谷知子 和歌研究者です

フェリス女学院大学文学部日本語日本文学科教授。 『古典のすすめ』『和歌文学の基礎知識』…

谷知子 和歌研究者です

フェリス女学院大学文学部日本語日本文学科教授。 『古典のすすめ』『和歌文学の基礎知識』『天皇たちの和歌』(角川選書) 『百人一首(全)』(ビギナーズクラシックス角川文庫) 『百人一首の解剖図鑑』(エクスナレッジ) 『中世和歌とその時代』(笠間書院) 『秋篠月清集』(明治書院)など

最近の記事

三月三日

昨日は、三月三日の雛祭りでした。 元来(ルーツは中国)は水辺で沐浴し、身体の穢れを祓い清める行事でしたが、水辺で宴を行い、詩を賦す形態をとるようになります。その形態がさらに趣向をこらしたものに変化し、「曲水宴」が誕生します。「曲水宴」とは川の流水に酒盃を浮かべて、詩歌を詠み、酒を飲む儀礼です。   日本にも三月三日の曲水宴が輸入され、神泉苑や宮中で行われました。後には、有力貴族が自邸で開催するようになります。例えば、藤原道長です。中でも寛弘四年(一〇〇七)三月三日土御門第で催

    • 撫子の花

      寒い日が続いています。春が待ち遠しい季節となってきました。 次の歌は、今年いただいたお年賀状に添えられていた藤原定家(このとき25歳)の一首です。 霜冴ゆるあしたの原の冬枯れにひと花咲ける大和なでしこ(藤原定家・二見浦百首) 「霜冴ゆる」は、霜が冷たく凍り付いた。「あしたの原」は「朝」と大和国の歌枕の掛詞。訳すと、「霜が冷たく凍り付いた朝、朝の原の冬枯れに、大和撫子が一つだけ花を咲かせている」。 寒々とした冬枯れの原っぱの中で、可憐に咲き残る一輪の花。優しいまなざ

      • 秋は夕べと誰か言ひけん

        部分月食は見逃しましたが、この写真は、優しい秋の朝の遠景です。 「秋は夕べと誰か言ひけん」 「薄霧の籬の花の朝じめり秋は夕べと誰か言ひけん」(新古今和歌集・秋上・340・藤原清輔) *薄霧のたちこめる籬の花は、朝しっとりとしめっている。誰が秋は夕べがいいと言ったのでしょう。秋の朝も素晴らしいですよね。 「誰」はもちろん清少納言、後の歌人にも大きな影響を与えた『枕草子』。『枕草子』をこよなく愛するがゆえの歌です。「春は曙」の空や山から、小さな近景の花(何の花かはわからな

        • 月によせて

          10月20日(金)緑園図書館1階ラーニングコモンズにて「黒川ゼミ(音楽学部)×図書館 プロムナードコンサート」第3回「月によせて」が開催されました。 学生のみなさんは、演奏の前に、月にゆかりの和歌や物語を紹介してくれました。 思ひ出でば同じ空とは月を見よほどは雲井にめぐりあふまで(新古今和歌集・離別・877・後三条院) 後三条院が東宮だった頃、東宮学士だった藤原実政が甲斐守として赴任する際に贈った歌です。「忘るなよほどは雲井になりぬとも空行く月のめぐりあふまで」(拾遺

          鴨長明の『方丈記』より

          当たり前なのですが、大学の授業で学生に共感してもらえるところと、社会人講座で反響が大きいところは違います。はっとさせられる経験もしばしば。  大学生に話しても反応がないのに、社会人の受講生の反応が大きい例に、鴨長明『方丈記』のこの箇所があります。 大飢饉の様子を描写した部分です。  さりがたき女男など持ちたるものは、その思ひまさりて、心ざし深きは必ず先立ちて死ぬ。そのゆゑは、我が身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしく思ふかたに、たまたま乞ひ得たる物を、まづ譲るによ

          鴨長明の『方丈記』より

          屏風歌と漫画

          日本の和歌は、絵画と深い関係を持ちながら発展してきました。その一つの例が、「屏風歌」です。室内に立てた衝立としての家具で、その表面には絵画は書が飾られました。 10世紀頃に大流行し、屏風歌の代表的な歌人が紀貫之です。多くは、長寿や入内などを祝う場に飾るための屏風として作られていました。 屏風歌は元来描かれた絵画とセットで鑑賞されるべきものですが、屏風(障子も)は家具、つまり消耗品と見なされ、書物のように残すという発想がなかったため、ほぼ廃棄されるという運命にありました

          夏の到来は何で知る?

          夏の到来は何で知る? 和歌において晩春を彩るものは、藤・山吹(やや少ないですが躑躅も)です。今、神奈川では藤と躑躅が見頃を迎えています。 春が終わると夏が来ます。 春すぎて夏来たるらし白妙の衣干すてふ天の香具山(百人一首・持統天皇) 日本の和歌において、季節の到来は何をもって知るとされているのでしょう。「されている」はちょっともって回った言い方ですが、季節の到来は天がもたらす「自然」なものと、人間が定める「人為」的なもの(暦など)があります。和歌においては、そ

          夏の到来は何で知る?

          日本全国能楽キャラバン!in神奈川

          1月5日、鎌倉芸術館で、謡曲「江野島」と狂言「鐘の音」を鑑賞しました。日本全国能楽キャラバン!in神奈川の公演でした。 「江野島」は鎌倉の深沢に住む龍神と弁才天の物語です。江の島伝承に基づく能で、弁才天、童神、龍神が登場し、華やかで、かつ祝言性に富んだ、鎌倉のお正月にふさわしい演目でした。 狂言「鐘の音」は鎌倉ゆかりの名曲。「金の値(かねのね)」を聞いてくるよう言われた太郎冠者が、鎌倉のいくつかのお寺の「鐘の音(かねのね)」を聞き比べて主人に教えるのですが、鎌倉の有名な

          日本全国能楽キャラバン!in神奈川

          北条泰時、父の死を悼む和歌

          昨日は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がない日曜日でした。寂しいけれども、一年間楽しませてもらった感謝の気持ちと満足感の方が大きいかも。従来の大河ドラマの最終回は、「鎌倉殿の13人」第1回のラストシーン:「新世界」の音楽とともに頼朝と義時が馬に乗って駆け抜けてゆく、そんな場面で終わるイメージでしたが、今回はそこから始まったんですよね。 未来への希望を託された北条泰時。ドラマの中で、父義時に対して時に批判的なことばを発していた泰時でしたが、深刻な場面ではやはり父上を思い、気遣

          北条泰時、父の死を悼む和歌

          実朝の退場

          大河ドラマ『鎌倉殿の13人』、ついに源実朝が殺されてしまいました。『愚管抄』『吾妻鏡』、黒幕説、単独説を踏まえながら、シェイクスピアの悲劇(私がこのスタイルの悲劇を初めて知ったのは、映画『ウエストサイドストーリー』)を観るような、緊張感のある回でした。 『吾妻鏡』は鶴岡八幡宮出立の期に及んで、様々な異変「抑今日勝事、兼示変異事非一」があったことを書き記しています。地上で異変が起きるときには、天が警告を発しますが、実朝の場合自分の死を悟っていたのではないかと思われるような、

          世の中は常にもがもな

          前回の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の紀行でも紹介されていましたが、鎌倉・由比ガ浜には源実朝の歌碑があります。彼の見果てぬ夢を載せた船の形を模した石碑に、『百人一首』の実朝の和歌が刻まれているのです。 世の中は常にもがもな渚漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも  (『百人一首』93・鎌倉右大臣) 本歌は、『古今和歌集』の陸奥歌です。 陸奥(みちのく)はいづくはあれど塩竃の浦漕ぐ舟の綱手かなしも                    (『古今和歌集』陸奥歌・一〇八八)

          世の中は常にもがもな

          源実朝の和歌 ②

          大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の前々回、源実朝が詠んだ和歌 今朝見れば山も霞みて久方の天の原より春は來にけり は、『金槐和歌集』に「正月一日よめる」とあるので、暦による年始、元日の歌ということになります。 新古今歌人・藤原良経や定家の歌に似通う歌が結構あります。 み𠮷野は山も霞みて白雪のふりにし里に春は来にけり(『新古今集』春上・一・藤原良経・治承題百首) 久方の雲井に春の立ちぬれば空にぞ霞む天の香具山(藤原良経『秋篠月清集』正治二年初度百首) 久方の雲井はるかにい

          実朝の和歌

          菊花の和歌について続きを書きたいのですが、今日は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で実朝の和歌、都の藤原定家の名前が登場したので、少しだけ著書から実朝の和歌の解説を紹介したいと思います。 谷知子・島村輝編『和歌・短歌のすすめー新撰百人一首』(花鳥社)に撰び入れた実朝の和歌は次の一首です。今日のドラマにも(三善康信が和歌を教える場面)にこの和歌が登場していましたね。 宮柱(みやばしら)ふとしきたてて万代(よろづよ)に今ぞ栄えん鎌倉の里           (鶴岡の宮に厳めし

          残りの菊

          菊の花のお話の続きです。 『六百番歌合』(兼実の子息良経が主催)に「残菊」の歌題があります。「残菊」は重陽の節句を過ぎて、10月頃まで咲き残った菊の花のことです。 『六百番歌合』の50題の中には、「残~」という歌題が3題あります。「残春」「残暑」「残菊」。「残暑」は立秋後の暑さ、「残菊」は九月九日を過ぎた菊という題意なので、いまだ春のうちにある「残春」と全く同じではありませんが、季節や時間が推移する微妙な時期に焦点をあてた題という点では同じでしょう。 「残菊」は、しばしば

          後鳥羽院と菊の花

          菊の花のお話の続きです。 菊の花のルーツは中国にあり、日本には奈良時代にもたらされたようです。 その由来もあって、まずは漢詩文の世界に登場し、和歌における最も古い例は、平安遷都直後の桓武天皇が宴席で詠んだ歌とされています。   この頃の時雨の雨に菊の花散りぞしぬべくあたらその香(か)を(『日本後紀』) (この頃の時雨のために菊の花が散ってしまいそうで、惜しいなあ、その香が) 歴代の天皇(上皇)の中でも菊を深く愛したのは、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で今後存在感を増

          9月9日

          9月9日は、重陽の節、菊の節句です。起源は中国にあって、陽数の「九」を重ねる「重九」、から「長久」が連想され、長寿をもたらす日と考えられるに至ったようです。 建久年間に開催された『六百番歌合』には「九月九日」の歌題が出され、歌人たちはそれぞれ詠作に取り組みました。 その中の、顕昭と兼宗の和歌を引用します。       分け来つる情けのみかはそが菊の色もてはやす白妙の袖(顕昭) 今日といへばやがて籬(まがき)の白菊ぞたづねし人の袖と見えける(兼宗) この2首は、陶淵明