便は100%完全に置き配にして欲しいし、母がやっている生協の宅配も、便利なのは分かるがもういい加減やめて欲しい。毎月末、ピンポンも押さずに玄関先にずかずか入ってきて「こんちはー!」と言ってくる新聞の集金のオッチャンに至っては、本気で「何で振り込みにしないの!?」と母と揉めたこともある(今来てくれている集金の人に悪いから切り替えたくないし(※新聞の集金は担当件数での歩合給らしい)、払うのは母なのだからお前には関係ない、母の不在の時は来ても無視すれば良いだろう、という理屈で押し切られてしまった)。

そもそも玄関の鍵が開けっ放しというのは、防犯の観点で言っても全然良くない。のだが、田舎であるが故に周辺一帯が滅多に玄関の施錠をしない文化で、「鍵をかけるのは『近所の人に来て欲しくない』という意思表示になるから駄目」と言い張る母に負けて渋々容認しているのである。
もう根本的に、田舎に住むこと自体が私には向いていないわけだが、まぁまぁ一旦置いておく。

そういうわけで、来客は本当にガチで苦手だ。
対応するのが私かどうかに関わらず、「家に他人が入って来る」瞬間そのものが、うっすら恐怖と言って良いレベルでダメだ。玄関がガラガラと開いた瞬間に影も形も消え失せるオセロと一緒に雲隠れしたいぐらいである。
が、実際にはそうも言っていられないので、来客大好きな息子が玄関へ走っていく姿に勇気を貰いながら渋々応対したり、一人で気力がない時には居留守を使ったり、まぁまぁ凌ぎつつ暮らしている。

何故こんなに駄目なのかをつらつら思い返してみる……が、よく分からない。子供時代に来客に叱られたり怒鳴られたりした記憶はないし、もしもあったら覚えているだろう。
となると、猫の習性と同じような本能的な恐怖だろうか。確かに、自宅に他人が侵入してくるのは、イコールでそれ以上逃げ場が無くなる感じもする。だからこそ古今東西、「自宅に招く」が友好の表現として成立するのだろうけれど。うーむ。

強いて言うとすれば子供時代、来客があるとその滞在の数時間前から数時間後まで、母が緊張状態にあったことが思い出されるが、それだろうか。

母は、少なくとも私ほど来客が嫌いな人間ではない。
だが他人の目を非常に気にするので、昔から来客の予定がある日は入念に家の掃除をし、花を飾り、お茶やお茶菓子を用意し、自分や私の身だしなみを整えることに躍起になっていた。そして客が来る時間が予定より少しでも遅れると文句を言っていたし、客が帰る時間が想定よりも長引くと、そこも更に文句を言っていた。

今考えると、母はグチグチと文句を言いながらも、実際には来客をもてなすことを楽しんでいたのではないかと思う。当時、来客はそこそこの頻度で発生していたし、明らかに母が好きで呼んでいるように見える相手・状況も多かった。母が来客を苦手としていたなら、来客が来る機会そのものを極限まで減らす努力をしたはずである。現在の私のように。
ただ母が内心では楽しんでいたにせよ、「来客がある日のピリピリした母」のキレやすさが私にとって危険だったことは事実で、その記憶が私の中に「来客は怖い」というイメージになってしまっている、のかもしれない。

うん。段々これが原因のような気がしてきた。よくよく考えるとこの怖さは、私が「キッチリ化粧をした女性」に感じる怖さと同質のものだ。
外出時などの「化粧をした母」も同様に緊張状態にあり、普段にもましてキレやすかったため、私は今も「化粧をした女性」が特に苦手、というか怖い。自分で化粧を出来ない・したくないのは肌の体質によるものだが、他人の「化粧をした顔」が怖いのは間違いなく母の影響である。

元々私は女性が全般的に怖いのだが、どう怖いかというと「予測不可能な気がする」からで、もっとハッキリ言えば「私には予測不可能な理由とタイミングで突如として怒り出し、私を責め立て、怒鳴ったり殴ったりして来そうな気がする」、しかも「何をされようと逆らってはならず、全面的に服従せねばならない気がする」からだ。
そして来客というのは男女問わず、大半が予測不可能な相手である。来る時間が予定されていても、細かい意味で「いつ来て、何をして、いつ帰るか」は制御不能だし、私の既存の概念の中では「全面的に要求を通してあげる必要がある相手」でもある。
「自分で精神的・物理的距離を調整することが出来ない相手=危険」、このイメージが何種類も重なった結果として、特に「親しくない女性の来客」への恐怖感に結びついているのだろう。

無論、頭では分かっている。
世の女性の全てが私に対して、突然怒鳴り散らしたりしてくる訳はない。女性だからという理由で、私が全面服従せねばならないはずもない。
どんな来客であっても、来て欲しくないなら断ればいいし、さっさと帰って欲しいならそう言えばきっと聞いてくれるだろう。多少気分を害する可能性はあるけれど、気分を害したからといってキレまくるような人はそうそういないはずだし、大半の人は気分を害したら「次はもう来ない」とか「今後付き合いを止める」という選択をするはずである。

そして私自身の価値観としては、交流する相手が減ることは全く苦痛ではない。来客が怖いのは、そもそも「会えて嬉しい」とは思っていない相手だからこそ起こる現象である。そんな相手に嫌われるなら、言ってしまえばwinwinなのだ。
だが、絶対にそれをしてはいけない「ような気がする」。
この辺りは恐らく、特に女性に対して全面的に良い顔をし続ける癖のある母の、「女性に嫌われるようなことは、絶対にしてはいけない」という長年の教えによる刷り込みのように思う。

母は誰にでも良い顔をするタイプの人間だが、特に女性に対してはその傾向が凄まじく強い。「あの人は性格が悪い」「頭が悪い」「図々しい」などと来客の女性が帰った後に散々文句を言いながら、「でも付き合わない訳にはいかないし」「来るなとも言えないし」という結論に母自身が至るまで、クドクドと思考回路の全てを私に垂れ流してきた。

来て欲しくない客なら、何故毎回わざわざケーキを買って来てまで出すのか。何故、帰り際には笑顔で「またいつでも来てね、待ってるから」と言うのか。湿気た煎餅に冷めたお茶でも出して、冷たく「元気でね」とでも言えば良いものを。
――と、口に出してこそいないが、子供時代の私はそう思っていた。
が、母は毎回しつこいぐらいに「でも女同士にはこういうのが大事だから」と繰り返し、その母の自己正当化に由来する「教え」が私の中で「どんなに苦手な女性でも、好かれ続けなければいけない」という刷り込みになってしまった可能性がある、と思う。

しかも、この思考は「母への絶対服従」ともイメージが重なる。
私が女性全体に対して恐怖を感じつつも拒絶が出来ず、「関わるならば絶対服従し、必ず好かれなければならない」と強固に考えてしまっているのは、この辺りが原因なように思えてきた。

だが今こうやって、母の発言ではなく行動を振り返れば、恐らく母は「来客、特に女性には絶対に好かれていたかった」のだろうと想像できる。
客が食べ物や鉢植えを誉めれば持ち帰らせ、客に子供がいて私のおもちゃを欲しがればそれも与え(大事なものを取られた記憶はないので、恐らくここがトラウマになっている訳ではないが、当時の私は万一に備え、来客時には大事なぬいぐるみを隠しておくのが習慣になっていた)、金を貸して欲しいと言われれば貸す。話している雰囲気で見れば、母が常に来客よりも上位に立ったパワーバランスには見えたが、母は来客の女性達に対して優位に立ちつつも、徹底した「良い人」であることで、何が何でも好かれていたかったのだろう。
そして、もしかするとそれは、母自身が母親――私から見ての祖母に、愛されたかった、誉めて、認めて、頼って、好意を示して欲しかった、という渇きを癒すためだったのかもしれない。

――と、ここまで書いたら例によって「別にそんなに女の人を怖がらなくても良いのでは?」という気が早速してきた。相変わらず私は、面倒くさい割に意外と単純である。

元々私が怖いのは「相手が成人した状態で知り合った女性」だけだ。学生時代の友人やイトコ・ハトコなど、相手の年齢が子供の時に知り合った女性は怖くない。
そして、noterさん達には「最近知り合った成人女性」が多くいるが、全く怖さを感じたことはない。ネットを介した文字上での繋がりだから、目の前で怒鳴り散らされる心配をしなくて済むというのはあるけれど、何よりも「よほどの事がない限り、そんな事はしない人たちだ」と、漠然とした信頼を抱けている。
(ちなみに、ネットゲーム内で知り合った女性には、相手の性別が判明した途端に怖さを感じていたので、ここは間違いなくnoteで交流して下さる皆様のお陰だ。私の内面をぶちまけた記事を読んで下さっていて、私も皆様の内面が伝わる文字を読めていることが、絶大な信頼感を生み出しているのだろう。実に有難いことである。)

そしてnoterさん達は、そうでない人々よりも特に繊細な感性を持っていることが多い方々ではあるだろうけれど、それでもリアルに存在する、血肉を持った人々のはずである。
女性のnoterさん達をほぼ無条件に「いきなり怒鳴ってきたりしない人たち」と信頼できるならば、現実の女性だって「95%ぐらいの確率で、そんな事はしない人たち」と思ってもいいはずだ。

それに、母は全ての女性に嫌われないようにしたかったかもしれないが、私は別にそこにこだわる必要はない。
私を好ましく思ってくれる人を、私もまた好ましいと思ったならば、自然に交流が生まれるだろう。そうでなければ単に交流がないままなだけである。
極端なデメリットが発生する事態には恐らくならないし、なったらその時に、よりストレスのかからない選択肢を考えれば良い。

そうだそうだ。私の無礼・不親切・不手際・失言などを許してくれない相手とは、付き合わなければ良いだけで、相手に好かれるために私が挙動を改める必要はない。
今回のPTAの来客の話だって、ついつい恐れ戦きながら家に上がって貰ってお茶まで出してしまったが、そんなに家に入られるのが嫌だったなら、何十分かかろうが、玄関前の立ち話で済ませてしまっても良かった。「寒いのに家に上がってとも言われず、お茶も出されなかった」ことに不満を持つ相手ならば、二度と私の家に来なくなるだけなのだから。それがもし、怒鳴り散らされて平手打ちを食らうような事に発展するなら、もう警察にお願いすべき事案である。

うんうん、そう考えたらそんなに怖くなくなってきたぞ。

実際に目にした時の恐怖感は残るかもしれないが、「考えただけで怖い」は、開き直った思考を腑に落ちた状態にまで持っていければ、いずれ消えるはずである。

しかしまぁ、程度が軽いのでアレだが、これって細かく分類すると、複雑性PTSDとかそういう奴ではないだろうか。
まぁ、「怖いよう怖いよう!!」と呟かせてもらって解決がつくレベルなのだから、心療内科でガチ治療をお願いせねばならない程ではないように思うが。多分こうやって分析して書いていれば何とかなる気がするし。

っていうかそう考えると、数年前に私が下剋上を果たすまで、「私は子育てに成功した!」とドヤっていた母には呆れ返らざるを得ない。軽度とはいえ、子供に数々の恐怖症を植え付けておいて、何が良い親だよ。ケッ。
――と久しぶりに沸々と怒りを感じるが、まぁまぁ母が原因だと思い当たれば非常に納得感は出た。
そして「制御不能な来客」の怖さも「女性」の怖さも母由来のもので、しかも「好かれねばならない」というルールは単に母自身のものだったと分かれば、ここの置き換えは可能だろう。

大丈夫。世の中の「母でない女性」は、来客でもそうでなくても、余程でなければ私に危害を加えない。私が服従しなくても、私を嫌な奴だと思っても、「なんか感じ悪いな~」と思って立ち去るだけのはずである。
気分を害したからといって突然怒鳴り散らすことは稀だし、何時間も説教をかましてくることは更に稀で、殴りかかってくるようなら事件だ。
そして、怒鳴られても説教されても殴られても、私にはそれを拒絶し、反撃するなり逃げるなり警察を呼ぶなりして、抵抗する権利や手段がある。

うんうん、大丈夫大丈夫。
この先に女性や来客を怖いと感じた時には、この辺りをぶつぶつと、自分に言い聞かせることにしよう。
その内、私の「女性が怖い」「来客が怖い」がマシになってくれるかもしれない……と期待したい所である。

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