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「空腹」という幸福、の話。

私が初めて「空腹」という感覚を知ったのは、中学生になったある日の事だった。
5時間目か6時間目の授業中だったように思う。お腹のあたりに「胸焼け」でも「吐き気」でもない、ぽっかりとした空虚感を感じた私は、その感覚が何を指すのかしばらく真剣に考えていた。そして「くるるるる」とお腹が鳴ったのを感じて、感動した。

――これが「お腹が空いて、お腹が鳴る」か!!なるほど!!

当時の私にとって、給食の大半を残すのは日常茶飯事だった。その日も恐らくそうだったのだろう。育ち盛りの中学生、授業や部活動での運動量も増えていた私の体は、そこでようやく能動的に、食べ物を求めたのだ。

「空腹」について納得した私は、休み時間に水道で水を飲んだ。冷たい水が空っぽの胃袋に落ちる感触が気持ちよくて、初めてただの水を「美味しい」と思った。授業が終わり、部活動を始めると空腹は意識の外に追いやられたが、帰宅してから食べた夕食は、「美味しかった」。

空腹になってから食べれば、食事はそれ自体が「美味しい」のだと、私は初めて、理解できたのである。


2460g――千円札を見るより先に覚えさせられたこの数字は、私の出生時体重だ。
「ワタリは小さな赤ちゃんだったから苦労した」「ワタリは体が弱くて苦労した」という枕詞と共に何度も何度も聞かされ続けた、この「2460g」は、特に「もっと食べなさい」という説教を受けている最中に、繰り返し出現した。
今になって思えば、1940gの低体重で生まれた私の息子よりは断然大きいし、保育器に入っていたわけでもないのだから、特段気にする必要もない程度の「小ささ」である。だが、母にとってはこの上なく重大な欠陥だったのだろう。

私の体が小さく、小食であることを、母は「治し」たかった。
母自身も小柄で痩せていて小食であるのに、母は常に私に、食べられる限界まで食べることを要求した。

だがどんなに努力したところで、子供時代の私には、母が満足するほど食べることは不可能だった。
偏食も激しかった。大半の野菜という野菜は「我慢して食べる」ことすら不可能で、口に入れて舌に触れると、ただそれだけでえづき、戻してしまう。
舌に極力触れないように小さなかけらを口に放り込み、噛まずに丸呑みする――という方法を私は編み出したが、体積の大きいホウレン草のお浸しなどは、それすらできない。「好き嫌いしないで食べなさい!」と叱られる度に、涙目でえづき続けながら、たった一口分のお浸しを、数十分かけて飲み込んでいく。そんな私を眺める内に、流石の母も無理に野菜を食べさせることは諦めた。

――しょうがないわね、ワタリは。じゃあ食べられるものだけで良いから、もっと食べなさい。

そんな「許可」で一旦は救われた私は、すぐに「ワタリは野菜を食べないんだから、果物を食べなさい」と毎食後にデザートとして果物を食べることが課せられるようになった。同時に「背が低いんだから、牛乳を飲みなさい」とも。
果物は甘みがあるし、嫌いではなかった。だが、果物や牛乳を摂るために胃の容量を空けておこうとすると、必然的に、ご飯やおかずの量は減らさざるを得ない。
朝食に「バナナと牛乳」を摂るなら、パンを食べる余地はないのだ。今の私なら「必要なカロリー量を上回っている」と説明が出来ただろうが、当時の私には「そんなに食べられない」という主張しか出来ず、そしてその私の主張を、母はどう説明しても理解してくれなかった。
日常的に発生する「胸焼け」や「胃もたれ」を訴えると、母は胃薬を出して「あんたのパパは、胃腸が弱かったからねぇ」とため息をついた。年がら年中風邪を引いては発熱する体質だった私はそれを聞いて納得していたが、今にして思えば単なる食べ過ぎである。

母は食事のマナーにも厳しかった。箸の持ち方が出来ない、という理由で夕食のチャーハンをひっくり返されてからは、不器用な私にとって食事の時間は強い緊張を強いられる時間となった。コップの麦茶を、味噌汁を、絶対に器を倒さないような配置に調整し、肘がテーブルにつかないよう、またご飯粒やおかずをテーブルに落とすことがないように注意しながら、また母の話に最適な相槌を選びながら、空腹を感じたことがない胃袋に、指定された量の食事を詰め込んでいく。風邪を引いた時などに「残しても良いよ」と言われて食卓を離れられることが、心の底から嬉しかった。

何故、人間は食べなくてはいけないのだろう。
ご飯なんか、食べなくて済むようになればいいのに。

一度、「食事の準備が大変だ」とこぼす母に「ご飯なんて無くてもいい」と発言して烈火の如く叱られてから、「食べたくない」という意思表示はしないように心がけていたが、私はずっと、食事の時間が来るたびに憂鬱を抱えていた。年齢が上がると共に食べられる野菜の種類は増えて行ったが、いつまで経っても周りの子よりも小食で偏食な私に、母は私が中学校に上がった時点で何らかの諦めをつけたようだった。

――部活の朝練があるなら、朝ごはんは一人で食べてから出かけなさい。

果物と牛乳のノルマが課されなくなった私は、歓喜した。
トースターで焼いた食パンに、「自分の」その日の気分で選んだジャムを塗り、あるいはマーガリンだけを塗って齧る。ただそれだけの「食べ物を選択する権利」は、私にとって間違いなく小さな「自由」だった。

当時、新聞配達のパートを始めていた母としては、少しでも睡眠時間を確保しておきたかったのだろう。一人で6時に起きて朝食を食べ、制服を着て、母を起こさないように学校に出かける――という新しい日課は、私にとって清々しく快適だった。朝から説教を受ける心配をしなくて良く、余計なものを飲んだり食べたりしなくていい。
そんな日々に慣れ始めた後、私はようやく「空腹」という感覚を知ったのである。

成長期でもあったためか、一度自覚してからというもの、「空腹」は頻繁に訪れるようになった。日によっては給食の前、午前中の時間にも感じることがあり、そんな日の給食はとても美味しかった。

空腹という感覚に、そして「空腹な状態で食事を取る」という快感に、私は夢中になった。そして、なるべく多く空腹を感じようと、「空腹な状態で食べる」という楽しみを守ろうと、工夫するようになった。
給食を食べる量を厳密に調整し、例え好きなメニューであっても一定量は必ず残した。それまでの私の「小食な」イメージを更新してしまって、夕食の量が増やされることがないよう、母の前では決して「お腹が空いた」とは言わず、今まで通りの量だけを食べるように気をつけた。

大学進学で一人暮らしを始めてからは、好きなだけ食べること、好きなだけ「食べない」ことが可能になった。
そこで初めて、「度を越えた空腹は、気分の落ち込みを誘発する」ということを学んだが――母と同居していながらも台所を占拠できるようになり、何をいつ食べるか食べないか、自分の意思で決定できる今の私の食生活は「幸福」だ。

満腹になってなお無理矢理に詰め込む食事は、苦痛だが――
空腹になってから食べる食事は、美味い。

ただそれだけのシンプルな幸福を忘れないように、壊さないように。
「おなかすいたーーー!!」と叫ぶ息子の声を微笑ましく思いながら、食べるのも料理するのも苦手な私は、毎日いい加減な食事を雑に提供している。最低限の栄養バランスと、多すぎず少なすぎないカロリーだけに留意して。

食事は喜びであり、楽しみである、はずなのだ。
多くの人にとって疑いなく幸福であるはずのそれを、私の息子もまた疑問に思うことなく、幸福であると感じ続けられると良いな、と思う。


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