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【毒親話】「子供が言う事を聞かないストレス」があること自体が尊い、という話。【#家族について語ろう】

はあちゅうさんのこちらの記事で、育児中のママさん達がどのぐらい、「子供が思い通りにならない」事態に苦労しつつ頑張っているか、という話が書かれていた。

これを読んで、心の底からの「分かる」と「分からない」を同時に味わった。動悸がするほどに。
親目線で言うと、私はあまり外出しなかったために「ある程度は」という但し書きが付くが、「分かる」。
だが、子供目線――子供時代から独身時代までの価値観で言うと、「何一つ分からない」。

子供がいわゆる「手のかかる子」かどうかは、個性で結構な差があるけれど、基本的に子供は大人にとって都合の悪い自己主張をするものだ。
私の息子は、発育上の個性か、私自身の関わり方が悪かったためかは分からないが、自己主張をするようになった時期が遅く、それほど激しくもなかった。とはいえその種のトラブルはそれなりにあったし、9歳になった今でさえ、全くなくなったとは言えない。

だが、親から見て「全く手のかからない子を作る」ことは実は可能だということも、私は知っている。自らの体験として。
私の母は――毒親だった私の母は、それをやった。手のかからない子を、母にとって不都合な自己主張を全くしない子供を、最高傑作と母が呼んだ子供を『作った』。
そして子育てとはそういうものだと学習してしまっていた私も、一時期ではあるが、母の育児をなぞった「毒親」になっていた。

例えば上で引用したはあちゅうさんの記事を私の母に読ませたら、母は間違いなく、こう述べるだろう。

「子供が泣き喚こうが何だろうが、言う事を聞かせれば良いだけだ。引っ叩いてでも言う事を聞かせるのが親のすべきことだ。思い通りにならないのではなく、子供を思い通りに動かすことが出来ない、親の努力不足だ」

「泣く子供を叩いたら余計に泣くというのは、泣けば通ると子供に学習させてしまっているからだ。泣き喚けば泣き喚くほど、余計に叩かれると学習すれば、子供は多少の事では泣かなくなる」

「親が一緒にいて過ごしやすい子供を『作る』躾をしないから、子供が好き勝手に振舞うのだ。子供をきちんと躾ければ、そんな言う事を聞かない子供になどならない」

そして私は、そういう思想に従って育てられた。

2歳児でも3歳児でも、泣き叫ぶ度に泣き止むまで親に叩かれ続けていれば、やがて泣き叫ばなくなる。どんなに痛くても悲しくても、親の一声で完全に黙るようになる。子供からすれば、親から与えられる暴力はイコールで生命の危機だからだ。
親にとって不都合な自己主張をしない子供は、簡単に『作れる』。
毎日徹底した体罰、つまりDVや虐待を行い続ければ、作れてしまう。

勿論、私に2歳3歳の頃の記憶が残っている訳ではない。
だが、私の母は育児について「育児ストレスなど全く感じなかった」と繰り返し言っていた。
「ワタリが泣いて困ったことは殆どなかった。2歳の頃スーパーで駄々をこねられて困った、たった一度だけだ」というのも、母のお気に入りの話だった。

しかし、この話は今にして考えれば明らかにおかしい。私がナチュラルに「完全無欠の手のかからない子」だったはずはないのだ。
私には、小学校低学年の頃に、母に叱られて泣いたら「泣くんじゃない!」と怒鳴られて、引っ叩かれていた記憶がはっきりと残っている。
それも一度や二度ではない。日常的にだ。

そして、「40年弱も前の出来事を、今の母は忘れてしまっている」という話でもない。
「ワタリに困らされたことはない」発言を私が最初に聞いたのは、小学校低学年の頃だ。当時もリアルタイムで、母は私を思い通りにするために、しばしば体罰を使っていた。
にも拘らず、私に困らされたことがないと述べていたということは、つまり母は、私を叱り、叩かねばならないことに困ってなどいなかった、ということに他ならない。
私が思い通りにならない時、泣いて欲しくないのに私が泣いた時、怒鳴ったり叩いたりを日常的にしていたけれど、母はずっと、微塵も困っていなかったのである。

子供が言う事を聞かなければ、叩けばいい。
そして、叩けば言う事を聞くのだから、何も困らない。
「TV番組に不快を覚えたら、リモコンでチャンネルを変える」というのと同じように、私が思い通りにならない時に怒鳴ったり叩いたりすることは、母にとっては単純に当然の行為だった――と、そういうことだ。

そして他人事のように書いているけれど、私自身もまた、毒親育ちだと気付く前、幼児期の息子を叩いていた。子供を育て、「正しい躾をする」とはそういうことで、怒鳴ったり叩いたりという手段は、頻度は減らせるとしても、絶対に必要な事だと思いこんでいたからだ。

例えば歯磨きをしようとして抵抗された時。ふざけてしまって手に負えないと思った時。何度か注意しても駄目なときは、私は当然の選択として息子を怒鳴り、叩いた。

それに私が疑問を持ったのは、ハッキリとは覚えていないが、恐らく息子が3歳ぐらいだったある日のことだった。

その日私に注意された息子は、私が叩こうとしたわけでもないのに、腕を上げて自分の顔をかばう動作をした。怯えて、あとずさりながら。
それを見た私は怯み、次に苛立ち、そして困惑した。

何故、この子はそんなことをするのだろう。
確かに、庇いたくなる気持ちは分かる。でもそんなことをしたら、例え叩かれずに済んでいた場合でも間違いなく叩かれるし、叩かれる所だったなら何倍も叩かれることになるのだ。
そんなことは分かり切っているのに、何故この子はそれを知らないのだろう?この世で生きるのに最も初歩的な、「話しかけられたら返事をする」よりもよっぽど重要で切実な、基本中の基本のようなルールなのに。
いや、何故かは決まっている。「体を庇う動作をしたら、それ自体を理由にもっと叩かれた」という経験がまだないからだ。

つまり、私がやらねばならない――のだろうか?
注意する声を聞いただけで怯えて、ぶたれたくないと、ぶたれるならばせめて痛みを軽減しようと自分の顔をかばうこの子を、顔をかばっている手を無理矢理つかんでどけて、あるいは庇いきれていない場所を5回も10回も叩いて、「ぶたれないように自分を庇うのはいけないことだ」と教えなくてはいけないのか?
「自分を殴ろうとする人間の前で、自分の体を庇ったら、余計に殴られるのは当然だ」というこの世界のルールを、この子が理解できるまで、この子が自分を庇いたい衝動を抑えられるようになるまで、何度も何度も叩いて教えこまねばならないのか?

――何のために?

そのルールは、本当に覚えさせなくてはいけないルールなのか?
そのルールを覚えることは、息子にとってどう役に立つ?
覚えそこなったとして、将来どういうデメリットがあり得る?

自分を殴る人間が殴りやすくなる、その人間に余計な罪悪感や苛立ちを感じさせずに済む、逃げられない相手からの被害を最小限にしつつ生活するために必要な心得――などというものが、息子にとって役に立つ状況とは何だ?「DVを受けている時」、それも、自分よりもDV加害者を優先する時、以外にあり得ないのではないか?

将来、息子がそういう状況に遭う必要があるのか。そんな目に遭わない方が良いに決まっている。そんな目に遭う状況から、逃げ出した方が良いに決まっている。
ならば、「殴られそうだと思った時に、自分の体を庇ってはいけない」などと息子に教える必要なんて、ないのではないか?

そこまで思考が行き着くと、まだ自分が毒親育ちだと理解していなかった私は、混乱した。
自分が何か、とてつもなく恐ろしい勘違いをしていると感じた。なのに、それが何処からなのか、何を間違っているのかが分からない。
立ちすくんだ私はその日、怯える息子をそれ以上叱れなかった。そしてどれだけ考えても、自分が何を間違えているのかは、分からずじまいだった。

そしてその後の私は、混乱しつつも、息子を叩かずに済むような方法を探すようになった。
自分の何が間違っているのかは分からないし、見当もつかない。だが自分が何か正しくない事だけは明白だ。自分の正当性を担保できずに混乱したままの状態で、それまでのように息子を叩き続けることは、出来なかった。

幸いにして、「じっとしないと、ぶつよ?」と言葉で脅すだけで、息子に歯磨きを行うことは出来た。それ以外の事は――例えば寝る準備をしないでぐずぐずしているとか、呼んでもいつまでも来ないとか、そういう緊急性の低い事柄は、ブツブツ文句を言う以上のことはせずに諦めた。
そもそも「息子を自分に従わせなくてはいけない」と思うことを極力止めるようにし、同居の母に「息子の躾が足りていない」と説教されても「子供が言う事を聞かないなんて、よくある話でしょ」の一点張りで押し切った。

寝る時間が15分遅くなったからと言って、どうせ大した問題はない。息子がどんなに私の言う事を聞かなくても、例えば事故の危険がないなら、極論を言えば構わないのだ。
「親の言う事を聞かない子供」なんて、どうせゴマンといる。別に「ちゃんとした親」だと他人に思われなくたって、「躾の出来ていない子」だと誰かに評価されたって、まだ幼児の息子の責任になるはずがない。私がろくでもない親だと誰かに評価されるだけなら、別にそれでいい。見知らぬ誰かに見下されるだけだ。

正直に言って、私に叩かれないようにと自分の体をかばった息子のあの動作は、私にとって凄まじく強烈な不快だった。恐ろしく、苦しく、とにかく二度と見たくなかった。
母に言い聞かされてきた「良い親」になることよりも、あれを二度と見たくない。私の事を怖がろうと嫌おうと構わないが、あの動作をされながら日々を過ごすぐらいなら、母の厭う「だらしない親」になる方がずっとマシだ。
それに、あの動作を二度としないように息子を躾けることなど出来ない。「自分の体を庇ってはいけない」などというルールを身に着けても、息子の心身を守る役に立たないことだけは確かだ。

そんな思考の元に、息子を叩かないようにし始めた私の育児は、徐々に母の育児から離れていった。
だが幼少期から繰り返し母に聞かされ続けていた「正しい育児」を、一つ一つ「これ、本当に言うこと聞かせる必要ある?」「殴るほどじゃなくない?」と否定し、私にとっての「当然の躾」を行わずに放置していくことは、恐ろしさと、強烈な罪悪感を感じさせた。

母の実行してきた「躾」を愛だと言い聞かされて育った私にとって、母のような躾をしないことは、つまり自分が息子を愛していないという証拠だった。子供をきちんと躾ける「親の責任」から逃げるのは私の怠慢であり、自分が母のようになれない、育児にストレスを感じる駄目な母親なのだと、そう毎日突き付けられている気がした。

しかし、それでも、母と違う育児を行った結果として考えられることは、「息子が私のような人間にならない」ことだけだ。それは私にとって、全くデメリットだとは思えなかった。
そもそも私と息子は、性別も違えば個性も違う。それに私自身、自分を好ましい人間だとは到底思えた試しがないのだ。
息子が私と全く違う人間となり、全く別の人生を歩むことは分かり切っていたし、息子が私と違えば違うほど、良いような気さえした。

――「母の育児」を忠実になぞらなくても、そこまで悪いことにはならないはずだ。

そう自分に言い聞かせ、叩かなくなった分だけ毎日声を張り上げて叱りながら、私は育児を続けた。
自分が毒親育ちだと気付き、「母の育児」が根底から間違っていたと知ることが出来たのは、息子が小学校に上がってから後の事だ。

今小学校4年生になっている息子は、何かあればすぐに私に叩かれていた3歳頃までのことは、もう覚えていないだろう。
だが、あの時期までの私が、息子にとって毒親だったことは事実だ。その後から毒親育ちと自覚するまで、3歳から7歳までの間もかなり怪しい。
今は恐らく、極端な毒を与えるような接し方はしていないとは思うものの、根拠は何一つない。

ただ、それでもなお、あの日自分の顔を庇った息子を私が許容できたのは、許容すべきだと理解できたことは、せめてもの幸運だったと思う。


毒親育ちの人間にとって、「そうでない育児」をすることは、非常に困難だ。自分の中にある概念や常識を再検証して、それを破るという作業が必要な上に、感情的にも受け入れがたく、多大な恐怖や罪悪感を伴う。
だから、毒親は連鎖する。してしまう。

しかも、である。
もしその毒を薄め、連鎖を断つことが出来た時、その子供はきっと、「言う事を聞かない子供」になるのだ。

自由に好きなだけ泣いて騒いで、あれをしたいこれをしたいと自己主張し、○○でなければ嫌だと駄々をこねる。支配的な毒を薄めれば薄めるほど、毒の連鎖を断てば断つほど、きっと子供はそういう「子供らしい子供」として存在することになり、親には「子供が言う事を聞いてくれないストレス」が丸ごとかかることになる。

だから、私は思うのだ。
世の中の、「育児ストレスに悩む親たち」は、間違いなく尊い。
言う事を聞かない子供に手を焼き、四苦八苦しながら、懸命に子供を育てる親は、それそのものが尊い。

親がストレスを一切感じずに子供を育てているような状態は、その分のストレスを全て子供が負っている。
親がストレスを感じているのは、正しく子供が子供でいられているからで、親が負うべきストレスを正しく親が負えている、その証拠だ。

そして、自分が毒親育ちであるにもかかわらず、育児ストレスにも悩んでいる親は、普通の家庭に育った人よりも更に誇って良いはずだ。

ストレスを抱えた子供時代を過ごし、更に親になってもストレスを抱えるのは間違いなく不公平ではあるのだけれど。自分自身が生きづらさを持っているのに、「自分が育ったのとは違う育児をする」という選択自体のストレスもあるのに、更に育児ストレスに苛まれるのは、本当に本当に苦しいことだと思うけれど。

それでも自分の子供に「子供らしくいられる子供時代」を贈れるならば。
きっとただそれだけで、胸を張って誇って良いことのはずだ。

だから、私も。
途中からではあるし、後悔も山のようにあるけれど、言う事を聞いてくれない息子に四苦八苦する今の日々に、誇りを持っていようと思う。

夏休みがもうすぐ終わる、と考えただけで浮き立ってしまう今の私の感情は、育児ストレスを知らないまま育児を終えた母よりずっと、私が息子を愛せているという証拠だ。

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