半生記
「彼女は普通の人?」
私に恋人が出来たことを報告した時の友との会話である。何故そんなことを問われてしまうのかといえば、それはやはり私が普通ではないからだろう。
鏡には違和感が映っているー。ふきでものだらけの汚い胸はえぐれているが、下半身は女性のそれだ。私は目をそらして浴室へ向かう。夏はシャワーで十分だ。水が伝う感覚はあるというのに指の先まで自分の身体ではないみたいだ。
幼少期の記憶にあるのは、陰部を吸うよく知った顔。跳ね除けた私に祖父は「くすぐったいだけか」と言った。家の中で唯一鍵のかかる個室へと逃げ込み、トイレット・ペーパーでついた唾液を拭きとった。祖父は追いかけてきて、ドンドンと扉をならしたが、祖母が起きたら困ると思ったのかすぐに去っていった。私は部屋に戻れず、トイレで一晩を明かした。学校で、『たしざん』だとか、『かきかた』だとかをやっている頃、世界は"性"という醜いもので廻っていることを知った。
次の日、私は釣りをしていた。小さき私は、祖父に後ろから抱き抱えられるように支えられ、腕の中で悟られぬように震えていた。子供ながらに、これは誰にも言ってはいけないことだと感じていた。誰かを傷つけるのではないだろうか。私のせいで家族が崩壊してしまうのではないか。恐ろしい気持ちを押し殺して、何事もなかったかのように笑いさえしたのだ。
公園の芝生が照らされ輝く晴れた日、ベンチに腰かけ母とおにぎりを頬張りながら、祖父にされたことを打ち明けた。
母は立ち上がり、私を置いてどこかへ行ってしまった。
私は何かを間違えたのだろうか。呆れられてしまったのだろうか。いや、私は何も言っていないのではないか。もしくは、聞こえなかったのではなかろうか。
私の通う保育園では、男児には青い名札、女児には赤い名札があてがわれていた。当時の私は、何故、変わらぬように見える園児を区別する必要があるのか不思議であった。そして、何故、私は赤いチューリップの名札をつけているのだろうか。
蟠りのような嫌悪感は成長するにつれ大きくなってゆく。小学生になれば、帽子の形が男女で異なった。男子はキャップタイプで、女子はハットタイプ。そして、私にはハットタイプの帽子と赤いランドセルが用意されていた。
”変わらぬように見える”私たちに、もっとも恐れていたことが起こる。第二次性徴と初経だ。
消しゴムを拾ってくれて恋をしたとか、誰かに馬鹿と言われて喧嘩したとか、そういった同級生の悩みに共感できず、自分だけが大きな影を背負っている気持ちになっていた。ニキビひとつで絶望できる多感な時期にチンコがないのだ。大変なことだ。
中学にあがる頃には、どうすればセーラー服に袖を通さないで済むかばかり考えていたが、幼い私にはその方法がわからず、兎に角、学校の規定で許される範囲は体操着で過ごすようになった。休憩時間の一瞬でもあれば着替え、卒業式にさえ、式典が終われば着替えようと思い体操着を持って行って怒られた。
そして、高校生活では男子制服を着るべく、受験する前にスラックスを履けないか複数校に問い合わせた。
苦い返答の学校もあったが、許可を得られた高校に無事合格することができた。入学後、異装届を提出し、男子ブレザーを着用した。
「こんな男子の制服なんて着ていたら、変な子だと思われちゃうよ、いじめられるかもしれないし、友達もできないかもしれないよ、いいの?」と親は心配してくれていたが、私は「いいよ。友達なんていらないし。」と答えたのみだった。
他生徒に「なんで女の子が男子の制服を着ているの?」と聞かれ、落胆した。ああ私は男子の制服を着ていても”女子”にしか見えないのだな、と。
力で負けたくないと、剣道部に入り、他の男子と共に練習し、筋トレのメニューも男子と同じものをこなした。しかし、男子として振舞う私に、セクシャルハラスメントは日常的に行われた。胸を揉まれたり、押し倒されて「俺が女にしてやるよ。」とニヤついた顔で侮辱された。女子からは、男子と近づきたいからボーイッシュにしているのだと噂を立てられた。
同級生にもだが、親にも、大した説明もせずに、態度で語っている気になっていた。
たまたま話すタイミングがあった3月3日、母に性違和の旨を伝えた。自然と涙が零れ、とんだ女の子の日だな、と思ったので記憶に鮮明だ。
その年の5月5日、母から「つよく たくましく」と書かれた、ガラス工芸の鯉のぼりと兜の置物をプレゼントされた。
男に産まれてきたことを祝福されているのを見せつけるかのように空を泳ぐ鯉が大嫌いだった。されど、私にも、渡されたのだ。空は泳がないが、祝福されたのだ。
大学は美大に行くことにした。学校が終わると、美術研究所に通い、毎日何時間も絵を描いた。思うように描けず悔しくて泣くこともあった。
高校はデザイン科であったため、同級生からも美大を目指す人が数名いた。
結果としては、第一志望の大学に、一次試験のセンター試験とデッサンで通過したものの、二次試験の油絵で不合格となった。
第二志望の同じ大学に通うことになった高校の同級生にメールを送った。
「第一志望には落ちてしまってとても残念だけど、同じ大学に行けてうれしいよ。これからもよろしく。」
返信はこうだ。
「うれしいとはなんだ、悔しくないのか、ふざけるな。大学で会っても二度と声をかけるな。」
大学では男性として過ごすのだ、と新しい環境に期待していた。メールの同級生は他学科で、幸い同じ学科に知り合いはいない。
私は男性ホルモン投与を開始し、家庭裁判所で手続きをして名前を変えた。また、胸をとる手術を受け、乳腺をかきだした。おそらく、今までの人生で最も痛かった。
せっかく男性として生活する準備が整いはじめたが、うつ病が悪化し、休学してしまう。
ある日、メールの同級生のご友人から「私はあなたのことが嫌いです。しかし、それは性別のせいではありません。」というメッセージがSNSに届く。大学ではまだ性別の事を誰にも言っていなかったので、メールの同級生が話したのだろう。それにしても、高校時代のクラスメイトから嫌われている私だが、性別のせいで嫌われているよぅ、などと思ったことは一度もなかったので怒りを感じた。
1年後、復学したものの、また調子を崩しはじめたので、学校の相談室を利用し始める。週に一度、一時間。それが私の大切な時間になり始めていた。そこで悩みを話しているうちに、発達障害ではないかと言われ、一度病院で検査をすることになり、特定不能の広汎性発達障害(PDD-NOS)と診断される。大学2年生になっても、まだ時計を読むことができず、電車の時間が判断できなかったり、乗り換えでよく間違えたり、バイトの休憩時間を理解できずに多くとってしまい怒られたり、数字を認識する能力が乏しくミスが多かったりなど日常に支障をきたしていた。
訓練や、スマホのアプリなどに助けられて、現在は多少軽減されたが、今でも数をかぞえたり、覚えたりすることは苦手で、一桁の足し算もできない。
まだマイナンバーカード制度が無かったころ、身分証明書を獲得するために原付バイクの免許を取ろうとしたが、10回くらいの不合格を経験した。
色んな能力が欠如していて、自己肯定感が低かった私は、この相談の時間を特別に感じ、相談員に好意を寄せてしまった。そしてその事が更に、相手に迷惑をかけていると私自身を落ちこませていた。
この頃、うつ状態が続き、常に死んでしまいたいと感じ、己の腹に刺そうと包丁を握りしめて泣きわめいたり、紐をドアノブにひっかけて体重をかけ、気を失いそうになっているところを見つかったこともある。
そして、それ以降は”あのとき死んでいればよかったのに”と思いながら過ごしていた。ベットから動けず、毎日泣きながら、トイレやお風呂にも行けなかった。
「なんで泣いてるの?どうしたいの?どうして欲しいの?」と母に問われ、自分を産んだ親に「死にたい。殺して欲しい。」とも言えずに、ただただ泣いていた。
ひょんなことから、性的虐待を受けていたことを打ち明けたときに、母が立ち去ったのは、祖父を殴りに行っていたからだと知る。
ずっと、置いてきざりにされたのかと思っていた。
普段穏やかな母が、祖父を殴って「縁を切る」と言いつけたらしい。
そして、実は高校生の時すでに祖父は死んでいたことを知る。もしかしたら、もっとずっと前なのかも知れない。
一度だけ、中学生の時に実家からの電話を受けたことがある。第一声で、祖父からの電話であることに気が付き、次の言葉を待たずに遮って慌てて切り、トイレに逃げ込んだ。耳を塞いで丸まり、音が鳴りやむまで怯えていたが、執拗に何度も何度もベルが鳴り響いた。
それは祖母が倒れたことを告げる電話だった。結局は、たいしたことはなかったようだが、祖母に何かあったら、私のせいだと思った。
また、祖父とは血縁関係がないこともわかった。今は無縁墓地にいるらしい。私は何も知らずに一人で抱え込んでいただけだったのだ。
「くすぐったいだけか。」今でも夢に出てくる。PTSDのような症状に悩まされ、起きていても苦しい、寝ていても苦しい、ならば死にたいと思っていた。
私が飼いたいと言って飼った犬は、祖父の家で育てられていた。距離を置いてしまったので犬とも離れてしまっていたのだが、実は、もうその犬も死んだのだと告げられた。メンタルの調子が悪そうだったので私には言わなかったと。
かわいくて大好きだったはずなのに、気持ちが追いつかず、ちゃんと悲しむことができなかった。そのことが今でも引っかかっている。私は愛犬が亡くなっても、悲しむことすらできない人間なのか。
相談室は時間が決まっていたので、保健室登校のようなことをするようになった。人と他愛無い会話をしていると、その間だけなんとか正気が保てた。しかし、別れになると極端に落ち込んでしまい、絶望が押し寄せた。保健室に長居するようになると、他の利用者に迷惑がかかると注意を受けた。居場所を失った私は、校庭でうずくまり日差しにも責められた。セミの鳴き声すら「シネシネシネ」と聞こえた。
相談員に「また来週も会えますように ○○」というお守りを貰ったことがある。
○○の部分はその人の名字だったのだが、一度間違えたような形跡があり、名前を間違えるなんて珍しいなと思っていたのだが、のちに、相談員として職場では旧姓使用をしており、結婚後の名字を書いてしまったので訂正したということだと知る。
そして、相談員を辞めるという報告があり、最後に会ったときには、お腹が大きくなっていた。
帰れないさようならが胸に刺さり、身体が動かなくなる。自転車通学をしていたが、度々帰宅できない日があった。
月明かりに照らされて、信号の影が大きく見えた。
就職活動をしたが、上手く行かず、よくわからないままA型作業所の外部就労でデザイナーとなった。毎日電車の中で泣いていた。休憩時間になったら車の前に飛び出そう、と思いながら仕事をしていた。
卒業から2年後、大学の友人と飲んでいると「今、フリー?紹介したい子がいるんだけど。」と持ちかけられ、その友人と、紹介された女の子と私の3人で会うことになった。
のちの妻である。
彼女との出会いが、今までの人生を大きく変える。
大きくて骨ばった手に憧れ、嫌いだった小さく赤子のような私の手をとって、かわいいねと微笑んだ。
「性同一性障害でも付き合ってくれるなんて、彼女の事大切にしなよー。」と言われると腹が立った。もちろんわかっている。どんなデメリットを孕んで彼女が傍にいてくれているのか。しかし、私が男でも女でも、彼女を大切にすることには変わりはない。
彼女の家に転がりこんで半同棲をしていたのだが、しばらくして、僕の転職や彼女の転勤があり、2年間他県にいる彼女とのプチ遠距離恋愛をした。金曜日仕事が終わってから3時間かけて彼女の家に向かい、土日を一緒に過ごして、月曜日の朝早く起きて特急で職場に向かう日々が続いた。
彼女は欠点だらけの私を愛してくれた。その手の先に素直でありたいと思った。
捨てかけた人生を、穏やかにしてくれた。
4年の交際記念日、私はプロポーズを受けた。私の人生に結婚なんて存在しなかったはずなのに。
一緒に住み始めて1年後、国に認められた結婚はできないが、僕等は結婚式を挙げた。
挙式当日、私はタキシードにナプキンをつけて出席した。そんなことはどうでも良かった。ふたりのくらしは希望を持たせてくれた。
彼女の為なら、生きることさえ出来る。
何度も手放そうとした命を手繰り寄せ、抱きしめた。
(2024.01.27 推敲)
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