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長編小説 祠 (4/11)

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 心ゆくまで温泉に浸かった。青葱たっぷりの香ばしい豚丼を食らった。ビールも一杯だけ飲んだ。そうして十時間ほどこんこんと眠り呆けた。だが、予想に反して肩は石の塊のように硬く重々しいままだった。神社も温泉も酒も睡眠もエロも効果はなく、神代はいよいよあの祠の呪いではなかろうかと疑いだす。塩でも撒けばいいのだろうか。しかしわざわざお祓いのためだけに塩を買うのも勿体ない、と考える性格の持ち主だった。フロントにお清めの塩のサービスはないだろうか、絶対ないだろうと思いつつももしかしたらと望みを懸けホテルの案内帳を開くが、勿論あるわけなかった。どこかの食堂で掌に少しもらえないだろうか。

 とりあえず今回のホテルは朝食がついていないので、昨夜洗濯した服に着替えてコンビニにパンを買いに外へと出る。エレベーター内の鏡に映る自分の姿を点検するように見つめながら気づく。そういえば今日はベッドの下にビクビクしなかったな、と。肩の重さに変化はなかったが、少なくとも恐怖はいくらか遠のいているようだった。これなら野宿にも復帰ができるだろうか。と、真面目くさった顔で鏡の中の自分と長々見つめ合っていることに気づき、表情を崩す。

 チェックアウト前に念には念を入れてもう一度温泉に入り百までの数え歌を口ずさんだが効果は上がらず、神代は鈍な肩を引きずって昨日教わった青野町民俗資料館へと車輪を転がす。もらった観光地図で見ると、まるで忌み嫌われているかのように町の外れへと追いやられていたが、実際にたどり着いてみても、その印象はさらに強まるばかりだった。こんなところに建っていて採算が取れるんだろうかと心配になるほど、立地条件は悪かった。完全に人里から疎外された木立の中にぽつねんと建ち、裏には川がざあざあと流れ、草むらからはよくわからない鳥が飛び立ち、汚い声でぎーぎーと喚いていた。

「やってる……よな?」

 思わず独り言を口走ってしまうほど不安になる建造物だった。青野町民俗資料館との銘板がなければ、何かの病棟と見まがうような無機質なのっぺりとしたコンクリートの箱だ。ところどころ薄汚れていて、けっこうな年季を感じる。しかし駐車場には一台の軽ワゴン車が停まっていることから、館内に人がいることは間違いがなかった。神代はロードバイクを『駐車場内でのトラブルは~』の看板に繋ぎ止め、ヘルメットをかぽりと外し、グローブを外した手で潰れた髪をくしゃくしゃっとかき混ぜてから、入口へと向かう。

 ガ、コン。と、一度つっかえるようにして、自動ドアが左右に開く。中は薄暗く、どこかひやりとしていて、壁には震災当時によく見かけた『節電中』のポスターが貼りつけられていた。ロビーだろうか、病院の待合室によくある艶光りしたソファーがいくつも並べられている。中の黄色いスポンジが微妙に覗いているものもある。しかしもちろん座る人は誰もいない。ラックには数ヶ月分の広報誌が並び、昨日もらった観光地図や他の施設のパンフレットが丁寧に陳列されている。そしてようやく受付。半円形の白いカウンター、は無人だった。と思ったら、奥の部屋から薄い黒のカーディガンを羽織ったほっそりとした女性が音もなく出てくる。

「うわっ!」

 と、本気で驚く。館の雰囲気と祠の記憶が相まって、神代は神経過敏になっていた。わ、の音がこだまして館内に浸透していく。気まずい。

「いらっしゃいませ」

 受付の女性は神代の頓狂な悲鳴には反応を示さず、涼しげな顔のままちょこんと頭を下げる。質感のある黒髪が女性の動きにつられて揺れるのを見て、髪って揺れるんだと馬鹿みたいなことを思う。多分、同年代の女性、のはず。

「一名様ですか?」

 抑揚のない、でも聞き取りやすい声。淡泊な目で、じっとこちらを見てくる。一名以外にやっぱ後ろに何か見えるのだろうかと不安になるが、もちろん口にもしないし後ろも振り返らない。

「はい。一名です」

「二百円です」

 あ、と急いでリュックから財布を取り出す。別に資料館を見学しようとは考えてもいなかった。しかし瞬間的にここで断るのはこの女性に失礼のような気がした。自分の興味のある質問をするだけというのは、あまりにも Do you see the boy?(図々しいぜ、おい)だった。

 じじじ、とカウンターの内側から、チケットの半券を切り取る音が鳴る。やたらと静かなので、その音ばかりが拡張される。

「こちらがチケットと、当館のパンフレットです」

 華奢な指先が添えられる。神代は、指ちっちぇなぁ……、と内心嘆じながら受け取る。

「あちらが順路になっています」

 右の掌ですらりと示す。確かに赤い矢印に『順路』と書かれた看板が通路の先に立っている。何と返せばいいのだろう。

「どうも……行ってきます」

「どうぞ、ごゆっくり」

 相手の表情に視線を流すが変化はなかった。見送るときくらい目元は柔らかだろうかと、どこかで思っていた。

 神代は受付を離れ、女性が案内した通りに通路を進む。そうしてまずは『古代の部屋』にたどり着く。しかしそう記された看板の下をくぐってみても真っ暗で──

 
 パチンと小さな音が鳴る。一気に光が満ちる。地層の模型や、岩石、土器などの展示が目の前に広がる。電灯のスイッチが入れられたのだ。確かに節電を有言実行していた。部屋の奥に動くものがありぎょっと目を向けると、先ほどの受付女性の後ろ姿だった。ちょうどそそくさとこの部屋を出て行くところだ。彼女が明かりを点けたに違いなかった。神代を事も無げに見送った瞬間、電気を点けるため大急ぎで先回りをしたようだ。無表情のまま俊敏に館内を暗躍する彼女の様子を想像し、くつくつと笑いが込み上げてくる。

 神代は『古代の部屋』『中世の部屋』『近代の部屋』『現代の部屋』を見て回る。『神代の部屋』はないのか、という独り言も忘れなかった。全体を通してこの町が鉱山と密接な関係にあることがよく伝わってきた。ひょっとしてあの祠も鉱山と何か繋がりがあるのではとにらんだが、祠の建つ端山は別に鉱山でもなく展示の中でも特に言及はなかった。とはいえ民俗資料館初探訪という面白味もあり、神代は展示の一つ一つを興味深く見て回った。薄汚れた外観とは打って変わって、清掃も徹底されていた。古くさい映像も腰を落ち着けてじっくりと鑑賞をした。ことあるごとに「~じゃ」と語尾につけて話す仙人のクイズにも答えた。時間が早いせいか他の来館者はなく、貸し切り状態の中気づけば一時間半も経っていた。その間もセメントで塗り固めたかのような肩の重苦しさはちっとも変わらなかった。

 最後に受付脇の資料室へと戻ってくる。棚には関連書籍がずらりと並べられ、一筆箋や絵はがき等、ささやかな物販のコーナーもあった。もう充分に民俗資料館を堪能した。これなら質問を繰り出しても無礼でも不自然でもなかった。神代は受付に座る先ほどの女性へと近づいていく。歩調よりも鼓動のほうが速かった。

 女性は神代に気づくと、軽く会釈をした。表情は相も変わらずまぶたが七分咲きの涼しげなもので、館内をこれだけ満喫したのだから少しは、と期待を抱いていた分だけ、神代は取っつきにくさを覚えた。

「あの、ごめんなさい」

「はい」

 女性がこちらを見上げる。八分。

「ちょっと個人的な興味があって、質問するんですけど……」

 言いながら、これじゃまるでナンパの前振りだな、と気づいた。

「端山の麓の県道沿いで、何か、古びた祠を見つけまして、あれが、どういうものなのかなと気になりまして……」

 女性は瞳を揺らすことなく、黙って神代を見つめていた。

 神代は見つめ合うのも変に思え、視線をそっとカウンター内に備えつけられた電話へと移す。

「それで、町役場をお訪ねしたところ、ここの方なら何かご存知かもと教えていただきまして……。何か、ご存知ではないですかね……?」

 うーん、と受付の女性は小さく唸った。小さな顎に手を当てて、視線を斜めに落とす。初めて表情らしい表情を目にした、ような気がする。伏し目に添えられた睫毛が瞬く。

「祠……ですね。ちょっと館長に聞いてみましょうか」

 独白なのか返答なのか、いまいち判断のつかない声量だったが、女性は立ち上がり、受付をそそくさと出てベルトパーテーションの張られた通路へと向かう。途中神代のほうを振り返り、どうぞ、と視線を送った。神代は言葉少ない女性の行動に面食らいつつも、慌ててあとを追う。

 後ろから女性の艶やかな黒髪を眺め、資料館の感想を言ったほうがいいだろうか、と悩んでいたら──

「いかがでしたか、当館の展示は」

 歩きながらも、ちらりと振り返る。声には少し誇らしげな響きが含まれている、ような気がした。

「そうですね。こういうとこ、あまり入ったことなかったんですけど、楽しかったです」

 感想を述べようかと考えていた矢先だったので、まごつくことなく素直に言えた。

 女性が目を細める。口許はきりりと結んでいる。喜んでいる、っぽい。

「地元の方ですか?」

 あれ、と目を見張る。素っ気なさそうな面持ちとは裏腹な続けざまの質問。

「いえ、今、自転車で旅の途中でして」

「へぇ……そうなんですか」

 そこで話が終わってしまう。神代はここからどう会話を繰り広げたらいいものか、とんと思いつかなかった。ただ神代と女性の靴音が、廊下に単調に繰り返される。そうして『館長室』とプレートが取りつけられた焦げ茶色のドアの前に案内される。

 コン、コン、と女性がノックをする。

「はーい」

 何だか奔放な野太い男性の声がする。

「失礼します」

 女性はドアを開けて中へと入っていく。神代も続く。踏み入れてすぐさま分厚い書物の匂いがふっと鼻を衝いた。先ほど見た資料室よりも、圧倒的な数の書籍が壁に所狭しと並べられている。大きな机の上にも、これでもかというほど乱雑に書類が積まれていて、神代は将棋崩しの山を連想した。その紙の爆撃地みたいな机の向こうに、黒い車椅子に腰掛けた大きな体躯の男性がいた。パソコンのモニターに見入り、こちらには背を向けたままだ。

「館長、こちらの方からお問い合わせをいただきまして。端山の麓にある古びた祠について、詳しくお知りになりたいとのことです」

「祠っ!」

 突然の叫びに神代は身をびくっと震わせる。次いで、くいっと車椅子が回転する。大柄な体格と同様、大きな目を持った勇ましい風貌の男性──館長がいた。薄く混じった白髪と目元に浮かんだ皺の様子からして、五十代くらいだろうか。白衣を着ている。何だか政治家に似た顔つきの人がいたような気がする。

「あぁ、こりゃどうも。ここの館長の、天宮(あまみや)です」

「いきなりすみません。神代と申します」

 天宮館長が滑らかに車椅子を操って、こちらへと近づいてくる。手慣れた動作だった。長いこと車椅子の生活を送っていることが直ちに窺われた。車椅子は病院でよく見かけるものと違い、黒くてスタイリッシュなデザインだ。

「かじろ? 字はどういった?」

 館長は好奇心旺盛な笑みをたたえていた。

「あぁ、えっと、神の、代わるですね」

 神の代わりと説明するのが間違われる心配もなく一番手っ取り早かったが、自分自身を偉く持ち上げているようで好きではなかった。

「おぉ! 天の宮にいらっしゃった神の依り代というわけか。こりゃ我々は相性が良さそうだね。なぁ?」

 なぁ? と呼びかけられた受付の女性は、あえて無視をするかのように、じゃあごゆっくりといった風に神代に頭を下げ、ドアに手を掛ける。

「あ、ありがとうございました」

 慌てて礼を言うが、ました、と同時にドアは閉じられた。

「まぁ、掛けたまえ」

 館長は大きな掌で机の前のソファーを示す。

「それで、端山の麓の祠だって?」

 神代は革張りのソファーに腰を落ち着けながら説明する。館長は流れるような動きで書棚から大きな地図を取り出し、詳細な場所を大きな指で探っていく。

「なるほどなるほど。こんなところに祠が」

 机の向こうで館長は一人でうんうんと頷いている。

 興味深そうに耳を傾ける様子からして、ここの館長もやはり祠については始めて耳にするようだった。残念ながら今回も空振りだった。これ以上探し求める手段など思いつきもしなかった。いい加減諦めたくもなってくる。すべては徒労だったのか。しかしそれでは解決できないものが一つあった。ずしりとくる肩の重さだ。

「あの、やっぱり……ご存知では……」

 と、確認しかけたタイミングでノックがされ、再び受付の女性が入ってくる。手にはお盆、お盆には茶碗が二つ。先ほど慌てふためいて感謝の言葉を伝えた自分が恥ずかしくなってくる。

「うん。せっかく来てもらったのに申し訳ない。知らないのだよ」

 館長はそれでも豪快に笑った。

 女性は我関せずといった様子で、テーブルクロスと化した書類の上に静かに茶托、次いでお茶を置く。神代は俯く程度に頭を下げる。

「私も自由に動ければ、もっとフィールドワークもできたんだが、いかんせんこの体じゃね」

 すいません、と小さな声でも謝るべきだろうかとためらう。そもそもフィールドワークって何だろう。

「館長。そんなことを初対面の方に言うべきではありません」

 立ち去ろうとしていた女性が、淡々と言い放つ。ありがたかったが、既に重くて仕方がない肩身が今度は狭くなる。二重苦。

「おっ、それもそうか」

 館長はまったく気に留めていないようだった。神代は自分が自由な時間を送っていることを知っていたが、ここまで天真爛漫な性格の人には初めて会ったような気がした。女性が音もなく出ていく。

「でもまぁ神代君、落ち込まないでくれ。一緒に考えようじゃないか。私もこの町のことは詳しく知っておきたいんだ。祠の形とか、様子についても聞かせてくれないか」


続→

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