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長編小説 祠 (3/11)

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「民俗資料館? ですか」

 次に繋がった。その嬉しさから、声がやや上ずっているのが自分でもわかった。旅をしているとちょくちょく道路の案内標識で見かける民俗資料館やら郷土博物館。でも旅人の身でその土地の歴史や風習、文化等に興味を持つことなど稀で、いつもは気にも留めず通り過ぎるばかりだった。その民俗資料館に、初めて足を踏み入れる。

「そう。民俗資料館なら、祠とかには詳しいでしょうし」

 気持ちが伝わったのか、心なしか課長らしき男性も嬉しそうだった。管理職の人心を掌握してしまえば、こちらのものだった。もうその部下の方々からも酔狂な人物と耳線を集めずにすむ。

「そこは近く、ですか?」

「いや、ちょっと町の奥まった場所にありまして……えぇっと、地図は……」

 すぐそばで話を聞いていたのか、先ほどの若い女性が後ろからこの町の観光地図を滑らかな動きでカウンターの上に広げる。聞き耳を立ててくれていたことに、先ほどとは打って変わっていたく感謝をする。

 青野町民俗資料館は町の外れに位置していて、幸いかどうかはわからないが、今よりも祠から遠ざかる場所にあった。地図上のイラストでは、木々に囲まれている。

「お尋ねの祠について知っているかどうか不確かだけれど、少なくとも私たちよりは詳しいだろうから」

 課長はにこやかに言い、赤ペンで丸をつけた地図を渡してくれる。

「わかりました。ありがとうございます。早速伺ってみます」

 神代も朗らかに応える。

「よろしければ、こちらから電話で尋ねてみましょうか。少し距離もありますし」

 一転しての至れり尽くせりの対応に思わず顔がほころぶ。

「ありがとうございますっ。でも、自転車で旅してるので、直接行ってみようかと思います」

 旅の途中に民俗資料館に立ち寄るという稀有な機会を、みすみす逃したくはなかった。が、すぐさま横槍が入る。

「あっ……今日、休館日ですよ」

 先ほどの女性が、席から半身を乗り出して告げる。

 絶対にありがたいはずの忠告なのに、今度は神代が顔をしかめる。意気揚々としたところに水を差された格好になった。

「あ、じゃあ……明日、行ってみます。色々ありがとうございました」

 と、応対してくれた二人に中途半端な笑顔で頭を下げる。予期していたよりも調査に日数を掛けることになったが、流浪の身に迷いはなかった。

 そのままそそくさと後ろに下がり、長椅子に足をぶつけ、フロアに一際大きな音を轟かせ勤勉な面々の耳目を一挙に集めたが、笑顔を貼りつけたまま何事もなかったかのように平然と地域振興課をあとにする。階段を下りながら、いってぇー……、と表情を歪める。そうして明日の朝まで何して時間をつぶそうかと頭を悩ませる。祠のほうには近づきたくないし、ここいらの山は少し前に走ったばっかだし……。とにもかくにも神代は慣れない町役場をあとにし、ひとまず目についた蕎麦屋に入り、やたら喉越しのいい蕎麦をずるずると啜りながら先ほどもらった地図を眺める。近くに時間を費やすのに丁度いい観光スポットはないだろうか、と。

 火除稲荷神社──鳥居の記号が目に留まる。

 かじょいなり……、いや、ひよけいなりか。町の中心部にあってここからそれほど離れてはいない。先ほど図書館でめくった町の写真集の中にも、お祭りで賑わう神社が掲載されていた。この稲荷だろうか。火除けの神様と言えば秋葉神社だったと思うが、どうして稲荷神社が火除けなのだろうか。

 ちょっと参拝してみようか、と神代は自分の苗字にふさわしく火除稲荷に心を惹かれる。加えてたとえ心の内でも決して言葉にはしてこなかったが、どうにもやはりいかんせんとどのつまるところ誤魔化しようがなく肩が重苦しかった。あの祠から逃げ帰ったあと、急にどんよりとしだした肩。絶対に昨夜眠れなかったせいだと神代は異論を認めなかったが、帰するところ結局端的畢竟(ひっきよう)要するに心が晴れなかった。だから神社。神域でお祓い。神頼み。という弱気には気づかない振りをして、あくまでも火除稲荷神社が気に掛かったからという観光客みたいな理由で神代は細身の車輪を転がす。

 火除稲荷神社は町の中心部に位置しているにも関わらず、あまり目立つことなくひっそりと鎮座していた。まるでここの神様がそう願っているかのような慎ましい佇まいだ。鄙びた朱色の鳥居もまわりの木々にいくらか覆われているために正面から見ても全体像がつかみにくく、境内も背の高い樹木が影を落として外の明るさが届きづらい様相だった。簡素な顔の作りの狐の石像に挨拶をし、古ぼけた手水舎で手と口を清める。磨り減った石が敷かれた参道の端を静々と歩き、神前で頭を垂れる。かなりの年月を感じさせる節くれ立った柱や梁だったが、汚れや蜘蛛の巣などが一切目につかず、人々に大切にされていることが一目見てわかるほど社殿は清潔に保たれていた。清貧、という言葉を見事に体現している。絢爛な装飾はまるでなく、それでいて分厚い梁や欄干に端整な彫刻が施され、参拝者の心持ちをたちまち引き締めるかのような厳かな気に満ちていた。神代はたちどころにこの神社を好きになった。頬が自然と上気してくる。いいなぁ、という嘆息が内心で尽きなかった。

 リュックを足下に置き、財布から取り出した百円玉をそっと賽銭箱に放り、鈴をぐらんぐらんと鳴らし、二礼二拍手一礼と型に則った参拝を行う。旅先ではよく観光名所の神社に立ち寄っていたので、すっかり作法は身についていた。目を閉じ心の内で思ったのは引き続き、いいなぁ、いいなぁ、という感嘆ばかりで、しかしそれだけではここの祭神に変な奴が来たと思われてしまいそうなので、明日民俗資料館で祠のことを知っている人に出会えますように、と付け加える。この肩が重いのは単なる疲れですよね、とも。

 神代は踵を巡らして、火除稲荷神社をあとにする。摂社、末社もない非常にシンプルな神社だった。鳥居をくぐり境外に出て、翻って再び頭を下げる。お邪魔いたしました、と。ふと顔を上げたとき、玉垣の脇に建てられたこれまた簡素な木製の由緒書きが目につく。

『火除稲荷神社 創建時期は不明。古くは末廣稲荷神社と称していたが、昭和四年の大火の際、当社の前で火が止まり、以来、火除稲荷神社と呼ばれるようになった。』

 由緒書きも神社同様に、ごく無装飾なものだった。というか、この神社の前で火事が止まったのか、すげぇ! と神代はまた興奮を催す。やはり神域だった。が、一時的な気持ちの高揚であまり意識はしていなかったが、期待とは裏腹に神代の肩は鬱々としたままだった。火除けなのだから肩凝りには効かないのだろうかと、神社に温泉みたいな効能を求める。

 そこで、あ、と思考が瞬く。何で暇を潰すかという先ほどまでのささやかで贅沢な悩み。睡眠不足もあって体が疲れているのだから単純明快なことだった。温泉に入ってゆっくり休めばよかった。神代は早速先ほどもらった町の地図を広げるが、湯煙マークはどこにも描かれていなく、旅ではあまり頼りたくはなかったがスマートフォンをタップのピンチのフリックで温泉と検索をかける。さすがに周囲を山に囲まれているからか、隣接する市や町に温泉は点在していた。しかし明日、民俗資料館を訪ねることを踏まえるとあまり遠くまで足は伸ばせなかった。となると今日の宿泊は──、と考えたところで、立ちっぱなしを苦に感じてきて、近くにあった丁度いい高さの平たい防火水槽に腰を落ち着ける。思えばこれも火除けだ。

 さて、と神代は自分の胸に問いかける。今日は野宿ができるだろうか。夕べはとてもじゃないが鍵のついていない部屋など考えられなかった。しかしエロパワーのおかげで、少しは平静を取り戻した。まだ旅費の蓄えはあったが、昨日ホテルを利用したので宿泊費は当然抑えたかった。しかしテント泊ができるだろうか。夜、真っ暗な中、適当な場所にテントを張り、薄いシュラフの中にかさこそと潜り込み、一人明かりを消して暗闇の中に没入する。夜風がテントを撫でるだろうか。誰かの足音が聞こえてはこないだろうか。テントの生地に無数の手跡が浮かびはしないだろうか。神代は頭を沈めて長考に入る。きっと、できるだろうと思う。できるだろうが、ぐっすりと眠れないことは目に見えていた。二日続けての寝不足は御免だった。なら、やはり──

「今日はいいお天気ねぇ」

 はっと顔を上げる。同じ防火水槽の端に、にっこりと柔らかな笑みを浮かべたお婆さんが腰掛けていた。前に置かれた手押しカートの蓋から、土が付着したままの新鮮な色の葱が飛び出している。

「ほんっと、風が気持ちよくて」

 お婆さんは穏やかな色の空を幸せそうに仰ぎ見ては相好を崩している。神代とはまったく時間の流れが異なっていた。何だか蝶でもひらひらと舞い込んできそうだ。

「えぇ、そうですね。最近は暑さもいくらか和らいで」

 どこからから借りてきた時候の挨拶をそれっぽく口にする。

 お婆さんは満足そうに頷くと、不意にカートから黄色く実ったバナナを取り出した。

「食べる?」

 会話の突飛さと、出し抜けの親切心に思わず破顔する。

「大丈夫です。さっき、蕎麦食べてきて」

「ほうか、ほうか」

 そうか、そうか。お婆さんにそんなつもりは決してないのだろうが、バナナを差し出された自分が猿みたいに思えてきて、笑いが込み上げてくる。ウキーッ、と言って分捕ってやろうかと阿呆なことを考えてたら腹筋が震えてくる。

「じゃあ、わたしはこれで」

 お婆さんはバナナを仕舞い、ほいしょ、と立ち上がる。

「どうも。お元気でー」

 お婆さんは穏やかに微笑んでは、折り曲がった腰でカートを押して、ゆっくりゆっくりえっちらおっちら遠ざかっていく。

 神代はまたも「いいなぁ」と独りごちる。気づけば頬が随分と柔らかくなっていた。そうして、やはり人だなぁ、としみじみ思う。旅先で景色よりも料理よりも温泉よりも何よりも、人との交流が一番心嬉しかった。旅の始まりは子供のほうから元気よく挨拶をしてくることに驚きもした。人口が過密な都会よりも、過疎が叫ばれる田舎のほうが人との交流が活発だった。今だってそうだった。スマートフォンをいじっていて、いきなり話しかけられるなんて考えてもいなかった。でもこれでよかった。だから、やっぱり──

 今日も野宿はやめよう、と自分の恐怖心を若干都合よく誤魔化す。フロントだったりフロントだったりフロントだったりと人が近くにいるほうが安心できた。人心地ついたほうが安眠できるに決まっていた。フロントにやたらめったら固執したのは旅館や民宿が嫌いなわけではなく、和室のほうが今の神代にとっては、どうしようもなく怖いからだった。押し入れ、座敷、畳、障子……断然、祠の眼と声が似合う情景だ。

 ネットで調べたところ、隣の市に温泉つきの大型ビジネスホテルがあった。しかも露天風呂までついている。ここから5㎞の距離。ロードバイクに跨がればすぐだ。さらにはネットの直前割で四千円ちょい。即決。すぐさま予約を入れる。今日は温泉に肩まで浸かって軽く夕飯を食ったら、泥のように眠ろうと意気込む。しかしチェックインの時間まではまだ一時間以上もあった。神代はその間、この鄙びた町を散策することにする。火除稲荷神社を大切に守ってきたこの町の人々がどんな暮らしを営んでいるのか、その一端に触れたかった。

 チ、チ、チ、チ、チ。

 薄暗い路地を、ロードバイクを押してゆっくりと歩く。後輪から発せられるラチェット音が、家々の影に溶け込んでいく。どこからか少しくぐもったチャイムの響きが聞こえる。学校が近くにあるのだろうか。やたらと身を伏した猫が目の前をさっと横切る。書道教室の窓には、子供たちの生き生きとした書が飾られていた。『梅雨の空』『森羅万象』『温故知新』『色即是空』本当に子供だろうかと怪しんだら『君の名は。』と大きく書かれていて吹き出す。まるで兄弟のように並んだ天ぷら油回収タンクと、円柱型の郵便ポスト。入れ間違える人はいないのだろうか。『止まれ』ではなく『止まる』の優しい路面標識。小さな公園では女の子が際限なく滑り台を繰り返し、お母さんを困り笑顔にしていた。目につくものすべてが心地よかった。チ、チ、チ、とロードバイクが景色に軽やかな音を添えていく。

 アスファルトの路上に電源コードの垂れた紫色の看板が佇んでいる。スナックだ。軒先に出されているが、コードは看板の脚にぐるぐると巻かれていた。板チョコのような凹凸のついた木のドアは、もう廃業したのではないだろうかと思えるほど重く静まり返っていた。似たような店が数軒連なっている。『レーザーカラオケ』と書かれた看板が何だか物寂しげだった。

 後ろからタクシーがやってくる。神代はロードバイクを傾けて脇に避けるが、タクシーは神代の進路を塞ぐようにすぐ先で停車をする。中から艶めいた茶髪の若い女性が降りてきては、この一角に似合わない小ぎれいなガラスドアに迷いもなく入り込んでいく。タクシーは何事もなかったかのようにすぐさま走り去る。神代が何だ何だと思いつつ歩みを再開すると、女性と入れ替わりにチョッキに蝶ネクタイの強面のお兄さんが出てくる。目が合う。突如、大袈裟なお辞儀。すぐに何の店だかわかった。同時に魂消る。こういう町に、よもや風俗店があるとは思ってもいなかった。しかもわりかし神社の近くに。

「お兄さん。遊んでいきませんか? よかったら、無料で女の子の写真もチェックできますよ」

 神代は、ごめんなさいといった感じで軽く頭を下げて、店の前をそそくさと通り過ぎる。まさか真っ昼間から営業しているとは。さっきの子は今出勤だろうか。

「待ってますからー。また、来て下さいねっ」

 この町の情景にそぐわない快活な店員の声が路地に響く。需要はあるんだろうか、と考えて、いやあるよな、と即座に打ち消す。神代自身は何だか虚しくなりそうという漠然とした理由でソープランドはおろかキャバクラにも行ったことがなかったが、通いたくなる男性たちの気持ちというか欲求というか衝動は物凄くよく理解できた。それは神代の内部にも根付いているものだ。わからないはずはなかった。しかし、それでも──

 色々考えだしてしまいそうな自分を打ち消したくて、昨日はAVで恐怖値が下がったから今夜は風俗でトドメを刺すかなんて冗談めいたことを思っては「いかん! 修行が、足りん」と、御前様の真似を一人でしては一人で白ける。

 日陰を抜けていく風がどこか湿り気を帯びていて肌に柔らかく、神代はゆるゆると町の中を歩いていく。


続→

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