【読み切り短編】うっかり野郎とドタバタ出産!
「大丈夫だ、もうすぐ病院に着くからな!」
鵜狩進は後部座席に座る妻、蓮花に声をかけた。
臨月を迎えた蓮花は、予定日より一日早く破水していた。
「もう産まれる! 産まれる――!」
苦しそうに叫ぶ蓮花。進はじっとりと汗ばんだ手でハンドルを握りなおし、限界までアクセルをふかした。
「もう少しだ、頑張れ、蓮花!」
大通りを猛スピードで駆け抜け、黄色から赤に変わりかけた信号を強引に左折する。すると、カーナビの指し示す目的地が、目の前に現れた。
入り口に横付けすると、進は蓮花を抱え、速足で建物の中に入っていった。
「すいません、妻が破水しているんです! 誰かいませんか!」
進は無我夢中で叫んだ。すると、奥から一人の女性が顔を出した。見たところ70歳は過ぎた老婆だ。
「うるさいねぇ、あんた何か勘違いしてるんじゃないかい?」
「勘違い?」
予想外の言葉に、進は頓狂な声で聞き返した。
「ここは病院じゃない、美容院だよ!」
「嘘だろ……」
ハッと周りを見渡すと、そこにあったのは3脚のリクライニングチェア。その前には洗面台と大きな鏡が光っていた。
嘘でも冗談でもない。ここは紛れもなく美容院なのだ。その現実を目の当たりにし、進は叫んだ。
「カーナビの馬鹿野郎!」
「いや、馬鹿はあんただよ!」
間髪入れず、老婆はハサミのように鋭いツッコミを入れる。
「わかったなら、早く病院に行きな。車ならここから5分もあれば着くよ」
老婆が病院の方向を指さす。
しかし、それに見向きもせず、蓮花は手前のリクライニングチェアに腰掛けていた。背もたれを最大まで倒し、心なしか股を広げている。
その様子は、分娩台に寝そべる妊婦そのものだった。
「丁度いい、ここで産ませてもらうぜ!」
あまりのそれっぽさに、進は目を輝かせていた。
「馬鹿言ってんじゃないよ! 出産ってのはね、丁度いいイスがありゃできるってもんじゃないんだ! あんたに産婆がつとまるのかい!」
老婆が声を荒げると、進は期待の籠った目で彼女を見つめた。
産婆っぽい人、見っけ。テレパシーのように、そんな言葉が老婆の耳に聞こえていた。
老婆は慌てて首を横に振る。
「あたしが切れるのは髪の毛だけさ! へその緒は切れないよ!」
老婆はうまいこと言って、産婆役を拒否する。
「いいだろガラガラなんだから! 客が来なきゃ髪だって切れないじゃねーか!」
痛いところを突かれ、老婆はしわくちゃの顔をさらに歪めた。
「あんた、どんだけ自己中なんだい! あたしゃ知らないよ、勝手にしな!」
老婆は店の奥へ去っていった。
「もうダメ! 産まれる―!」
蓮花は息を荒げ、苦しそうに顔を歪めていた。もう今にも、赤ちゃんの顔が飛び出してきそうな気配だ。
「ああっ、え――と、何を用意したらいいんだっけ」
進は気が動転し、キョロキョロと辺りを見回した。何をすればよいのか見当もつかず、あわあわと情けない声を出すばかりだった。
「しっかりしな!」
突然、背中をバチンと叩かれた。振り返ると、先程の老婆が立っていた。
その手には、バケツ一杯の熱湯と、何枚かの清潔なタオルが抱えられていた。
「ババア……手伝ってくれるのかよ」
ほろりと、進の目から涙がこぼれた。
「誰がババアだい! あんたとことん失礼な奴だね」
憎まれ口をたたきながら、老婆はテキパキと出産に向けて準備を始めた。
蓮花の子宮口を確認し、声をかける。
「もう頭が出かかってる。あともうちょっとの辛抱だよ」
蓮花は安心したように笑みを浮かべ、頷いた。
「あんたもぼ――としてないで、奥さんの手を握ってやんな! 今が正念場なんだ」
「は、はい」
進はぎゅっと蓮花の手を握った。温かい、二人分の体温がその手には宿っていた。
「頑張れ、頑張れ蓮花!」
手を握ること、声をかけることしかできない。それがどうしようもなく歯がゆくて、進はぼろぼろと涙を流した。
そして、いきみ続けて5時間。待望の産声が、美容室に響き渡った。
老婆は手際よく赤ちゃんを産湯につけると、クリップのようなものでへその緒を挟み、数センチ残してカットした。
「へその緒は、切れないんじゃなかったのかよ?」
進の不躾な聞き方に、老婆はふっと笑みをこぼした。
「この年になると、いろんなもんが切れるようになるんだよ。血管やら、夫との縁やらね。へその緒なんて朝飯前さ」
老婆は赤ちゃんを優しく洗うと、タオルでその体を包んだ。
「かわいい女の子だ。よく頑張ったね」
老婆はまず蓮花に赤ちゃんを抱かせた。苦しさでずっと引き攣っていた表情が、幸せな笑顔に包まれていく。
「かわいい。あたしに、子供が産まれたんだ」
蓮花はそっと赤ちゃんを抱きしめる。彼女の眼差しは、もうすっかりお母さんだった。
「ほら、次はあんたの番だよ。抱いてやんな、あんたももう、父親になったんだから」
蓮花は進に視線を送り、そっと赤ちゃんを差出した。
進は緊張して震える手で、出来るだけ優しく抱きかかえた。小さくて、温かくて、でもずっしりと命の重みがあった。
信じられないくらい小さな手が、何かを捜しているように宙を泳いでいる。進がその手に小指を近づけると、ぎゅっと握ってくれた。
父親になったんだ、この子を一生守っていくんだ。そんな実感が、進の心の中にじんわりと広がっていった。
「本当に、ありがとうございました」
進は老婆に向かって、深々と頭を下げた。
「お礼なんていいから、早く奥さんと赤ちゃんを病院に連れってやんな。今度は間違えるんじゃないよ」
老婆は清々しい笑みを浮かべていた。
「今度は、ちゃんとお客としてきます。病院じゃなく、美容院として」
「いつでも来な。そん時は日本一男前なパンチパーマ当ててやるよ」
「んっ?」思わず、疑問符が漏れた。
進は改めて店内を見渡すと、いたるところに某大物演歌歌手の写真が飾られている。
「他の髪型は?」
「そんなもんないよ」
「どうりで客が来ないわけだ」
「あんた最後まで失礼な奴だねえ!」
相変わらずの悪態をつきあって、二人は噴き出すように笑うのだった。
完
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