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私について

先日とある人から「自伝書いて」
と言われた。

今は誰でも様々なスタイルで発信出来る時代だから、別段、普段から文章を書いている私が自伝を書くことは、ハードルが低いように思われるかもしれない。

「自伝…」なんとなく気が進まなかった。
自伝になるような立派な功績や話題がない、以前に、
今までの経験のひとつひとつをいくつもの私が様々な角度で捉えていて、まとまらないのだ。


「こうあるべき」
「こうやって考えておこう」
としていたことがあまりにも多すぎて、
自分の記憶の限りで、
事実をただ書こうとすると、言葉がうまく繋がってこない。

以前、虐待について臨床心理士の先生の話を聞く機会があった。

人がコミュニケーションツールとして当然のように使っている『言葉』というもの。

その言葉を心地良いと思えるか。
心地良いと感じられたか。

楽しいと思えなければ言葉は発せられない。
といった話を聞いたその時、私はふと気づいた。

私の言葉の認識そのものに、
絶望が信念のフィルターとして深く覆いかぶさっているということに。

私は幼少期、今でいうなら場面緘黙であった。

当時はそんな風に症状として、
病気として捉えられることもなく、
おとなしすぎる、子どもらしくない、と、
母からの風当たりはただただ強くなっていた。

母はもちろん、近所に住んでいた
私の一族の『言葉』の文化は、
今思えば人として何かを伝えるには、
あまりに未熟な悲惨極まりないものであった。

罵倒の限りをつくした言葉、罵詈雑言が飛び交い、
暴力は蔓延していた。

言葉に心地良さという機能が欠けているのだから、
当然といえば当然である。
(私の父と母は親戚で、どちらの実家も歩いて5分もかからないところにあった。周囲はちょっと歩けば従姉弟、従兄弟だらけ、という環境だった)

場面緘黙に対し適切な対応は一切取られることはないまま、私は人に何かを伝えることを飲み込み続け、
ただ生きる屍として、家族、一族のなかでは
「子ども」という生き物として生きるべき、
という物語を必死で過ごしていた。

毎晩歯ぎしりをしていたらしく、4歳になる頃には既にハッキリ肩こりと頭痛、腰痛に苦しんでいた。

ガチガチの身体で声も出せなかった私が、なぜ、他の人と話せるようになったのか?

「てめえはおしか!!」と怒鳴りつけられ、
物を投げられ、手を上げられ、
震え泣きながら「ごめんなさい」と声を絞りだせば、さらに怒鳴られるといったことが、日常だった。
※おし→聴唖(ちょうあ)や言葉の話せない人への差別語。

精神的限界を遥かに超えていたなかで、
このままでは自分の身の危険度は増すばかり。
周囲の大人たちは、それが普通の生活なのだから、
助けなどいるはずもない。

インフルエンザだったのか40度を超える発熱の時も「保育園を休みたい」と言えず、ただただ我慢して家で気を失った。

トイレも行きたいと言えないから、漏らしてしまうこともあった。

小学校に上がった時も同様で、気持ちが悪くて限界を超えても「休む」と言えばどれだけ責められるかわかっているので、言えず、

学校の玄関で吐いてしまい、恐れていたよりももっとひどい事態を招いてしまった。

どうしたらいい?と、自分でつきつめるなか、
私は外で人と話す、という
死ぬより恐ろしいと感じていた恐怖に
飛び込んだのだ。

ほとんど特攻隊のような状態だった。

それが良かったのかどうかは、
いまもわからない。

もともとの身体の素地が頑丈なのだろう。

恐ろしいほどの負荷と自虐的行動、自罰行動は、
私の心も体もメチャクチャに破壊したが、
死に至ることはなかった。

そう。

様々な有り得ないほどの負荷がかかるのだが、
死には至らなかった。

そして、いつもどうにかして全てをリセットしたら
変われるのではないか、という夢をみていた。

だから、大学は家から出るところを受験した。
だが、結局支離滅裂の生活を送ったあげく、
卒業後は、なぜか実家に戻って教員になった。

あれほど家を身内の全てを嫌悪しながら、
ずっと同じような生活をし続ける。
DVの被害者のように、私は最悪の人生の依存状態だったのだ。

それでも今思えば、4年制大学に行くなら教員免許を取れ、と親に言われるまま、福祉系の大学だったので障害児教育を専攻し、
社会科の中学、高校免許の他に、
養護学校教諭一種免許(現特別支援学校教諭一種免許)も取った学びが
その後の人生に大きく影響していくことになるとは
当時は全くわからなかった。

大学の時も常に肩凝り腰痛で朝は
起き上がることもつらく、
叩き起こす親と離れたおかげでテスト以外に
1限目にほぼ間に合ったこともない。
毎日起き上がるのもつらい痛みと闘いながら、
そこから逃避するお菓子や甘い物を手当り次第に摂取して、アルコール依存症と同じような状態、嗜癖に酔い続けていたのだと思う。
お酒も飲めばいくらでも飲めるが、特にそれで大きな変化はしなかった。

酔ってるようにみせかけることはした。

恋愛もめちゃくちゃだった。

その後も全てめちゃくちゃなまま、
とにかく結婚せねば、
とにかく子どもを生まねば、
と、訳の分からない何かに常に追われて
責められ続ける私の人生に
私の幸せどころか、安らぎのようなものは
感じることはなかった。


2人目を出産した後、体調を崩したままだった私は、かつてない耳の痛みと頭痛に襲われた。

上の子が幼稚園にいっている間にいける
近所の耳鼻科へどうにかかかると
「なんともありません」と痛み止めを出されるだけ。

それでも耐えられないほどの痛みに、数日立て続けにその耳鼻科に行ったのだが、先生の答えは同じ。

今なら他の病院へ、など思いつくのだが
当時私の気力と体力で、
赤ん坊をつれていける医者が
家から車で5分ほどのその耳鼻科だったのである。

気を失うほどの痛みで
寝ることもままならないでいたが、
動くのもつらく布団に横たわっていた。
ふと耳から何か伝わるのを感じ枕をみると、
赤い血と黄色の液が枕を染めていた。
熱を測ると39度を超えている。

さすがにこれはまずい、と思い、
なんとか子どもたちをみてもらう手はずをつけ、
翌日総合病院に行ったところ、
そのまま入院となった。

鼻、喉、耳管は膿み、
どうにもならなくなった両方の耳の鼓膜は
破けてしまったらしい。

副鼻腔炎をこじらせていた。

「どうしてこんなになるまで…」
看護師さんは絶句し、
救急でくればよかったのに、と言った。

ぼんやりそんな声を聞いていた私の脳内は
徐々に静かになっていった。

気がつけば全く何も聞こえなくなっていた。
両方鼓膜が破けたのだから当たり前だが。

(静かだな…)

聴力はもう元に戻るかわからない、
と言われたが
不思議と私はほっとしていた。

もう何も関わらなくて済むような気がしていた。

実際に生死の境だったらしく、
そのまま肺炎になりとにかくなんとか1日1日を過ごした。
身体はつらかった。

それでも死に至ることはなく肺炎を切り抜け、
衰弱しきった身体で
「一体これはどういうことなのだろう。
私の人生は何なのだろう」

と、ぼんやり考えていた。

入院の時、たまたま買って読むこともしていなかった本を持ってきていた。
少し回復してきたころ、本をめくり出した。
魂に関する本だった。

それまで私はこの人生をどうにかしたい、とずっともがきながら、魂とか、霊性とか、スピリチュアル的な物は怪しそうなものもそうでないものも
一切受け付けていなかった。

「それが人生変えてくれるのかよ」みたいな、
ひねくれた気持ちがあったことは否めない。

ところが、ペラペラとめくったその本の『魂』という物の在り方の説明に、
そうなのかもしれない。
そういうこともあるかもしれない。
と、感じたのだ。

その後、聴こえはまだ回復していないままだったが
身体の状態としては退院となって、
しばらく通院することになった。

この時の魂について思った
「それもありかもしれない」
は、私のひとつの転機となった。

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だが、物心ついた頃からすっきりしたことがなかった体調は、この入院後全く良くならず、何年も色々な療法を試みることになった。

もしも…は人生においてないし、
生きてきた時に起きた出来事を
何かゲームの違うルートのように
差し替えることもできない。

全てに正解などない、という事実をどこまで落とし込めているのか、自分でもまだよくわからない。

それでもあまりにも理解不能であり続けた
自分自身の人生を、
ずっと理解しようとし続けてきたのだとは思う。

そして、今も理解しようとし続けている。

全てを理解できることなど決してないということも、
自分が理解できる範疇のみで物事は動いていないのだということも、少しずつ納得できるようになってきた。

『幸せ』や『心地良さ』といった概念と
180度逆の価値観を持って生きていたら、
生きづらいに決まっている。

戦争のように、明らかに生死がかかっている日常ではないはずの平和の国日本で、そんなに生きづらいことがあるのか?
と思う人もたくさんいるだろう。

私自身も、世の中にはもっと大変で苦しい人もいる。
同じ目にあっても幸せに生きている人もいる。
と、長い間言い聞かせてきた。

最近は、何が幸せなのか、本人にしかわからないと
思うようになったが、苦しんでる時には、
元気に暮らしている人を見ては、
「なぜ?自分はああなれないのか」と
横になっている布団の中から天井を見上げ、
ぐるぐると答えのないでないなぜ?
を繰り返していた。

悩んだりすることそのものが贅沢だと、言い聞かせたことも度々あった。

そのように人から言われることもあった。

子育ても、自分の子どもの時のような状態にするまい、と思えば思うほど何もうまくいかなかった。

下の娘は幼稚園にあがる前から、既にどこでも誰からもいじめられる対象となった。

この子をひとりにして死ねない…と長男に対する罪悪感の塊から、ボロボロの身体で2人目を産んだのに、長男も妹を徹底的に嫌った。

自分が起き上がることもつらい毎日のなかで、そして、そのように他人には見えないようにすることに全ての神経を注ぎながらの子育ては、地獄と呼ぶのにふさわしかった。

子どもは親を選んで生まれてくるとか、そんな話で、自分の幼少期も、自分の子育て期も超えることなどできなかった。

それが自分で納得できて自分の癒しに繋がる人は、それで救われたら良いと思う。

親を選んで生まれてきて、こんな人生か…

私を選んできた子どもに手をあげてしまうのか…

そんな思いに苛まれている人は、親を選んで生まれてきたという物語を選択する必要はないと思う。

何をどの程度つらいと感じるかも、個人個人で違うはずで、
誰にも誰かの感覚を完全に理解することはできないのだ。

つらくて苦しいと感じたことそのものに罪悪感を抱いて、自分で自分を責めていたら、
一体、どこに自分の味方はいるのだろう。

自分に優しくする。

それは、何か特別なことを自分に無理矢理してあげるのではなく、自分で自分がどんな風に感じることでも、全てて許してあげることなのではないだろうか。

こうして、ほんの少しだけ『私』の物語を書いてみると、なにはともあれ、今こうして生きて物語を書いているということに気づかされる。

何が幸せかとか、何が不幸せか、なんて決めることは本当に出来ないのだな、と感じる。

そして、こうして書き続けていくなかで、私の物語が
、誰かの物語と出会っていく。

それをいろいろな形で、
書き続けていきたいと思っている。

これまでの出会いに。
これからの出会いに。

ありがとう。


龍公愛実

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