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家族写真が語りかけてくる

実家で片づけをしてたら古いアルバムが出てきました。その中から、出てきた母の古いアルバム。そこにはもう亡くなった祖母と祖父、叔父と健在の母と叔母の古い家族写真が出てきました。

もうかれこれ、70年近く前のものだと思います。私も亡くなった祖母の年も叔父の年ももう越してしまいました。あんな風に老けて見える祖母ですが多分当時40代前半だと思います。仕事で留守がちの祖父の不在の家で7人の子ども育てた祖母はとても気丈な明治女です。

祖母

私は小さい頃、母が忙しく祖母の家によく預けられていて祖母の傍らで絵本を見たり、絵を描いているのが好きでした。姉も同様に祖母のところにいましたが、長女で甘やかされていたので厳しい祖母が嫌いだったと言いますが、私はいつも静かに針仕事をしてる祖母が大好き。そんな祖母も50代で突然庭で倒れて亡くなりました。あまりにも急で私はとてもショックでした。

祖父

祖父は技術者で、戦時中も戦争に行くことはなく、軍用工場の指揮を執っていました。戦後は独立し自分の特許を元に会社を作り、日本各地に出張していました。祖父はハンサムでおしゃれで母にとっても私にとっても自慢。

母はお見合いで結婚することに決まった特に面識のない父が、祖父のようにスマートで上品な男性でないことにかなりショックを受け、泣いて結婚を嫌がったそうですが、破談になることはありませんでした。そして母は結婚後、苦労の多い人生を歩むことになってしまいました。今でもなぜ祖父母が父と母を結婚させようと思ったのか、母も私も不思議に思っています。

この写真の時期は母にとって何一つ苦労のない幸せな娘時代でした。

叔父

叔父は7人兄弟の長男。末っ子の7番目の叔父以外はすべて妹で、とても頼りになる豪快で優しい人でした。叔父が大きな車でうちに遊びに来てくれるとお土産がいっぱいあって嬉しいんですよね。母も叔父のことを心から慕っていました。母は、叔父のところによく遊びに来ていた叔父といっしょに東京の大学に行った叔父の友人と結婚したかったようですが、そうはなりませんでした。

おかげで今の私がいるというわけです。

その叔父は会社の経営者でもあったんですが、40代半で脳梗塞で倒れ、数年間の入院生活の中、亡くなりました。叔父の入院中やその後の叔父家族4人の面倒は隠居した祖父が亡くなるまで支えました。

祖母の死、叔父の死、祖父の死

祖父にとって頼りになる長男の叔父が亡くなったことはかなりショックだったと思います。そして、きっと祖母が亡くなってからの悲しみは後を引くように長く、叔父の死後より深くなったのではないでしょうか。

祖父は留守がちで家のことはすべて祖母まかせ。家に帰ればすぐに着物の祖父ですが、着物も自分で着ることなく立っているだけ。祖母が着せていました。食事の時に、熱燗をとっくり1本、おちょこで飲んでいる姿が印象にあります。

そんなダンディな祖父に口答えをすることもなく、従っていたように見えた祖母ですが、祖母が亡くなったときに遺品を整理していて、母と叔母たちがびっくりしたことがあります。それは祖母が興信所に祖父の素行調査を依頼した領収書が出てきたのです。昭和の話で数百万円。ぼられていた可能性もあるけど、すごい金額を使っています。やっぱり祖母も何食わぬ顔しながら、腹の中は煮えくり返っていたのかも。実際に祖父には愛人がいたようでした。

子どもたちは大勢いて賑やかで、お手伝いさんもいた時期もあったけど、戦前、戦中、戦後を夫不在の中子どもたちを守って育てていく責任を背負いながら、祖母は心中泣きながら怒っていたかも。

終戦直後、母の家にもロシア兵がやってきて、祖母が縫っていた赤い着物を欲しいと言ってきたそうです。祖母はその着物を母のいる前で渡したそうです。祖父が不在がちな中、この時の祖母の気持ちを思うと本当に怖かったと思います。

そんな祖母の晩年、祖父と祖母は仕事の関係で、未婚の末の娘と長野に移り住みました。祖母のところに母と遊びに行くと相変わらず祖父はほぼ不在。祖母も洋服を着るようになって裏庭に野菜の畑を作っていました。驚いたことに祖母はTVでプロレスを見るのが好きになっていました。今思うとプロレスは祖母の内に秘めた思いを発散できるものだったのかもしれません。

さて、祖母が亡くなって祖父の暮らしは一転しました。祖母がいてこその祖父の暮らしだったからです。しばらくは末娘の叔母が祖父の身の回りをみていましたが、叔母の結婚相手に自分の会社を譲ると、祖父は長男の叔父のところで隠居暮らしを始めました。

叔父の家に自分の離れや自慢の茶室、池のある庭まで作り、優雅な隠居暮らしをしていたのです。ところが、数年後には叔父が倒れてしまい、数年間の病院での寝たきり生活となってしまったのです。

祖父が叔父の家族を養い、義理の娘のお嫁さんもパートに出るようになり、自分の身の回りのことは自分でしなければならなくなったのです。叔父が倒れてから、祖父の描いていた隠居生活は一変し、叔父が亡くなってから数年後に祖父も亡くなりました。祖父はこんな自分の晩年を想像していなかったと思うし、どんな気持ちで受け入れていたのでしょうか。祖母への愛情と感謝を思い出し噛みしめる毎日だったに違いありません。

母は倒れて寝たきりになった叔父のことも相当ショックでしたが、弱っていく祖父の様子もとても不憫に思ってました。祖父が自分で洗濯をしていると聞いてとてもびっくりしていました。祖父が亡くなった直後に、祖父のいた離れや茶室、庭を見た母はその荒れた様子に驚いたそうです。

家族写真が語りかけてくる

人生、いいときも悪いときもあります。若い頃に苦労しても晩年が穏やかな人もいれば、若い頃に華やかな暮らしでも晩年が侘しい人もいます。

母は実家を出て父の家に嫁いで暮らしぶりが一転、母の兄弟の中でもっとも祖父母に心配された人生を送っていたと思います。その母が無事80代を迎えることができ、今残った4人の兄弟の中で一番健康で人生をささやかに楽しめています。

この写真は母の家族が将来に向かって、それぞれ一番誇らしく幸せだった時代のものでしょう。祖父母がこうして写真を撮ったのはまさにそんな気分だったからかもしれないし、人生そんな瞬間がいつまで続くかはわからない、と感じているから、残したかったのかもしれません。

この写真はそんなそれぞれへの思いを私に静かに語りかけてくるのです。











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