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ビールから "愛" を学ぶ

初めて聴く音楽の場合、わたしたちはそのなじみなさを嫌わず、まず最後まで聴く我慢と努力と寛容さを持たなければならない。

それをくり返すことで親しみが生まれ、やがてはその音楽の新しい魅力を少しずつ発見し、その深い美しさを発掘し、そしてその音楽を愛するようになり、その音楽が自分にとってなくてはならないものになっていく。

実は、音楽だけに限らず、わたしたちは今愛するものについても、同じように最初のなじみなさから出発する愛の学びの道をたどってきたのである。
仕事を愛する場合でも、自分自身を愛する場合でも、もちろん誰かを愛する場合においてさえも。

愛はいつでも、このような学びの道を通り抜けて姿を現してくるのだ。

『悦ばしき知識』

これは先日読んでいた「超訳 ニーチェの言葉:愛をも学んでいく」という章の一節だ。

これを見ていて、ふと思った。

「愛はビールだ」と。

突然なんのこっちゃだと思うので、もう少しわかりやすく伝えたいと思う。

ぼくの理解はこうだ。

初めて飲むビールの場合、わたしたちはそのなじみなさを嫌わず、まず最後まで飲みきる我慢と努力と寛容さを持たなければならない。

それをくり返すことで親しみが生まれ、やがてはそのビールの新しい魅力を少しずつ発見し、その深い味わいを発掘し、そしてそのビールを愛するようになり、そのビールが自分にとってなくてはならないものになっていく。

そもそも僕がビールをちゃんと飲めるようになったのは23歳の時だ。

正直なところ、20歳でお酒が飲めるようになっても、いまいちビールの良さは分からなかった。

「なんでこんな苦いのが美味しいわけ?意味わからん」と、まあこんな感じだ。

今でこそ当たり前に「とりあえず生で!」なんて言っているが、当時の僕はこの言葉を使うようになるなんて1ミリも想像していない。(コロナによって、飲みにいく機会が減ったのは個人的にかなり残念だ。とはいえ仕方ない。)

でも、今は飲めるようになっている。

なんなら大好きなのだ。

では、なぜビールを愛せるようになったのか。

答えは、冒頭のニーチェの言葉にあった。

少し僕の昔話を聞いてほしい。ビールが飲めるようになる前の話だ。

僕は当時23歳。5歳年上の女性とお付き合いをさせてもらっていた。

その方と付き合うまでは半年かかり、最初は全く相手にもされず、こちらから連絡しても、1週間後にようやく折り返しがくる、そんなレベルの扱いだった。

でもそれにもめげず、努力し、ずっと追いかけ続け、ようやく半年後に付き合えたのだ。あの時の頑張りは今も忘れない。笑

つまり、僕にとっては憧れの女性であり、ずっとつなぎ止めておきたい人だったと言える。

そして、その彼女となった憧れの女性が何を隠そう「ビール大好き人間」だったのだ。

とにかく最初はビール。おかわりもビール。最後の一杯もビール。2件目でもビール。3件目でもビール。とにかくビールだ。

その時、僕が何を感じたか?

そう。

あなたの想像の通りだ。

「ビールが苦いとか言ってる場合じゃない!」
「僕もビール飲めるようにならないと!」
「嫌われないようにしないと!」

僕の心境は正直こんな感じだった。

常に見捨てられるのではないか、あきられるのではないか、という危機感と隣あわせだったのだ。

とはいえ、飲めないだなんてカッコ悪くて言えない。

また、もし仮にそれを伝えたとして、飲みの機会すら誘われなくなったらどうしようという恐怖もあり、僕は至って普通に「ビール美味しいよね!」「ビール大好き!」「自分もとりあえずビールで!」なんて言って無理やり彼女に合わせていた。

当然だが、飲めない状況は変わらない。
苦いというのも変わらない。

でも頑張った。強がった。
嫌われたくないからだ。

ただ、不思議なモノで、そうやって最初は美味しくもなんともないビールを、彼女と同じペースで飲み続けていると(かなりの酒豪だった)、あら不思議。

だんだんとビールが僕に馴染んでくるのだ。

そして、最終的には最初の1杯目のビールが欠かせない身体になっていき、ビールが苦いものから美味しく、そして愛おしいものに変わっていった。(同時に身体も少しぽっちゃりしだし、愛されBODYとなっていった…)

ここで話は冒頭に戻る。

ニーチェの本を読み、その言葉を1つ1つ頭で想像していると、わかったのだ。

最初のなじみなさから出発する愛の学びの道をたどってきた

「あ〜、僕は確かにこうやってビールを愛するようになったんだ」と。僕はニーチェの言う「なじみなさから出発する愛の学びの道」を確実にたどったのだ、と。

それがはっきりとわかったのだ。

どこにだって学びがある。学びはいたるところにあふれている。なんて素敵なんだろう。

愛はビールだ。何より、僕はビールによって「愛」を学べたのだ。

ビールは決して最初から好きだったわけではない。なんなら苦手なものであり、意味がわからないものの象徴だった。

それがひょんなことから、彼女に嫌われたくないという一心で飲まざるを得ない状況になり、その結果として強制的に「なじみなさを嫌わず、まず最後まで聴く我慢と努力と寛容さを持つこと」ができ、今こうやってビールを愛することができるようになったのだ。

もう一度伝えておきたい。

最初から好きになったり、愛したり、意味を考えたりは、一切必要ないのだ。

迷ったらニーチェのこの言葉を思い出してほしい。

実は、音楽だけに限らず、わたしたちは今愛するものについても、同じように最初のなじみなさから出発する愛の学びの道をたどってきたのである。

仕事を愛する場合でも、自分自身を愛する場合でも、もちろん誰かを愛する場合においてさえも。

なじみなさから全ては始まり、そして愛することができているのが今の僕らなのだ。

なじみがない。苦手だから。難しそうだから。

こんな理由で諦めるのではなく、まずは、我慢と努力と寛容さを持って向き合ってみてほしい。

そうすればあなたは、きっとそれを愛することができるようになるはずだ。

僕がビールを愛することができるようになったように。乾杯。

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