「村上隆もののけ京都」展(3):村上作品を見て日本絵画の特徴を考える(続き)
(長文になります)
本記事は前回の記事(2)の、個別の展示作品の紹介・感想の章「日本美術との比較で村上”現代ART”作品を考える」の続きになります。
■村上隆《もののけ洛中洛外図》:私の問題意識、テーマ 2)、5)
会場の入り口を入ると、いの一番にこの絵が目に飛び込むようになっています。本展覧会用の新作で、目玉作品の一つという前宣伝も効いているためか、観客でごった返しています。
人気の展覧会では恒例の「立止まらないでくださーい! ゆっくりお進みくださーい! 白い線の中に入らないでくださーい!」という女性スタッフの必死の声が絶え間なく響きわたっています。
ゆっくり眺めたり写真を撮ることもままならないので、反対側の壁の同じく新作《祇園祭礼図》を鑑賞した後、すいたところを見計らってなんとか写真を撮ることができました。
ですから、以下は会場での感想と云うより、展覧会場を出た後にスマホの写真を見、眼でみた部分を思い出して得た感想と、今回記事を書くにあたり写真を拡大して原本の岩佐又兵衛作の《洛中洛外図屏風》(図11)と比較しての感想になります。
以下に村上作品と岩佐又兵衛《洛中洛外図屏風》との比較をまとめます。
以上の内容を具体的な比較画像を示して補足します(図12)。
図12-1および図12-2は、どちらも五条通と室町通が交わる部分、当時の一番にぎわっている五条室町の辻界隈、まさに祇園祭を担う京都の町衆が活躍する地域を選んで、村上作品と舟木本の部分を拡大し比較した図です(隠れキャラクターも赤の円で示しました)。
上段の村上新作品と下段の舟木本を見比べてみれば、冒頭の比較まとめでのべた、1)線描は忠実な模写である、2)彩色も村上流の工夫はあるものの、原本の配色を尊重していることが容易に分かると思います。
以下に、比較のまとめで挙げた個別の特徴を拡大図によって事例として示します。
(1)樹木の葉の彩色
(2)着物の柄の彩色(比較)
(3)金雲(部分的に多数の謎の図像が浮かぶ)の事例
(4)踊り狂う群衆、神輿行列の群衆描写の比較
なお、比較のまとめには入れませんでしたが、村上作品には彼自身がこれまで作ったキャラクターや今回生み出したキャラクターを各所に忍ばせていて、まるで「ウォーリーを探せ」状態にしています(図12 赤丸 図18)。
村上隆《もののけ洛中洛外図》:現代ART作品としてどう考えるか?
以上の比較で分るように、模写作品として見る限り村上・現代ART作品としての独自性は感じません。
しかし屏風の舟木本と今回の大画面壁画の村上作品の観客がそれぞれどのように見るかを考えてみましょう。
まず、岩佐又兵衛の《洛中洛外図屏風》舟木本を所有した人物は誰か分かりませんが、狩野永徳の上杉本が上杉謙信に送られたように、おそらく権力者またはかなりの富裕層の人物に間違いないでしょう。
その人物は、屏風の右隻、左隻を左右に置いて、自分はその間に座り、3-40cm、時には画面に目を近づけて京都の町の細部を屏風全体にわたって眺めたに違いありません。現代ならさしずめ自家用ヘリコプターを飛ばし京都の街を上から見物するのと同じで、景観を独り占めにした自分のステータスに大いに満足したことでしょう。
一方、村上隆《洛中洛外図》では、富裕層の大邸宅の壁面やギャラリーや美術館の壁面を飾ることで複数の観客が美術品として同時に共有して見ることになります。
それは、この作品が京セラ美術館事業企画推進室ゼネラルマネージャーの高橋信也氏の要望で制作されたことを考えると、美術館側の立場からは、前宣伝に惹かれて訪れた多くの観客が難しいことを考えずに、隠れ村上キャラクターを探しながら楽しんで見るだけでも目的をはたしたのかもしれません。
私は岩佐又兵衛《洛中洛外図》をどう関心を持ったか、そして村上作品をどのように見たか
さて、村上隆《洛中洛外図》をどのように見たかを述べる前に、日本美術の《洛中洛外図》についての私の見方をお話しします。
すでに幾度もnoteの記事の中で書いてきたように、私自身は《街歩きスケッチ》を楽しんでいます。特に大都市の何気ない街角の、人々の日々の暮らしの光景に心惹かれます。
そして、現代の光景を描きながらも、時にはその場所のかつての歴史を思い浮かべ、タイムスリップして、都市の成り立ちや当時の人々の暮らしを想像しながらスケッチすることで楽しみが倍化するのです。
このように東京、仙台、京都、伏見、大阪の城下町をこれまでスケッチする中で、現在外見は大変貌を遂げたこれらの都市の街割りは、いずれも豊臣秀吉の都市設計がもとになっていることに気が付いたのです(東京(江戸)の街も実行は家康ですが設計思想は秀吉です)。
例えば京都の町で言えば、聚楽第を作り、室町以降の上京、下京の街をお土居で囲み、大仏殿の建設、五条大橋敷設、長方形街区設定、武家町、公家町、寺町の形成など、今日の京の姿は秀吉大改造後の京都であることは意外に知られていません。
学生時代は全く関心が無かった京都市街ですが、10年ほど前から南は七条通から北は北山通まで、西は新町通から東は東山通まで、くまなく歩き回っています。
特に室町時代以降の商業地区の中心地、新町通、室町通に焦点をあてて、その街歩き観察結果については記事を連載中です。
ですから、当然秀吉大改造直後の京都の町の姿を描いた絵を見たいと思うのが人情です。そこで日本美術に詳しい方ならすぐに思い浮かべるものがあるはずです。そうです、戦国時代から江戸時代にかけてなぜか大量に描かれた《洛中洛外図》です。
実は、この記事を書くまですっかり忘れていたのですが、11年前の2013年に東京国立博物館で開催された「日本テレビ開局60年 特別展「京都―洛中洛外図と障壁画の美」展で以下の多くの洛中洛外図の実物を見ていたのでした(下記)。
中でも私は岩佐又兵衛の「舟木本」に圧倒されました。特に感動したのは群衆のダイナミックな動きと人物の表情の細やかな線描です。
実はもう一つ忘れていました。当時感激のあまり模写をしていたのです。参考までにその模写を示します(図19)。人物の顔の表情としぐさをご覧ください。
屏風のどの部分の人物をとっても魅力的で興味が尽きません。
今回、2500人にもおよぶ人物を模写した工房<カイカイキキ>の若者たちはさぞかし楽しんで模写したのではないでしょうか? もっとも納期に追われ、日々村上社長の檄を受けては楽しむどころではなかったかもしれませんが。
さて、話をもとに戻します。 私が見る限り、岩佐又兵衛《洛中洛外図屏風》の大きな特徴は、作者は五条大橋、五条通を西に伸ばして、寺町通、室町の辻、新町通とまさに商業地区を中心にして、東は鴨川を挟んで方広寺の大仏殿、西は二条城までとし、町衆が活躍する、すなわち祇園祭の主役の人々の住む街に目が向くようになっていることです。
もちろん、上部には御所と現在の八坂神社(当時は祇園社など)を含む祇園一帯が描かれ、それぞれの場所で宴会や芸能、祭り、商いなど事細かに描かれているのが分かります。
村上隆《洛中洛外図》の壁画で江戸初期の京都の風俗を見る
村上隆《洛中洛外図》では、舟木本の線描が完全に模写されているだけでなく、明るい照明のもとで、拡大された絵の細部が”くっきり、はっきり”わかり、その場で没入できるのです。
例えば、適当にいくつか拡大して見てみましょう。
最初に、二条城の武家屋敷を取り上げます(図20)。
すると時代劇でみるようなお白州が描かれ、左下には後ろ手に縛られた罪人も見えます。縛り方は、200年後の蛮社の獄で捕らえられた渡邉崋山が自ら描いた後ろ手に縛られた姿と同じで、幕末になっても変わらなかったことが分かります。屋敷内には、厨房で料理を作っている姿、一人の武士がもろ肌ぬいて弓の練習をしている姿も見えます。
次に、二条城の東、御所(公家屋敷?)の南側を通る夷川通(または二条通?)の橋と周辺の街並みを拡大して観てみます(図21)。
橋のかかった通りは夷川通か二条通か不明ですが、橋の西たもとに床屋があることに注意してください。その解説は、次の五条大橋でします。
次に、首に縄をつけた犬が女性に引かれている光景に目が行きます。なぜなら江戸時代の犬は街の中を放し飼いにされていたと何かの本を読んで記憶していたからです。しかし岩佐又兵衛《洛中洛外図》では、縄もつけずに寝そべっている犬も遊里内に二匹ほど見られますが、ほとんどの犬は縄で繋がれています。
さらに通りに面して並ぶ商店の様子も見てみましょう。入り口には暖簾や、大きな日除け暖簾、日除け幕が描かれており、現代に至るまで我が国のお店の伝統として続いていることも大変興味深い光景です。
最後の例として、五条大橋の西側の地域を見てみます(図22)。
五条大橋の上では老婆を筆頭に踊る群衆が描かれています。手足を振り上げ、腰をくねらす群衆の様子は、六条三筋町の遊女たちの踊りも併せ画面に活気を与えています。
このような群像は祇園祭りの群衆、通りを疾駆する騎馬の武士団、喧嘩する人々など屏風のそこかしこに、ダイナミックな動きと共に描かれ、屏風全体から京の街の人々の熱気、熱量が伝わります。
なお、五条大橋たもとの髪結い床屋にご注意ください。すでに図21で橋のたもとにも床屋が描かれていることを指摘しましたが、両者が橋のたもとにあるのは偶然ではありません。
当時の京都では、橋のたもとに必ず髪結い床屋が置かれたとのことです。昔読んだ歴史の本に記述がありました。確か理由は橋の通行の番をするためだったかと思います。
余談ですが、現代の京の街ではかなりの数の理髪店が何故か十字路の角にあるような気がするのです。ここ10年ほど京都の街を歩いて気付きました。これも現代の都市としての理由があるのかもしれません。
以上、適当に《洛中洛外図》のどの場所を切り取っても、都市の人間の営みが事細かに描かれているのが分かります。街歩きをするたびに、昔のイメージを思い起こすことが出来、とても素晴らしいと思います。
■村上隆《祇園祭礼図》2024
次に、村上隆《洛中洛外図 岩佐又兵衛 rip》の対面に展示されていた、細見美術館所蔵の《祇園祭礼図》に基づく新作の大画面作品を示します(図23および図24)。この作品も高橋信也氏の依頼で制作されました。
図24の写真と図21を比べると、実物はデザインデータの画像とは印象がまったく違います。デザインデータではスケール感だけでなく金雲のキラキラ感がまったく出ていません。
なお、細見美術館所蔵の《祇園祭礼図》の精細画像を見つけられなかったので、プレスリリース掲載の低画質の画像を図25に示します。
図23と図25を比べると、線描は《洛中洛外図》の時と同様忠実な模写です。また、各所に隠れキャラを配しているのも同じです。ただし、彩色は《洛中洛外図》の時と違って、暖色系が中心のパステル調で明るく爽やかな印象を受けます。
以下、個別に違いを説明します。
(1)金雲、すやり霞の彩色
金雲の輪郭は原本と同じで模写ですが、顔を近づけると、四角い金箔を貼った雲の中に「天国のお花畑シリーズ」の小さなスマイル顔のお花が多数エンボス加工(?)で埋め込まれていることが分かります。
一方、もう一つの雲はまるで装飾料紙のように細かく切った金箔を散らした「切箔砂子ぼかし」の技法を応用しています。すなわち平安の伝統美意識で飾っているのです。
ただしピンク色を配しているのは、平安美意識とは関係なく村上氏独自のPOPな表現と言えるでしょう。また、このような装飾料紙技法と金雲を掛け合わせた例がこれまで日本美術にあったかのかどうかも不明です。初めてなら、村上氏の日本美術の歴史の上に加えた新たなチャレンジになると思います。
(2)樹木、道路、屋根、屋内の畳(?)、土塀の壁、東山の彩色
以下、それぞれの事例と簡単な図の説明を加えます。
樹木の葉は《洛中洛外図》の時よりもよりカラフルに、またまるで陰影のように濃淡をつけて彩色されています。
道路は、一面迷彩服模様で彩色されています。
屋根も道路と同様迷彩模様で色々な色で塗られています。
さて、ここでは商店の家の中の畳の色について説明します。
実は、私は絵巻物や日本の都会を描いた屏風絵や浮世絵版画を見る時はついつい家の中の畳の彩色に目が行きます。
もともとの発端は、小村雪岱の作品に「青柳」、「落葉」という人物不在の絵がありますが、その中の畳の青緑色が、鈴木春信の浮世絵版画と同じく目に優しい落ち着いた色調に魅せられたことです。
その前に歌川広重の「名所江戸百景」、《浅草田甫酉の町詣》で採用した人物を描かず人の気配を感じさせる構図に惹かれたことも勿論です。
それらを併せて日本絵画の伝統に従い俯瞰構図で室内を描き、江戸の粋を見事に表したこれらの絵が忘れられなくなったのです。
小村雪岱の畳の色と鈴木春信との関係も含め知りたい方は下記の記事を参照ください。
さてあらためて調べると、畳は奈良・平安時代からあったようですが、一般に普及するのは、江戸中期以降のようです。
ですから、岩佐又兵衛《洛中洛外図》の京は江戸初期、慶長年間ですので、畳敷きの家はごくわずかで、全体で5-6例しかありません。
ところが岩佐又兵衛が描いた絵巻「山中常盤物語絵巻」「浄瑠璃物語絵巻」「堀江物語絵巻」では、どの絵巻でも濃緑の畳が全巻にわたって描かれていますので、畳の緑大好き人間の岩佐又兵衛は、《洛中洛外図》では、かなりフラストレーションがたまったのではないかと思います。
だいたい、日本の絵巻では平安時代末期の源氏物語絵巻以来、浮世絵版画の畳みに至るまで、まるで約束事のように濃緑で塗られています。それはまるでたった今新調されたばかりのようです。
そもそも畳は時間が経てば、色褪せて薄緑色、薄茶色に変色していくはずです。私は、画家にとって、絵の真ん中に緑色を配することで、あえて現実を描かず、緑色の視覚効果を狙っているのではないかと推測しています。
もっとも、なぜか日本の絵画における畳の色について、専門家の意見をまだ見たことはありません。
前置きが長くなりました。それでは村上氏は《祇園祭礼図》では、どのように彩色したでしょうか?
細見美術館所蔵の原画の色が分からないので比較できませんが、おそらく原画の緑色を継承していると思います。その上で黄緑色、青緑色、通常の緑の3色を使って迷彩模様を作るにとどめています(図31)。
村上氏の事ですから、日本絵画における畳の彩色の歴史も把握したうえで彩色しているのではないでしょうか。
塀及び建物の壁面は、道路の彩色と同じように迷彩模様を施しています。
東山の彩色も緑、薄緑、薄茶、茶色を使った迷彩柄描写です。
個別の説明は終わりますが、次に《祇園祭礼図》の中で見つけた隠れキャラを示します。風神雷神に天女が加わりました。
村上隆《洛中洛外図》、《祇園祭礼図》を見て:全体感想
以上《洛中洛外図》、《祇園祭礼図》を原本と比較してきましたが、どちらがよいかと聞かれると、《祇園祭礼図》の方が作品としては惹かれます。
敢えて言えば《祇園祭礼図》の明るくてポップな彩色からうける高い好感度のためだと云えます。
しかし正直にいうと、次回以降の記事で紹介予定の、村上隆氏オリジナルの作品群にくらべると、両者ともに絵画としてのインパクトは低いと思います。
実際、二つの作品共に作家性をあまり感じません。特に舟木本は岩佐又兵衛の強烈な作家性が村上氏を上回っています。当然これは、線描が模写に徹しているからですが、展覧会を見終わった後では、それ以上の感想は出ませんでした。
村上模写作品はどこへ行くのか? :村上隆の動画から考える
以上が、展覧会を見た時の感想ですが、今回の記事を書くにあたり、私が読んだことを忘れた村上隆本人の10年前の二冊の著書以外に、昨年からyou tube を始めていることを知りました。
その中に、なんと『国宝「洛中洛外図」を現代に蘇らせる理由』と題した動画をアップしているではありませんか。
興味ある方は見ていただくとして、はたして、私の感想が妥当であったのかどうか、以下に要旨を紹介し、今回の新作の絵画としての意味を考えてみることにします。
動画の要旨は以下の通りです。
以上から、展覧会場で抱いた私の感想は的外れではなかったことが分かります。
興味深いのは、《洛中洛外図》に対して1月の時点で海外のコレクター数名からすでにオファーがあったということです。
海外のプロが、村上氏が言う理屈、「辻先生の「奇想の系譜」の文脈を借りて、「スーパーフラット」とコンバインして作った作品である」に何らかの意味を持ったということです。
彼らはこの作品を西欧絵画の歴史の文脈の中でどう位置付けるのか? あるいは村上氏自身が考えるという以前に、漫画やアニメが欧米によって位置づけられたように、村上新作品を購入した欧米の顧客がむしろ位置付けてくれる可能性があるような気がします。
そして岩佐又兵衛が放つ強烈な熱量が欧米の顧客にも伝わるとよいと思います。今後どんな展開を見せるか楽しみです。
なお、金雲の中の私が気づいた何らかの模様について動画の中で村上氏は種明かしをしています。すなわち、金雲に入れた模様は多数の「髑髏」でした。「髑髏」もまた、西洋絵画における重要なモチーフであり、これまでの村上現代絵画の主要モティーフの一つでした。
次回の記事、その(4)に続きます。
前回の記事は下記をご覧ください。
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