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梶間和歌プロフィール小説~「及ばぬ高き姿」をねがひて~ 【第4章】

第1章からお読みください。

第1章 女であるということ
第2章 正しさのむなしさ
第3章 本当に美しいもの
第4章 この世ならざる美を追って

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第4章 この世ならざる美を追って

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短歌を詠み始めて1年。
独学、自助努力するのは前提として、ひとりでは視野も狭くなるだろうと考え日本で一番大きな短歌結社に入会して……
 

意識の違いに驚いた。いろいろな意味で。


そこに古典を学ぶ人などほとんどいない。いや、どうやらその結社だけでなく現代短歌業界全体がそうらしい。
文法もナンチャッテの、それこそ私が乗り越えようとした翻訳短歌・・・・が横行している。
いっそすべて現代語で詠まれた軽い歌のほうが潔いくらいだ。

私より長く、何年、何十年と短歌を詠んでいるという方に文法の誤りを指摘したらポカーンとされるなんて。待って、待って、偉い(とされる)先生方も同じ顔をしている? とても同じ日本語話者とは思えない。
果てしない古典和歌の世界に日々旅をし、私の学びなんて微々たるものだと思っていたのに、
その私ごときに首を傾げられる日本語能力で“自分らしさ”みたいなものを追究する人たちが、多く結社で、また歌壇で力を持っているのが現実だった。

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それはそれとして、どうやら私は多作らしいとわかった。


その結社の会員には月に8首まで結社誌に投稿する権利がある。
というなかで、毎月その8首を詠むので精いっぱいという人も少なくないらしい。

いったいどういう生活をしているのだろう? 私は月に100首以上詠むのがふつうなのに。
文化が違うと考えればいいのだろうか。皆が皆、短歌に全身全霊で向き合っているわけではない、ということなのか。
なるほど、確かに、趣味として何か習い事をするというのは子どもでも大人でもあることよね……。

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その後、仕事中のナンパへの対応に疲弊して、詩を売るのをやめた。
煩わしさから逃れるために筆名も変更。
熱心なファンを捨てる痛みと引き換えに、数少ないとはいえ存在感のある煩わしいファンとの縁を完全に切ることを選んだ。

新しい筆名は「和歌」。
「和歌」「和歌子」「歌子」の3つで迷い、一番シンプルなものにした。
古典和歌と対話して現代短歌業界に挑む私に、ほかの選択肢は考えられなかった。

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そんなある日のこと。


私には詩歌を詠む以外何もできないと思っていた。けれども大学時代の友人は「お金が欲しいなら、あなた英語できるでしょ」と言う。
「あなたにとって満足な英語力でなくても、相手にとって十分な英語力なら、喜んでもらえるしお金だってもらえるんだよ」

目から鱗が落ちた。
これから労力を割いて新たに何かのスキルを習得しなくても、すでに持っている力を使ってお金を得ることができるのかもしれない。
 

というタイミングで、知人の紹介で、ある英語のセミナーの通訳をすることになった。
ただし、内容は……スピリチュアルセミナーとかなんとか。

胡散臭さの極み……と、躊躇はしたけれど、お金と経験が欲しかったので引き受けることにした。

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そのセミナーで私の人生観は覆った。
 

人間は、自分がしあわせに生きることより
「これまでの人生は間違っていなかった」
「私は正しい」
と信じて生きることを優先したがるらしい。

そして、人間は、そして脳は、「私は正しい」という証拠を人生に見つける天才らしい!

例えば、どうとでも解釈できる出来事を前にした時。
「人は私を裏切る」という前提の人はそういう証拠を、「私は世界に愛されている」という前提の人はそういう証拠を、見つけるのだという。
そうして、その確信を強めてゆくのだと。

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正しさの証拠集め! 私の人生、確かにそうだった。

時代や国や場面が変わればまったく通用しなくなる程度の正しさに、ずっとずっと固執してきた半生だった。
 

「道路交通法違反をしてお金を稼ぐのは醜い」
それはそうかもしれない。でも例えば、戸籍がなくて職に就けない人にはそれ以外のお金の稼ぎ方がない。
そういえば、なかにはそういう同業者もいた。私はその人の背景をどれだけ理解して「醜い」と決めつけていたのだろう。

歴史に親しんできた私、いまではとても考えられない事が違法、また合法とされていた時代もあることぐらい、知っている。
時代を切り拓いてきた先駆者たちは常識を、時に法律さえ破り、新たな常識を創ってきたのだった。
だから道路交通法違反は許される、とかいう話ではなくて。私の常識などその程度に相対化され得るものである、という視点が致命的に足りていなかったことに気づいた。


「傷ついた人に付け込んで絶対に売れるものを売るのは醜い」
確かに芸術家としては、ニーズありきのマーケットインはありえないかもしれない。
詩人として芸術家として生きる私は、きっとそれで良かったのだと思う。

けれども、彼らを芸術家ではなくビジネスマンと考えるなら?
売れる物を売れる人に売るのはごく自然なビジネス戦略であるともいえる。

彼らと私の生きるフィールドが違っただけ、と考えるならば、そこに正しさなどなかったのかもしれない。
私は芸術家として恥ずかしくない事をする、彼らはビジネスマンとして利益の上がる事をする。
争うことなど何もなかったのかもしれない。


そんなあやふやな基準を絶対だと思い込み、私は自分の首を絞め、行動を制限し、しあわせに生きる道を閉ざしていた。
それもこれも、「これまでの人生は間違っていなかった」と信じたいがために。

傷ついてきた幼少期の再生産を、無意識に……みずからしていた。
昨日までの延長線上の明日を生み出すために、今日を生きていたのだ……。

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それ以外の生き方ができるというのなら


私は、してみたい。

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詐欺でしかないと思っていたスピリチュアルな概念を、それを期に勉強し始めた。

すると、人間に認識できるものなど真理のほんの一部でしかないらしい、という事がわかってきた。

その真理、この世ならざるものにアクセスするには、自分の心をクリアに整えることだ、とも。
そうしてクリアになった心で生きると、この世ならざるものの後押しを受けやすくなり、常識を超えた奇跡がたくさん起きるのだ、とも。
 

その学びと実践の過程で、疑問がどんどん解けていった。
私にスランプがないのは、私が多作なのは、この世ならざるものにアクセスしてきたからだ。

セミナー通訳をするまで、“この世ならざるもの”“真理”みたいなものがあるという認識はなかった。
ただ、そういう“何か”にアクセスしてはいた。振り返ってみると、確実に。
自分を無にして、“何か”にアクセスし、その“何か”に身を明け渡し、詠むべきものを詠む。
詩歌の代理出産を、私はずっとしてきたのだから。

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ああ、だから私は昔から子宮の詩や歌を詠んできたのか。

自分を明け渡すとはいえ、その明け渡した時にアクセスしやすいもの、そこには多かれ少なかれ自分の経験や感覚、思想が影響する。
自分が女であるということとずっと向き合ってきた私には、子宮の詩歌が詠みやすい――それは自然なことだった。

けれども、自分の経験や感覚を詠むのでは自己満足に過ぎない。
そうではなく、自分を“この世ならざるもの”に明け渡し“詠むべきもの”を詠もうとすること。

その時、女であることと長年向き合ってきた私には、女の象徴である子宮の歌が降りてきやすい。

向き合ってきた経験や感覚そのものを詠むのではなく、それらを“足がかり”に、古今東西の女の意識を憑依させ、子宮の詩歌を詠む。
だから、元彼やその元カノに成り代わって中絶の詩を詠むこともできた。
いまも、ガチガチの古典的な歌を詠むなかで、時折現代短歌でさえ誰も扱わないような子宮の歌を詠んでいる。

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プラトンの言葉を借りるならば、それはイデア界との交信だ。
イデアの世界、概念の世界には、すでに完成した作品のイデアがある。その概念が「この人に、三次元の地球に降ろしてもらいたい」と芸術家を選び、彼彼女にささやく。

芸術家のすべき事は、その作品の声が聞こえるよう自分の心をクリアにしておくこと。
そしていざ「降ろしてほしい」という声に気づいた時に技術不足であるという事態を避けるため、常日ごろから技術を磨いておくこと。
このふたつだけなのだ。

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そういえば、かのミケランジェロも、大理石のなかに見える天使を自由にしてやるのが彫刻家の仕事だ、と言ったという。
夏目漱石も仏師、運慶のまわりの男の口をとおしてそのような事を述べていたっけ。
大理石のなかに天使の見えない人間、そして見えた天使を自由にする彫刻の技術のない人間、どちらにも天使を彫ることはできない。

短歌も同じだ。
詠むべき概念のつかめない人間と、つかんだものを歌の形にする技術のない人間に、詠むべき歌は詠めない。
この両方を続けてきた私が多作なのも、スランプがないのも、当然だったのだ。


式子内親王をきっかけに没頭した和歌の世界で見つけた私の心の友は、藤原定家という、神経質な天才歌人。
その定家は、歌を詠むにあたり「歌の本意と存ずる姿」「及ばぬ高き姿」をめざすべし、と言ったという。

これらの言葉を知った時、我が意を得たりと膝を打った。まさしく私の姿勢と同じだったから!
この世ならざるものをこの世に降ろし、自分以外の人間にも認識、知覚できる形に整える。
降ろした時点で本来の姿そのままではないのだけど、それでも誤謬を限りなく小さくするために日々努力する。

それが芸術家のすべき事だ。
歌人であれば、古典作品を学び、韻律の感覚を体に叩き込み、文法をきちんと身につける。
800年前の天才の指し示した事を、私は無意識にしていたのだった。
 

振り返ってみれば、そもそも小学時代の読書量よ。
不登校さえした私が歴史について一般人より知っているのも、使う日本語が一般人より正確で美しいのも、どう考えてもあの読書量の結果だった。
自主的に選んだのではなくそうせざるを得なくて積み上げたものさえ、歌人としての現在に役立っていたなんて。

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そうして目に見えない世界の仕組みに気づいた私には、「私が、私が」と主張するだけの近現代短歌がますます色褪せて見えるようになった。
自己満足のオナニー短歌は日記に書いてうふふと笑っていればよい、いやしくも人目に晒す歌は“詠むべき歌”であるのが読者への礼儀だろう、と考える。


とはいえ、その現代短歌の業界で評価されたいという気持ちもいつしか消え失せていた。

結社誌への月8首の投稿は欠かさないけれど、それは多作の私にとり強い意志力を必要とせずできる事。
それらの作品において、結社内や現代の歌壇で理解されやすい方向に作風を変えることはなく、自分の確信する美の形をひたすら追究する。
私のライバルは現代にいない、それは800年前に生きた藤原定家だから。

毎年4、5本の新人賞に応募するのは、賞を取るためではなく、良い連作を詠み溜めるため。それが楽しいから。
それでも、年に4、5本、何十首の連作を仕上げるのは常識的でない事……らしいのだけど。


当然それらの作品に自分の経験を詠むことはなく、『源氏物語』の登場人物や歴史上の人物を作中主体に据えて歌を詠むばかりだ。
自分のことを詠むよりよほど、詠みたかった事が詠める。そんな枠組みが、この“成り代わり”の歌だ。
そしてこれは、定家の時代には皆当たり前におこなっていた歌の詠み方でもある。

それは偉人伝を読み、「私だったら」と想像を巡らせた小学時代の延長線上にある営みだった。

「この人以上にこの人らしく歌を詠もう」
「この人にはつかめなかったこの人らしさを私が詠もう」
「歌の技術を持たなかったこの人に代わって、私が歌にしよう」
とだけ心懸けている。

こうして、定家の言う「歌の本意と存ずる姿」「及ばぬ高き姿」の追究を、現代においておこなっている。
定家の精神的な子孫を自負する私だから。

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デビューから5年そこらで埋もれ、短歌をやめてゆく新人賞受賞者たち。
文法ミスのある歌を平気で歌集に載せるプロ歌人たち。
そういう人たちのうごめく場で評価されることは、もうどうでもよくて。

千年先の世界に残る歌こそ詠みたい。
それは、「私が、私が」のオナニー短歌ではなく、美という概念や“詠むべき歌”を追究する過程で代理出産する歌であるはずだ。

「どうせしあわせにはなれないから、せめて」と消極的に選ぶ名声ではなく、自分の美学を追究するプロセスが楽しいからこそ信頼する未来の名声。

そんな姿勢で詠む歌が私の生きているあいだに評価されれば、それはあくまでラッキー・・・・な事。
それをめざした瞬間、私は5年そこらで消えてゆく“よくいる若手”に成り下がってしまうのだろう。

ただ、そんな事をめざす可能性も、“よくいる若手”に成り下がる可能性もまずないだろうことも、わかる。
私のなかに確固たる軸が出来ているから。

千年先の未来に残る歌は。詠みたい歌ではなく“詠むべき歌”は。
「詠んでくれ」とささやいてくる歌の声のきちんとつかめる自分であるために、今日すべき事は。
こうした事を日々自身に問い、確認し、藤原定家や式子内親王を心の友とする私だから。


さすがにそんな姿勢を堅持して結社にいると、7年半でそこを退会するまでに友人や理解者も少しは出来た。

「古典和歌、特に中世の和歌を基盤に、現代短歌を詠む歌人」としていた自己認識も、「和歌とは何か」を考え直し、
「私の取り組んでいるのは現代短歌ではない。現代和歌だ」と改めるに至った。

古典和歌を紹介するブログ経由では熱心なファンが付くようになった。

「歌壇での評価はめざすものではない。されたらラッキー」ぐらいの軽やかな気持ちでいると、かえって短歌や和歌の仕事が頂けるようになった。

そうして日々感じられる世界からの応援に励まされ、私家版の歌集を出すことさえした。


正しさの証明をやめ、傷ついた過去の再生産をやめ、“この世ならざるもの”に自分を明け渡して生きると、毎日毎日奇跡が訪れる。
それは、諦めようとしながらも願い続けてきた、“しあわせな人生”だった。

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私は決して、歌壇内外を問わず、大ヒットする現代的な歌人ではないだろう。
それでも、和歌史において意味のある存在としての自信、確信を持って生きている。

定家の精神的な子孫としての私は、今日いかに生きるべきか。どんな歌を詠むべきか。
美の追究、“この世ならざるもの”の追究は尽きない。

人生80年として、残り約50年。50年でどこまでできるかしら。
楽しみで仕方ないけれど、時間は確実に足らない。人生200年ぐらい欲しい、と本気で思う。

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人生80年に絶望した幼稚園時代の私よ! よくよく聴いてほしい。


いろいろあるけれど、人生は楽しくなるよ。
いろいろあるけれど、だいじょうぶだからね。
あなたは歴史に残る大歌人に育つのだからね。

生き続けてくれて、ありがとう。

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☆゚+.梶間和歌 経歴 ゚+.☆

新古今見ざる歌詠みは遺恨のことなり。

1986年、島根県生まれ。
2009年~13年、自作の詩歌の対面販売に従事。

2012年、近代短歌に触れて短歌を詠み始める。
その年の夏、式子内親王の和歌に衝撃を受け、古典和歌、特に中世の新古今和歌、京極派和歌に傾倒。

2014年、ながらみ書房『短歌往来』3月号「今月の新人」に作品寄稿。
2020年、ながらみ書房『短歌往来』4月号の特集に評論寄稿。
同年5月、私家版歌集『生殖の海』上梓
2021年、現代短歌社「現代短歌新聞」4月号「島根県の歌人」に作品寄稿。
2022年、ながらみ書房『短歌往来』8月号に作品寄稿。
2023年、ながらみ書房『短歌往来』9月号に作品寄稿。
2024年、隠岐後鳥羽院大賞 令和5年和歌部門 大賞(古事記編纂一三〇〇年記念大賞)受賞

2021年~22年、オンライン講座「歌塾」講師。
2023年~、裕泉堂歌会講師。

新古今和歌と京極派和歌の良き読者を増やすことを生涯の仕事とする。
心の友は藤原定家、心の師は永福門院と光厳院。

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梶間和歌プロフィール小説 ~「及ばぬ高き姿」をねがひて~
第1章 女であるということ
第2章 正しさのむなしさ
第3章 本当に美しいもの
第4章 この世ならざる美を追って

最後までお読みいただきありがとうございました。

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歌集『生殖の海』


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