見出し画像

長編小説 祠 (1/11)


 夏の終わりだった。

 山麓のなだらかな県道を、神代(かじろ)はロードバイクで駆けていた。右左右左と軽快にペダルを漕ぎ、眼前にのっそり聳(そび)える山岳へと突き進んでいく。先ほどまで道路の脇にちらちらと見えていた家屋も今はすっかりとその姿を消し、代わりに猛烈なまでの樹葉があたりを埋め尽くす。その密集した緑の至るところで蝉が過ぎゆく季節を惜しむかのように哮(たけ)っては、他の音をことごとく覆っていく。しかしそんな地べたの騒々しさに一切頓着せず、空はどこまでも冴え、広大に晴れ渡っていた。

 日差しは依然としてじりじりと肌を焼くようだったが、山に迫ってからは木陰が路面を縁取り、山間部から吹きつける澄んだ空気も加わって爽快そのものだった。ロードバイクに跨がり風を切ればなおさらだ。神代は果てまで突き抜けたかのようなまばゆい蒼に目を細め、リズミカルに脚を動かしていく。ペダルを回せば回すほど、踏み込めば踏み込むほど、山間(やまあい)の清冽な空気が自身を磨いてくれるようだった。

 しかし突如、前輪ががこんと沈む。次いで後輪も続き、衝撃が尻を打ちつける。反射的に真下へと目を転じれば、アスファルトの路面が剥げてその下の砂利が露わになっていた。舗装が剥げていたのは一部だけだったが、人里から離れるに従って路面状況が悪化しつつあった。

 神代は空の色に親しむのをそこそこに、視線を前方へと据える。県道といっても車の姿もほとんどないような一車線の山間道路で、よく見れば折れた枝や小石が散乱していて悠々と走っていられる状況ではなかった。加えて、この朗らかで素敵な情景にそぐわないやら、意識しないほうが我慢できると無茶苦茶な理屈をつけてずっと堪えてきた下腹部の催し感が、先ほどの腰への一撃で一気に意識の上へと登り詰め、仕舞いにはその頂で暴力的な地団駄を踏むようになっていた。つまりは尿意が我慢の限界に達した。ヒビ入った。

 先ほどまでの清爽な様子とは打って変わり、神代はペダルを踏み込む度に「しょんべん! しょんべん!」と脳内で恥も外聞も臆面もなく喚き散らし、空も路面も見ることもなく木陰に執拗にトイレの姿を求める。が、もちろん寂れた道路の途中に水道設備などあるわけもなく、いたずらに時間を浪費するばかりだった。と、再び陥没箇所にハマる。電流のような震えが全身を貫く。尿意が一段と激化する。もはや体中が馬鹿騒ぎだった。カーブを抜け、道路の脇に視線を射るものの、目につくのは人間の生理現象などには一向に無関心なたくましい緑ばかりで、神代は少しでも路面の衝撃から患部を遠ざけようとサドルから腰を高く掲げ、下ハンドルをぐぐりと握り、ロードレースの選手が見せるような前傾姿勢に移る。自然と脚に力がこもる。腿とふくらはぎが躍動する。回転数が増す。車体が左右にうねる。風切り音が荒れる。しかし枯れ枝を踏み、またしてもがくんと車体が揺れ──

 もう限界だった。神代は涙目で顔を上げ、どこか適当な場所はないかと道路脇に目を這わせる。車通りの少ない県道とはいえ、やはりそこいらでするのには抵抗があった。ましてやこの地に縁もゆかりもない身の上からしてみれば、旅をしにきてわざわざその土地を汚しているようで、地元の人々に申し訳が立たなかった。しかし神代の旅人としてのこだわりに尿意は一切構っちゃくれなかった。丁度前方の路傍に、生い茂った草が少なくわずかに切り開けている箇所があった。樹木や野草が左右に別れ、地面にはまばらに土が露出している。少し奥に入り込めそうだ。山間に入ってからは一度も他の車とは行き交っていなかったが、やはり道端で垂れ流すことはできなかった。誰かに見られて恥ずかしいというよりも、誰の目にも触れさせてやりたくはなかった。都会の雑多な匂いが一切しないこんなにも清々しい山の中で、他人の生々しい排尿行為を目の当たりにするなど、逆の立場なら絶対に嫌だった。ましてや目撃者が女性ならなおさらだ。

 神代は、天佑だ僥倖(ぎょうこう)だと喧しく心中で叫びながら草木の切れた箇所でブレーキレバーをぎゅっと絞り、ロードバイクを急停止させる。即座に右脚を翻して、その割にはふわりと優しく着地をする。そうっとサイドバッグごと車体を横たえながら、落ち着け、まだ大丈夫だと自身に切々と言い聞かす。そうしてあたかも、ちょっとそこまで山菜採りに、といった穏やかな面構えで、サイクルヘルメット姿のまま草木の合間へと大股で踏み込んでいく。指出しグローブを外している余裕などもちろんなく、二歩目で七分丈のウエストに手を掛け、そこから三歩でジッパーにたどり着き、県道から奥まった場所で──解き放つ。一気に人心地つく。神代は旅に出てから見てきた名瀑のことを思い出した。この土地を汚してごめんなさい。でもきっと肥料になるよね、とも。

 最後の残滓が地面に吸収されるさまを見送り、巨大な解放感の余韻に頭の先まで浸りながらもジッパー、ボタンを一つ一つ丁寧に元に戻していく。出すものを出しただけなのに、まるで人生から全ての迷いや憂いが払われたかのように世界は澄み渡っていた。あー……やばかったわぁー……、なんて恍惚とした独り言も漏らす。そうして愛でるような視線で悠然とあたりを眺め回す。

 周囲に比べて、どうしてかこの一画だけ雑草の背丈が低かった。草むらの中の小さな空白地帯、にも見える。しかも緑の乏しい地は細く奥へと続いている。道、だろうか。それなら他と比べて草木が閑散としていることにも合点がいった。人が繰り返し往来するとその場の草はたいてい薄くなるものだった。ひょっとしたら登山道──、とも考えてみたが、シーズン中にしては野草がはびこり過ぎているように感じられた。ということは──

 危機的状況が過ぎ去り元来の好奇心がむくむくと起ち上がってくる。頬もほくほくと上気してくる。少しだけ行ってみようか。今までの旅の途中にも似たような道に入り込み思わぬ眺望や、昔使われていた隧道、人知れず水飛沫(しぶき)を散らす滝なんかにも出くわしたことがあった。いや滝ならさっき俺も……、と表情を緩ませ、何が出るかな、と神代は歩を進めることにした。

 道、らしきものへと踏み込んだ途端、植物と土のむせ返るような匂いが一段と濃くなる。サイクルヘルメットの下からこめかみを伝って垂れてきた汗がそのまま落下し、丁度葉に受け止められたのか、ぽつと微細な音が鳴る。気づけば先ほどまであたりを満遍なく埋め尽くしていた蝉の叫喚は、まるで一山向こうの音景色のように遙かに遠のいていた。蝉の拠り所となる背の高い樹木が少ないこともそうだろうが、周囲に幾重にも層を成している鬱陶しいまでの藪が外の音を遮断しているようだった。先ほどまでのけたたましさとの懸隔に神代は不自然さを抱く。だが自分を包み込む静寂を好ましく受け止めてもいたので、奥へと進むにつれその弱い懐疑は打ち消されていった。

 徐々に緩い上りの傾斜がつきだす。左右には獣の爪を連想させる隈笹の群生が肩の高さほどに茂っていた。蝉と比べてはいかにもひそやかな昆虫のささやきが、あちこちで薄く途切れ途切れに響いている。まるで秋の夜の音色だったが、眼前に広がるのは陽光を浴びながら揺れ動く藪ばかりで、目と耳のギャップにどうにも違和感がきざす。しかし神代は奥へと進むにつれ、やはりここは過去に道として使われていたのだろうと確信を深めていく。明らかに草むらの中に一本の、それも人が通れるほどの筋が刻みつけられていた。葉先が絡みつき衣服やリュックの生地をジジと横切ることを思えば、今も使われているとは考えづらかったが、廃れた道であることは疑いようがなかった。

 廃道は弓なりに右へと弧を描いていく。傾斜の度合いから、ひょっとしたら好展望地にたどり着けるのではという予感が膨らみを帯びてくる。標高はそれほどないだろうが、今まで越えてきた峰々や立ち寄ってきた町の姿を一望することができるかもしれない。そう考えるだけで足は弾んだ。展望台と銘打たれていない絶景地に自分の勘と体を使ってたどり着く、という期待感が景色よりも何よりも神代の胸をくすぐっていた。旅において思いがけないという要素がどれほど感動を深くするのか、神代はよく知っていたし今回の旅でもことさらその点を大切にしてきた。

 ふと、涼やかな風が首筋を撫でる。

 丁度廃道の先から吹きつけ、まるで藪の中を誰かが身を屈めてこちらに向かってくるかのように草葉の蠢きが次第に迫ってくる。神代は即座に意気揚々と運んでいた足を止めた。人か獣か、思わず身構えていた。もちろんそこにあるのは風の揺らめきだけで過剰な反応であることは知れていた。ただ体だけが無自覚に反応を示していた。

「びっくりさせんなよ……」

 そう嘆息混じりの言葉をわざわざ吐いたのは、自分自身を安心させようというこれもまた無自覚な反応だった。

 神代は体の強張りを緩め、歩みを再開させる。しかし一度起きた緊張が瞬時に解けることはなく、胸中には不安の余韻が音叉のように延々と響いていた。心なしか先ほどよりも足下の草がまとわりつくようにすら感じる。神代を引き留める葉の絡まり、のようにも映る。そもそもこの先にあるのは好展望地などではなく、崩れ落ちた廃墟である可能性もあった。旧い道の先に佇む朽ちた家屋。その想像のほうが神代の直感には妙に馴染んだ。

 道の傾斜がやや弱まる。もう少しで到達だろうか。呼吸が大きくなってきている。リュックがやたらと肩に食い込む。背伸びをして藪の上から視線を伸ばすと、この先でどうやら隈笹の群生は途切れているようだった。廃道も終わりが近づいている。少なくとも上りが続くことはなさそうだ。少し開けた台地のようにも見える。あとは終着に何が待ち受けているか。道が湾曲しているためまだはっきりとは見通せないが、小高い丘のようでもあり景観は期待できそうだった。神代は胸に取りつく不安の影を払いたくて、にわかに歩調を速める。ぐっと脚に力を込め、呼吸を弾ませて進む。すぐそこだと思えば、肉体の苦はそのまま内面には移っていかなかった。そうして道の弧を抜けたところで、その先にあるものとようやく対峙をする。

 それは古びた石で組まれた、人間の胴体ほどの小さな、祠だった。

 祠?

 神代は再び足を怯ませる。

 相当な年月の間、風雨に晒されてきたことがわかるほど朽ち果てた一基の祠だ。石造りの屋根は薄雪のような苔でまばらに覆われている。その下部の観音開きの扉は見るからに強固に閉ざされている。

 そうして突如として全身が粟立つ。眼、がある。眼、を覚える。後ろの藪で誰かが神代を見つめている。それも一人ではなかった。十なんてものではない。大勢の眼が、神代を凝視していた。まるで数多の眼がびっしりと背後を埋め尽くし、壁を成しているかのようだった。

 しかし現実にそんなことが起こり得るはずはなかった。有り得ないことだった。神代は自分の感覚に自分の思考を突きつける。錯覚に違いなかった。思い込みでしかなかった。後ろには誰もいるはずがなかった。眼の壁などあるはずがなかった。神代は自分の考えが正しいことを裏付けるため、安堵を得るため振り向こうとする。肩はぴくりと身震いじみたい反応を示す。だが首筋は強張るばかりで、強かに硬直をしていた。汗が落ちてくる。呼吸が沈んでいく。臓腑が鷲掴みされたかのように、腹の内できゅうと縮こまるのが伝わった。それは自然と、死を連想させた。

 神代をやっとの思いで振り向かせたのは恐怖だった。背後を顧みる恐怖よりも、直視しない恐怖のほうがわずかに勝(まさ)った。そして当然、背後には何者もなかった。眼も顔も人もなかった。今まで歩いてきた廃れた道が当たり前のように伸びているだけだった。

 不意に耳鳴りが響く。極限まで張り詰めた糸を弾いたような甲高く細長い音だ。普段ならすぐに消えることもあって大して気に掛けないが、このときばかりは異常な音を早く断ち切りたくて両掌を耳に当て力なく何度か叩いた。が、音は止まない。止まないどころか次第に拡大してくる。

 神代が、あ、おかしいぞと惑っているうちに、音は遠ざかることなく見る見る近づいてくる。至近の声と変わらないほどに増大してくる。そうして再び、眼、を覚える。再び眼の壁が背後に屹立している。神代は激しいパニックの中、今度は躊躇なく振り返る。異様な感覚の出所を明確にさせたかった。祠と向き合う。その瞬間、音は鼓膜を突き破るかのように一気に巨大化した。耳のすぐそばではない、内側。まるでスピーカーで叫ぶかのようにがなり立てている。尋常な音ではなかった。もうここにいられなかった。神代は即刻来た道を引き返す。だが音と眼は、背後に糊着(こちゃく)し続けた。

 やばい! 神代は息を喘がせながら、頭の中で叫ぶ。来てはいけないところに入り込んでしまった。瞬間的にそう感じていた。藪の中の廃れた道は狭く、ところどころで行く手を塞ぐように隈笹が垂れていたが、神代は突っ切って走り抜ける。下り坂に膝を大きく沈ませ、息を切らし、全力であの祠から遠ざかる。祠から逃げる。しかし悲鳴のようなけたたましい声は失せない。失せずにずっと耳元に付き纏っている。藪が尽きない。終わりが見えない。閉じ込められた。そう錯覚した瞬間に、アスファルトの道路と草地に倒れたロードバイクが視界に飛び込んできた。すぐさまロードバイクを起こしそのまま走り、地面を蹴り、飛び乗る。あとは全力で漕ぐだけだ。音を掻き消そうと、自分でも訳もわからず喚き散らす。張りついている。まだ凝視している。執拗に奇声を発している。まるで神代の背に引っついているかのように。

 神代は一度も立ち止まることなく、振り返ることなく山を越えた。途中から奇怪な音は遠のき、気づいたらふっと消えていたが、それでも脚の動きを止めることはできなかった。一心不乱に足を回転させる。とにかく人の大勢いる場所まで逃げ込みたかった。絶対に一人ではいたくなかった。

 本来、神代は人混みを厭う人間だったが、このときばかりは騒々しい雑踏を求めていた。耳障りな喧噪を欲していた。鬱陶しい集団の中に紛れ込みたかった。どうして苦手なはずの群衆の中なら大丈夫だと信じるのか、自分でも細かく理解をしているわけではなかった。ただひたすら人混みを求めていた。街の中なら安全だと信じ込んでいた。

 だからその日神代は、山二つを越えた先の駅前のビジネスホテルに宿をとった。普段はテントを張って野宿をしていたが、この日だけは夜の闇の中に自分を馴染ませることなど到底できなかった。できるわけがなかった。

続→

(毎日投稿、全文無料)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?