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三月三日

昨日は、三月三日の雛祭りでした。
元来(ルーツは中国)は水辺で沐浴し、身体の穢れを祓い清める行事でしたが、水辺で宴を行い、詩を賦す形態をとるようになります。その形態がさらに趣向をこらしたものに変化し、「曲水宴」が誕生します。「曲水宴」とは川の流水に酒盃を浮かべて、詩歌を詠み、酒を飲む儀礼です。
 
日本にも三月三日の曲水宴が輸入され、神泉苑や宮中で行われました。後には、有力貴族が自邸で開催するようになります。例えば、藤原道長です。中でも寛弘四年(一〇〇七)三月三日土御門第で催した曲水宴は有名です。
 
お酒を飲んで、詩歌を詠むと聞くと、楽しそうと思うのですが、政治的な意味もありました。
 この日、大江匡衡が書いた詩序を紹介しましょう。

昔成王之叔父周公旦、卜洛陽而濫觴、
今聖主之親舅左丞相、宅洛陽而宴飲。
(『江吏部集』上、『新撰朗詠集』上・春・三月三日付桃・三四、『本朝文粋』巻八)
(昔、成王の叔父周公旦は、洛陽で川に盃を流水に浮かべる曲水宴を開き、今、一条天皇の外祖父〈母方の叔父でもある〉左大臣道長が、左京の邸で宴飲の会を開いている。)

「昔」「中国」の周公旦と「今」「日本」の道長を重ねて、賞賛しています。周公旦は、兄武王の子成王の摂政となって助け、周王朝を治めた人で、洛陽で華やかな曲水宴を行ったことでも有名です。
 
序文では、さらに次のような文章が続きます。

蓋乗輔佐之余暇、惜物色之可賞也。(『本朝文粋』巻八)
(輔佐の余暇を利用して、景物を惜しみ、賞美したのである)

「輔佐」とは、王(天皇)を輔佐するという意味です。道長も外戚、摂関家(摂政となるのは後年で、しかもわずかな期間ですが、摂関家としての意識という意味)という立場にありましたので、叔父として政治を輔佐した周公旦と、外祖父(母方の叔父でもある)として幼い王を輔佐した道長を、共に王を輔佐する人という共通点で並べているのです。
 
『源氏物語』賢木巻に、光源氏が自らを周公旦になぞらえ、桐壷帝の子東宮を輔佐しなくてはならない立場であると自覚する場面があります。この当時、周公旦といえば、天皇の優れた輔佐という認識があったのです。光源氏には、周公旦や道長のイメージが重ねられていたのですね。それが全てではありませんが。
曲水宴という業が古今東西の違いを超えて、王の輔佐役という共通点で周公旦と道長をつないでいます。このことを考えると、三月三日の節日が持つ政教性、パフォーマンス性に気づかされます。
 
曲水宴の行事は摂関家で自覚的に継承されていきます。時代が下った寛治五年(一〇九一)三月一六日 摂関家の藤原師通は自邸で曲水宴を開催しています(『今鏡』は、この催しが道長の曲水宴を倣うものであったとしています)。さらに同じ摂関家で、鎌倉時代初期に藤原良経が曲水宴を企画しています。良経もまた、道長・師通の先例に倣おうとしていました。

京極殿は、詩歌の道に長ぜさせ給ひて、寛弘(道長)・寛治(師通)の昔の跡を尋ねて、建永元年三月に、京極殿にて、曲水宴をおこなはんとおぼしたちけり。(『古今著聞集』)
(後京極良経殿は、詩歌の道に長じておられ、寛弘(道長)・寛治(師通)の旧跡を尋ねて、建永元年三月に、京極殿で、曲水宴を開催しおうと思い立ちなさった。)

 しかし、この計画は延期の末、良経の急死によって実現できず、幻の曲水宴となってしまいました。
 
曲水宴が摂関家、家の行事として、自覚的に継承されてきたことがよくわかります。このことは曲水宴に限ったことではなく、年中行事全体の継承に及びます。

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