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京都・新町通のぶらり歩き:なにげない街の日常を撮る、描く(3)京町屋の街並み今昔


新町通の京町屋を撮る

 京都の街歩きの魅力は人により違うと思いますが、目に付くのはやはりいわゆる「京町屋」だと思います。
 前回の記事では、新町通に入る前に、七条通沿いの京町屋を2軒紹介しました。

 いよいよ新町通に入り街歩きを開始します。開始早々、立派な京町屋が現れました。そこから歩いて四条通にぶつかるまで、目に付いた京町屋を紹介します(様式がそれぞれ違うので全ての町屋を示すことにします。)

新町通(七条~三条まで)で見つけた京町屋

図1 町屋1
図2 上段左:町屋2、上段右:町屋3、下段左:町屋4、下段右:町屋5
図3 左:町屋6,右:町屋7
図4 上段:町屋8、下段:町屋9
図5 左:町屋10、右:町屋11
図6 上段左:町屋12、上段右:町屋13、下段:町屋14

 さて、大きくリノベーションした建物を除き、外観上明らかに町屋と分かる建物を撮影しました。数えると七条通から三条通までの町屋14軒プラスαになります。

 この数を多いと見るか、少ないと見るか人により見方が変わると思いますが、具体的に戦後から昭和の時代の様子を調べて比較することにします。

 私が京都街のイメージで思い浮かぶのは、なぜか東山魁夷の次の絵です。
 
それは昭和43年東山魁夷が宿泊先(現ホテルオークラ京都)から描いた《年暮る》で、当時はびっしりと甍の波が連なっています。

 描かれているのは東山三条方面とのこと、残念ながら今回私が歩いた新町通街並みはこの絵には入っていません。

 そこで、東本願寺近くの街並みの写真はないかと探してみると、下記の資料をみつけました。
 それは、米国の調査団が終戦直後京都を撮影したカラー動画です。

  動画の中に東本願寺近辺を撮影した箇所がありましたので、画面キャプチャして示します(図7)。

図7 昭和21年、東本願寺付近の家並(キャプチャ画像)
出典:Kyoto, General Views WWII Damage, 05/26/1946 - 05/28/1946 by US Army Air Forces, PDM1.0

 カラー動画で、まるで最近撮影したかのようですが、まぎれもなく78年前京都です。
 肝心の新町通近辺はこの動画でも左に外れていますが、東本願寺手前瓦屋根木造家屋で埋め尽くされているので、おそらく同じような街並みだろうと推測できます。

 ですから、現在14戸プラスα程度ということは、当時の軒数と比較すれば、大げさに言えばほぼ絶滅状態だと云えましょう。

 東京と違って空襲を免れたといっても、78年経過するとこれだけ激減してしまうのです。保存という意味では残念なことかもしれません。しかしそれは都市が生きている証拠だとも云えるでしょう。

京町屋の今を考える

 以上述べた京町屋の現状については、昨日今日分かったことではなく、
私自身ここ10年近く京都の街を歩き回って実感してきました。また一般的には高度成長期以後から毎年のように町屋が減少していくことが昔から報道されていて、官民挙げてその対策も立てられてきたと思います。

 ここで一旦話を変えます。
 なぜ私が街歩きスケッチをするのかについて以前の記事の中で書いたことがあるのですが、改めて今回の新町通街歩きの記事の中で触れていきたいと思います。
 一つは、現在の風景をスケッチするだけでなく、背後にある都市の歴史社会経済に関心を持ちつつ描いていることです。さらに言えば、政治戦争など教科書に載る話よりも、当時その土地に暮らしていた人々の暮らし風俗にも思いを馳せています。
 今回は新町通町屋を通してその辺を少し見てみます。

なぜ、古くてくずれた町屋がないのか?

 ここで図1から図6に示した町屋をご覧ください。
 少なくとも歩いた範囲内には、経年変化で歪んだりが落ちそうになったり、ひびが入ったり、壁土が落ちたり、塗装がはげ落ちたりして崩れ落ちそうな町屋が1軒もなかったことに私は若干驚きました。(例外として、図4の下段の家をご覧ください。板壁の板はささくれ立ち、蔵の土壁は大きく剥がれています)

 私の昔の記憶では、古いものは古いものらしく、新しいものは新しいものらしく、経年に応じて変化した建物の姿がそこかしこにあったと思うのですが、今回の町屋に関しては少し様子が違います。経年による崩れをいささかも感じさせない建物ばかりでした。
 以前は、連なった町屋のうち一軒が取り壊されたときに、連結した壁の部分をトタン板でふさぐのが普通でした。そのために数年たつと錆が浮き出てそれだけでも老朽化を感じさせたものです。しかし今はきちんと塗装された新しい建材でふさぐのが主流のようです(図2町屋2図3町屋6図5町屋10を参照)。そのため錆が無く外観がとてもきれいに維持できるようになったと思われます。
 また建物本体でいえば、の重みでゆがんだりしなったり変形する部分を昔見たものですが、それもありません。

 いったいどれだけ持ち主は維持管理修理に気を配っているのでしょうか、きれいな町屋が存在することは景観上気持ちが良いのですが、少し不自然な気がするのです。

 そこで理由を考えました。現在残っている町屋に住んでいる方が日々維持管理に努力していることは勿論として、一方古い家はことごとく取り払われたのではないかということです。

 事実、今回歩いてみて明らかに前回にもまして空地駐車場が増えました。おそらく、そこには人が住めなくなるほどの古い町屋があったのではないかと推測します(相続の問題も加速させている要因のひとつでしょう)
 ですから、今回のように観光地ではない地域の町屋は、とてつもないスピードで、取り壊しが加速しているのではないかと思うのです。

 伝統家屋を保存しようと日々努力している方々には申し訳ありませんが、私は何が何でも町屋を保存しなければならないという意見ではありません。
 まったく当事者意識の無い無責任な意見だということは分かりつつ、これまで続けてきた「街歩きスケッチ」の立場でこの記事のシリーズの中で考えてみます。

秀吉が作った日本の都市景観

 ほとんどの方は、上の見出しを見て突然何を言い出すのかといぶかしく思われるでしょう。

 私は普段、東京街歩きスケッチをしています。京都に比べれば、歴史的建造物はあるものの、それらは離れ離れに孤立しておりまとまった地域はほとんどありません。関東大震災東京大空襲の二度の大火災がその原因です。そして僅かに残っていた建物も、「経済成長」と効率の名目のために取り壊されていきました。
 それでも街歩きしながら江戸の街の歴史を思い浮かべることができるのは、かつての道路付け町割りがしっかり残っているからです。

 それはここ10年来、大阪市街伏見桃山を訪れても強く感ずるようになりました。
 そして気が付いたのです。伏見桃山大阪江戸の城下町のグランドデザインは誰が考えたのか、すべてはあの豊臣秀吉の設計ではないかと。(江戸家康だと思われるかもしれませんが、秀吉が無理矢理家康に国替えを命じた経緯もあり、細部は別として設計思想は秀吉を踏襲していると考えます)

 となると、私が今歩いている京都という都市はどうでしょうか、平安京でしょうか? いいえ、結論を言えば、今私たちが見ているのは秀吉大改造の街(道路、町割り)だということに思い至ったのです。

 一方見かけの景観を考えると、町屋が並んだ伝統の街並みと云っても、江戸以前町屋は少なく、明治以降、大正昭和初期に建てられた町屋が大半です。木造建築の場合、火災震災洪水、そして空爆による破壊を免れるのは至難の業だと思うのです。

 もう一つ、私が指摘したいのは、都市規模です。京都は人口150万人を擁する大都市です。各地にある「伝統的建造物群保存地区」に比べると、けた違いの大きさです。都市の人々の間では、時代を生きるために様々な利害関係が錯綜し、伝統的建築物の運命もそれらに左右されるのは必然だと思うのです。

 ですから私が云うまでもなく、伝統を守る文化暮らしを守る(時代を切り開く、変化を求める、時代に合わせる)部分の両立はとても難しく、京都ならではの対策仕組みづくりにこれまでも関係者が知恵を絞ってきたのだと思います。

室町時代の新町通

 それでは、見かけの景観の変化を絵画を通してみてみましょう。
幸いなことに室町時代戦国期以降江戸時代にかけて作成された「洛中洛外図屏風」に京都の街が描かれています。
 例えば1520年代に描かれた初期の「歴博甲本」(国立歴史民族博物館所蔵)に、当時繁華街であった「室町通」と「町通(後の新町通)」が描かれているので紹介します。

 「歴博甲本」は、文化遺産オンラインで見ることが出来ますが、解像度が低く分かりにくい難点があります。

 一方、国立歴史民俗博物館のホームページには、詳細な図で閲覧可能なデータベースがあります。それは通りごとにその部分の拡大図に飛べるようになっており大変便利です。
 「室町通」「町通(新町通)」の拡大図がありましたので下をクリックしてご覧ください。

 ご覧いただければ一目瞭然ですが、この頃は、庶民(商家含む)の家は瓦屋根ではなく、石を並べて押さえた板葺きの屋根で、現在の街並みとはまったく異なります。

 新町通ではなく室町通の、同じ「歴博甲本」の公開可能な図が見つかりましたので参考までに示します。板葺き屋根の様子がより明瞭に分かります。

図8 Machiya_in_Muromachi_street_in_Muromachi_Period (洛中洛外図 歴博甲本)
出典:wikimedia commons, public domain

 なお、「歴博甲本」よりも後代の、狩野永徳が描いたとされる「上杉本」も、室町通新町通の殷賑ぶりが描かれています。
 NHKの「ものすごい図巻」では高精細拡大図解説文を同時に見ることができるので、そちらでもご覧ください。「歴博甲本」同様、町通新町通)と室町通の板敷屋根のお店の連なりを見ることが出来ます。

江戸時代の京都

 さて、その後の町屋はどうなっていくのでしょうか? 現在のように全ての町屋が瓦屋根になるのは江戸中期以降なので、その時代から幕末までの街並みを知ることが出来る資料は無いかと調べました。

 江戸繁華街であれば、「江戸名所図会」の木版画を介して、その賑わいぶりや街並みの様子が分かるのですが、京都は意外に手こずりました。

 なぜなら「江戸名所図会」に相当する木版画刷りの書籍はいくつもあるのものの、いかにも京都らしく神社仏閣名所旧跡島原遊郭などばかりで繁華街を描いたものはほとんどありません。

 僅かに、商店の屋根は板葺きですが四条河原町の雑踏を描いた図がありました(下記をクリックしてください)。行きかう人々が互いに接触するほどの様子が描かれており、当時の賑わいを感じることが出来ます。

 というわけで、結局江戸中期以降の様子を知ることができませんでした。ただ、九州国立博物館所蔵の「洛中洛外図屏風」には寛永年間(1624年~1645年)の京都の街並みが丁寧に描かれています。

 それを見ると、すでに板葺きの屋根から瓦屋根に相当数置き換わっていることが見て取れます。その様子をご覧ください。
 なお哀しいかな、私は屏風の、場所を示す文字が読めません。二条城大仏殿三条大橋ぎをん九条などはかろうじて読めますが、通りの名が読めません。2枚の図の下部にある通りはおそらくニ条から七条近くまでの室町通が描かれていると思われます。

図9 「洛中洛外図」(九州国立博物館) 左隻
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
図10 「洛中洛外図」(九州国立博物館) 右隻
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

 以上から江戸時代京都町屋瓦屋根化が進み、幕末明治大正まで変わらなかったものと思います。
 そして1946年に米国の調査団により撮影された終戦直後京都の様子がまさに江戸時代街並み景観をそのまま示していると考えてよさそうです。

 参考までに、瓦屋根だとは思うのですが、そうだと判定できない歌川広重が描いた京都の街並み浮世絵があるので下記に示します。

図11 歌川広重《「東海道 五十四」「五十三次大尾 京都」「三条大はし」》
出典:浮世絵検索(https://ja.ukiyo-e.org/)
図12 歌川広重《渡欧街道五十三次 京都三条大橋》
出典:浮世絵検索(https://ja.ukiyo-e.org/)
図13 歌川広重《京都四条夕すずみ》
出典:浮世絵検索(https://ja.ukiyo-e.org/)
図14 歌川広重《諸国名所百景 京都祇園祭礼》
出典:浮世絵検索(https://ja.ukiyo-e.org/)

 最後に新町通の由来ですが、平安京では「町小路」で、その後「町通」そして「新町通」になった歴史が下記のサイトに詳しく解説されています。ご興味のある方はご覧ください。

終りに

 新町通町屋室町時代から江戸時代までの変遷を見ましたが、次回からは明治以降の人々の生活を頭に置いて街歩きした記事を書いていきます。

(つづく)

 前回の記事は下記をご覧ください。


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