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長編小説 祠 (2/11)

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 翌朝、神代は大して眠ることができないまま目を覚ます。夕べは大変だった。ユニットバスでシャワーを浴びている最中、常に脳内で高音ハウリング──サイコのBGMが流れ続けて一秒たりとも落ち着けなかった。数少ない友人に電話するも、みんな長電話をしているほど暇でもなく「怖いもんに出くわしたときは、AV見ると馬鹿馬鹿しくなって気が紛れるよ」とふざけたアドバイスを頂戴するだけだった。普段は小さな明かり一点ですら煩わしく感じるのに、この夜ばかりは電灯を消すことができずに、しかも白装束の女性が潜り込んでいないだろうかと何度かベッドの下を定期点検もした。

 結局夜のうちは一睡もできず、友人の助言を思い返し、深夜にホテルの廊下に出ては青い服を着た双子の少女に出くわさないよう祈りつつ自動販売機で有料チャンネルの視聴カードを購入し、藁にもすがる思いで大画面液晶で神妙にアダルトビデオを鑑賞し、恐怖感諸々をある程度発散し、眠りについたのは窓の外が白む朝の五時過ぎだった。

 わざわざホテルに泊まって何やってんだろ、とまどろんだまま思う。とはいえ追加で何か怪異に襲われるようなことはなく、朝になってもベッドの下にはベッドの下しか存在していなかった。

 そもそも神代は大仰そうな苗字に似合わず霊感というものに一切縁のない人間だった。きっといるにはいるんだろうけど、俺が感じられない以上はねぇ……、という考えを以前から持ち合わせていた。だからあそこまではっきりと奇々怪々な出来事に遭遇したのは初めてで、そのために非常に強烈な印象を──

 二度寝をしていた。気づけば朝食サービスの終わる時間が迫っていたので、がばとベッドから起き上がり、普段着に着替えて一階のロビーに向かう。せっかくのホテルなのだから元はとらなくては、と眠気よりも現金な自分に少しだけ嫌気と滑稽さを覚える。

 人がまばらになったロビーでおにぎり四つと、味噌汁二杯を平らげる。当たり前のことだが、少なくとも世界は平穏に動いていた。おそらく地元の方だろう、厨房のおばちゃんも少し訛った調子で「どンどン食べなねー」と言ってくれたし、テレビではにこやかな笑顔のお姉さんが各地の天気を伝えていた。背広を着込んだビジネスマンは次々とチェックアウトしていくし、家族連れの赤ちゃんはなかなか泣き止まないし、外は今日も爽やかに晴れ渡っていた。肩が少し凝っているような気がするが、それはきっと寝不足によるものだろうと信じ込むことにする。神代が祠で出くわした眼と声を想起させるものなど、そこには一つとしてなかった。昨日の出来事は夢か幻か何かだったんじゃないだろうかと疑いたくなるが、さすがにあの凄絶な緊迫感をなかったことにはできなかった。

 食後にこれまたサービスのほうじ茶を啜りながら、神代は思案する。

 そもそもあの祠は一体何だったのだろう。誰が何のために建立したのだろう。祠なのだから、何かしらの神を祀った場所に違いなかった。どんな神だったのだろう。随分と鬼気迫る神だったように思える。まさか祟り神──

 身震いが全身を駆け巡る。思わず背後を振り返っていたが、背後は背後でしかなかった。古びているとはいえ祠が存在しているということは、何かしらの記録に残っている可能性があった。近くの図書館でも訪ねてみれば、いくらかあの祠の成り立ちをつかめるのではないだろうか。

 神代は昨日の恐怖体験を目茶苦茶に引きずっていた。あの怪異を自分の中でどう片を付けたらいいのか皆目見当もつかなかったし、これから先もどうにか落とし込めるとはちっとも思えなかった。このまま余燼(よじん)を燻(くすぶ)らせていたくはなかった。理解不能なもののままで放置しておきたくはなかった。きっと普通の人なら、何かしら不思議な出来事に遭遇しても毎日の忙しさでその特異性も薄れ、やがては忘れていくのだろうと想像をする。しかし神代は違った。時間は海原のように漠とあったし、何より長い旅の途中だった。

 ややブラックな仕事にほとほと嫌気が差し、まだ二十代半ばで若いんだし何とかなるだろうと勢いだけで会社を辞め、せっかくなら兼ねてからの願望だった日本縦断でもしようとロードバイクに跨がり、大した計画もなくその日の天候と気分だけで方角を決めるという無鉄砲な旅路につき数ヶ月。日本の野山をロードバイクで駆け巡るのも良いが、そろそろ思いがけない変化が欲しいところだった。神代の中でひょっこりと祠への探求心が頭をもたげる。ひょっとしたら、この関心には神々しい苗字が関係しているのかもしれなかったが、それ以外の苗字を名乗ったことがない神代には、先天的な名の影響などわかるわけがなかった。

 手始めに神代はロビーの片隅に置いてあったパソコンにかじりつく。ネット地図を開き、祠を発見したあの山を画面に収める。青野町(あおのちよう)──端山(はたやま)。山の名は判明したが、いくら地図を拡大しようともあの祠はおろか、そこに至る廃れた道の表記すらない。神代は地図を閉じ、次に『端山 祠』でウェブ検索をかける。が、あの祠について記述しているページは一つとしてなかった。昨日神代が遭遇したものと同様の体験をした人がいないだろうかと、『端山 心霊』『端山 目』あるいは『眼』『視線』、『端山 声』でも検索をしたが結果は同じだった。やはり地元の図書館でないとわからないだろうか。試しにあの祠から一番近い青野町の図書館の所在を調べる。

 神代が今いる町からは山を二つ戻った場所にあった。丁度昨日の道を引き返す形だ。

 そこまでして調べ上げるべきだろうか。神代は判断を留保したまま部屋へと戻る。一度ベッドにごろんと転がり、何気なくチャンネルを回しては、せっかく有料チャンネルを購入したのだから一度だけの視聴ではもったいないだろう、でも別に今そんな気分じゃないしな……、と思いつつパッケージ画像を流し見していたら、随分ぴっちりとしたサイクルウェアに身を包んだ色白の女優さんが、豊満な胸の谷間と脚線美を露わにしてはにっこりと愛嬌たっぷりに微笑みロードバイクに跨がっている写真に目が留まった。画像を拡大しているうちに、もこもこと起き上がってくるものがあるから不思議だ。神代は早速再生ボタンを押してはもったいなさの解消に努める。見終わったときには、昨晩同様にぐぐぐっと恐怖感が退けられ、代わりに背徳感と好奇心が目覚めていた。神代があの祠の由縁を調べることを決めた瞬間だった。


 青野町立図書館へは昨日顔面蒼白全力疾走をした道を戻れば30㎞ほどだったが、言うまでもなくあの祠の前を経由などしたくはなかったので、二つの山を迂回する約50㎞のルートを選択した。50㎞、といってもロードバイクで駆ければ二時間半ほどの道のりで、旅をする神代にとっては手慣れた距離だった。

 町立図書館は公民館と併設された建物の中にあり、二階のフロアを占めた割と広々とした図書館だった。普段着としても通用するウェアを着ていた神代は、ウェットシートで体を拭ったあと気後れすることなく足を踏み入れる。児童書コーナーの飾りつけが見るからに賑やかなのは、それだけ家族連れの利用者が多いということだろう。現に児童書のフロアでは紙芝居を上演しており、子供と母親までもがその語りに聞き入っていた。

 しかし神代の目当てはフロアの片隅に位置するあまり人が寄りついていない書棚──郷土史料の棚だった。まずは神社仏閣が掲載されていそうな書籍を手に取りめくっていく。が、きちんと管理されているような寺社しか掲載がなく、あの祠についての記述は皆無だった。次に着目したのは地図で、古い地図を漁ってみる、もそもそも端山一帯は地図化すらされていなかった。現代の地図では流石に収録されていたが、あの祠もそこに至る廃道も描かれていなく、ただ等高線が踊っているだけだった。次の手は──と書棚をつぶさに追っていくが、何も浮かばなかった。早くも万策尽きたので、こういうときは今回の旅でもちょくちょくやってきた『人に訊く』を実践する。ちょうどカウンターに座る四十代くらいの女性スタッフの手が空いていたので、端山の地図を広げながら「ごめんなさい、ちょっとお伺いしたいのですけれど……」と切り出す。

「地図のこのへんにある祠について調べてるんですけど、その祠について載っていそうな本ってあありませんかね?」

 噛んだ。

「ほこら? ですか?」

 女性はまるで初めて耳にする言葉のようにきょとんとする。こんなマニアックな質問をぶつけたのは俺が初めてだろう、と誇らしいやら心苦しいやらの心持ちになる。神代は改めて丁寧に質問をする。

「昨日、端山のこのあたりで祠を見かけまして、どういう成り立ちの祠なのかなぁ、と気になりまして」

 ややこしくならないよう心霊現象については触れないでおいた。

 女性は戸惑いの眉根を寄せながらも「ちょっと、お待ち下さい」と、カウンター内の部屋へと引っ込む。そうして出てきたのは、司書であろう細身の男性だった。

「お待たせしました。県道沿いにある……祠、ですね?」

 少し神経質そうな眼鏡を掛けていたが、思いの外柔らかい口調にほっとする。神代は同じ質問を繰り返す。どうやら口振りからして司書の男性も祠の存在については初耳のようだったが、何か思い当たる節があるのか、郷土資料の書棚の一番下を順に指で追っていく。そうしてまず一冊の薄い冊子を取り出す。

『山を駆ける道──崩壊・落石とのたたかい──』この地方の道路工事の歴史を綴ったもので、過去の土木史研究の学会で発表された論文とのことだった。そこには神代が昨日青ざめながら駆けた県道も載っていて、昔の道筋、明治の道、現代の県道を記した詳細な地図もあった。が、祠についての記述は見当たらなかった。

「あとは、あのへんの細かい情報となると……」と、呟きながら司書の男性は背伸びをして、一番上の棚から六法全書並の超分厚い本を引っ張り出す。表紙には達筆な書体で『青野町史』と金色の文字が刻まれている。この町全体の歴史をびっしりと細かな文字で記した書だ。男性は近くの机に町史を広げ、立ちながら祠の情報を求めてぺらぺらとページをめくっていく。少し時間が掛かりそうだったので、神代は自分でも祠について言及がありそうな本を引き続き探ることにした。

『青野町昔がたり』この町に古くから伝わるおとぎ話を記した本。蛍の恩返しや、身代わりになった葱等、なかなか面白い読み物だったが、残念ながら祠が出てくる民話はなかった。次に『写真で見る青野町のあゆみ』という昔から現代のこの町の写真を集めたずしりと重い一冊を手に取る。ここは昔鉱山で栄えた町らしく、鉱山関係の写真が多く収められていた。図書館に来る途中通った町の目抜き通りも今より随分と賑わっていて、最盛期には人口もかなり多かったようだ。しかし祠の写真はページのどこにも見当たらなかった。司書の男性も困り果てたような表情を浮かべている。

「町内の石碑などについてはまとめたページもあったんですけれど、どうも祠については見当たらなくて……どんな祠だったのでしょうか?」

 思い出したくはなかったが、神代は昨日のことを追憶しながら語る。少し道から外れた山の中にひっそりと佇む石造りの古びた祠。それとたくさんの視線と甲高い声、というのは口にしなかった。

「うーん、気づいたことないなぁ。役場の職員なら、誰かわかるかなぁ……」

 この男性も眉根を寄せる。

「役場なら、わかりそうな方がいるんですか?」

「いや、地域振興課の職員なら、仕事柄わかったりするかなと思いまして……」

 これ以上ここで粘って図書館の方々の手を煩わせるのも考えものだった。神代は頭を下げ、速やかに青野町役場へと向かうことにした。といっても、すぐ隣のくすんだ白色の四角四面の建物がそうで、自動ドアを抜けた先の案内板を見て三階へと上っていく。まさか旅先でその土地の役場の世話になるとは予想もしていなかったので、足取り同様に気持ちも心持ち緊張していた。

「あの……」

 カウンター向こうのデスクはまさに役所といった区割りで、建物の無味乾燥加減を忠実に模倣しているかのようだった。その殺風景な職場の一番手前にいた日に焼けた若い女性に声を掛ける。はい、と立ち上がり、何だろうといった面持ちで近づいてくる。

「すいません、旅の者なのですが……今、端山の麓にある祠について調べてまして、すぐそこの図書館でお尋ねしたところ、こちらならご存知かもしれないとご案内を受けまして伺ったのですが、どなたか、詳しい方はいらっしゃいませんでしょうか」

 怪しまれぬよう、事前に頭の中でああでもないこうでもないと捏ねくり回していた言葉を、丁寧に礼儀正しく発していくが、どうしてそんなこと調べてんのって思うだろうな、と思う。

「端山の……祠?」

 予想に反さず訝しげな顔つき。ちょっと何言ってんのこの人? という台詞がとても似合っていた。しかし実際に女性の口から出てきたのは「少々お待ち下さい」というごく事務的なもので、フロアの奥に陣取る見るからに課長席といった位置に座る管理職然とした恰幅の良い年輩の男性に助けを求めにいった。なんか祠がどうとか変な人が来てるんですけど、と女性の動く唇に頭の中で勝手に言葉をあてがう。

 咳払いをして、のしのしといった緩慢な動作で課長らしき男性がお出ましになる。

「えぇと、祠って言うと、どの辺でしょう」

 明らかに知らなそうな出だしだったので、神代は今この場で自分が完全に孤立していることを知る。しかしここで撤退をしてしまっては、何か変な人が来訪という印象を残すだけになってしまうので、図書館と同じように神代は説明を尽くす。少なくとも常識は持ち合わせている人間ということを示したくて、かしこまりながら語を重ねていく。

 課長の感情表現は眉根ではなく、首を捻って天井を見つめるといったものだった。

「どうも聞いたことありませんね」

 地元の年輩者でもこうなのだから、自分はもしかしたら幻でも見たのではないだろうかと疑わしくなってくる。そっちのほうがホラーだった。再び後ろをそっと振り返るが、もちろん背後は背後以外の何物でもなかった。

 正直言って、神代はこの場にいるのがすこぶる気まずかった。針の筵(むしろ)だった。目こそこちらに向いていないものの、課長らしき男性の後ろで黙々と仕事をこなしている人々の耳がこちらに集中砲火なことはもはや疑いようがなかった。何なんだこの祠男は、と不審がられていてもおかしくはなかった。逆の立場だったら俺だって思うよ、と思う。それでも神代は食い下がる。聞くは一時の恥。聞かぬは別に一生でもないが、いくらか未練は残りそうだった。

「どなたか、知っていそうな方はいらっしゃいませんかね」

 ダメ元だった。

「んんー、そうですねぇ……」

 面倒臭そうな唸り声を上げる。こりゃだめだと潔く退こうと諦めた矢先。

「あ、民俗資料館の先生なら知ってるんじゃないですかね」

 神代は即座に、前考撤回をした。ごめんなさい、とまで心の内で付け足す。

続→

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