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「彼氏じゃなかった彼」に懺悔したい、という話。(3)

前回までの話はこちら。

① https://note.com/watari_niihara/n/nef0a10ad9ba0

② https://note.com/watari_niihara/n/n64473f4da2e7


タカさんとの2度目の居酒屋デートは、やっぱり楽しかった。
私はここぞとばかりに『推し』のプライベート周りの情報収集に励んだが、タカさんは何の抵抗も感じない様子で、色々と答えてくれた。仕事の苦労話や愚痴も含めて、饒舌に話すタカさんは相変わらずカッコ良かったし、いつかはフリーランスとして独立したい、とアラサーらしい夢を語るタカさんの熱意は眩しく、微笑ましかった。
だが、タカさんの目指す生き方は、幼い頃から母が私に刷り込み続けた「大きな会社で定年まで勤めあげる男性こそが良い」という価値観では賛同しかねるものだった。そしてそれは、もしタカさんとこの先付き合えて最大限上手くいったとしても、結婚を意識した場合、母からの承諾は得られない、ということも意味した。
私にとってどんなに都合良く話が転がったとしても、タカさんと過ごせる時間は、長くはなり得ない。そう考えると寂しさはあったけれど、タカさんの夢が叶うと良いな、と祈りにも似た思いで、私はその話を聞いていた。

これが2度目ということもあって、居酒屋を出た後はごく自然にタカさんの部屋に向かった。部屋は相変わらず片付いていて、生活感もあって、相変わらず驚くほど居心地が良かった。
前回と同じかそれ以上に酔っぱらっていたタカさんは、部屋に入ってからは言葉少なだった。私が部屋にいる状態に少し慣れてくれたのか、気が抜けてリラックスしているような、ちょっと眠そうな、そんな表情でぐでっとテーブルに寄りかかるタカさんを、私は少し嬉しいような気持ちで眺めていた。私がここにいても、タカさんにとって邪魔ではないのだと、そう言ってもらえているような気がした。

「例えば、だけどさー」

やがてテーブルにぐったり突っ伏したタカさんは、心地よい沈黙の続きのように、間延びした声で呟いた。

「仕事から帰ってきて、そんでここにワタリちゃんがいてさー」

冗談、あるいは酔っ払いの戯言。そうとしか思えない状況と声色で、タカさんはそこまで言って、顔だけ私に向けて、へらりと笑った。

「めちゃめちゃゲームとかしてたら、すげー良いなー、って」

その時、私はどんな顔をしていただろう。
頭からつま先まで貫かれたような衝撃で、私は身動きが取れなくなった。真っ白になった頭の中に、最初に浮かんだのは嬉しさで、次の瞬間に「恐れ」が湧き上がった。

タカさんの言葉はその頃の私にとって、想像すらしたことがない概念だった。
「料理を作って待っている」なら簡単だった。「笑顔で出迎える」でも何とか分かった。でも、タカさんが言ったのは「めちゃめちゃゲームしてる」私で、それはつまり「ただそこにいればいい」という意味で、それは私の記憶にある限り一度も触れたことなどなく、本や映画の中でしか見たことのないものだった。
アラフォーになった今の私は、”それ”の名前を知っている。タカさんが口にした”それ”は間違いなく、この世界で最も尊い「無償の愛」と呼ばれるものの、ひとかけらだった。

――そんなものがこの世界に、あるわけがない。あってはいけない。
ギシギシと軋みながら動き出した思考で、私の内側にいる”私”は、そう金切り声を上げていた。
そして同時にタカさんの言葉に、縋りついてしまいたい衝動に駆られた。泣きたくなるような温かさの”それ”を、強烈に「欲しい」と思った。

タカさんの台詞を真に受けて、私が本当に、この部屋に居座ってしまったとして。
穀潰しのペットとして、居心地が良くて良い匂いのするこの部屋で、掃除も洗濯も食事の用意も何もしないまま、一日中ゴロゴロしながらゲームして。仕事で疲れて帰ってきたタカさんを振り返りもせずに「おかえりー」とか言うだけで、タカさんに物理的にも精神的にも何のサービスも提供しないで。そんな「ただいるだけの私」を、タカさんがそれでも構わないと、本当にそう思ってくれるのだとしたら、

――私は、私でなくなる。
そんな風に、許されてしまって良いわけがない。
私の知る世界は、「ただいるだけの私」を許すような形をしていない。
逃げなきゃ。これ以上、ここにいてはいけない。

優しく温かく尊い未知の概念を、私の頭は拒絶した。
どうしようもなく渇望しながら、でも”それ”を手に入れたら最後、自分が自分でなくなるという、はっきりとした予感があった。
未知なるものへの恐怖から逃れようと、私の中の”私”が叫んだ「逃げなきゃ」という選択肢は、ただ唯一の正解のように思えた。

タカさんにどんな返事をしたのか、それとも笑って誤魔化したのか、私は覚えていない。その後どんな話をしたのか、私が上手く笑えていたかどうかも。
やがてタカさんが眠った後、私はなるべく音を立てないように部屋を出る準備を済ませ、タカさんの寝顔をしばらく眺めた。
風車の本と扇風機があって、良い匂いのするこの部屋が、尊くて眩しくて温かくて、本当は出ていきたくなんてなくて、だからこそ今すぐ逃げなくてはいけない、と思った。
これ以上いたら泣いてしまう、というギリギリまで部屋の空気を吸い込んで、それから私は、タカさんの部屋を出た。

丸々と太って傾いた月が綺麗な夜だった。
始発までまだ3時間以上ある夜道をひたすら歩きながら、司教様に許されて泣いたジャン・バルジャンの気持ちが分かった、と思った。
履き慣れていないパンプスは最初から靴擦れを起こしていて、家に着くまでに合計3箇所の豆を潰して、でも贖罪の足しにもならなかった。
泣く資格は、なかった。



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