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後鳥羽院と菊の花

 
菊の花のお話の続きです。
 
菊の花のルーツは中国にあり、日本には奈良時代にもたらされたようです。
その由来もあって、まずは漢詩文の世界に登場し、和歌における最も古い例は、平安遷都直後の桓武天皇が宴席で詠んだ歌とされています。
 
この頃の時雨の雨に菊の花散りぞしぬべくあたらその香(か)を(『日本後紀』)
(この頃の時雨のために菊の花が散ってしまいそうで、惜しいなあ、その香が)
 
歴代の天皇(上皇)の中でも菊を深く愛したのは、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で今後存在感を増していくと思われる後鳥羽院でしょう。
後鳥羽院が、刀や持ち物に菊の紋を入れたことが、現在の皇室の菊の紋章のルーツとなったといわれているほどです。
 
後鳥羽天皇の菊の歌をいくつか掲げてみましょう。
菊が変色することに、恋人の心変わりを重ねた例です。

白菊に人の心ぞ知られけるうつろひにけり霜もおきあへず(『後鳥羽院御集』七五)
(白菊にあの方の心も知られることだなあ。色変わりしてしまったよ、霜も置かないうちに)

思ひ出(い)でよまがきの菊も折々はうつろひはてし秋の契りを(『後鳥羽院御集』九九八)
(思い出してください、籬の菊もときどきは。すっかり変わり果ててしまった秋の約束を)

うつりゆくまがきの菊も折々はなれこしころの秋を恋ふらし『後鳥羽院御集』一五九八)
(色変わりしてゆく籬の菊も、ときどきは馴れ親しんだ頃の秋を恋しく思っているに違いない。私もそうなのだから)
 
恋歌ではありませんが、うつろう菊を詠んだ例はほかにもあります。
 
白菊もうつろはんとのわざなれや霜のまがきのあり明の月 (『後鳥羽院御集』一一八七)
(白菊も色変わりしようとする仕業であろうか、霜のおりた籬を照らす有明の月よ)
 
後鳥羽天皇にとって菊の花は「うつろふ」もので、変色していくさまこそ歌の主眼だったのかもしれません。
 
次の歌も興味深いですね。
 
ながらへて見るは憂けれど白菊のはなれがたきは此世なりけり(『後鳥羽院御集』一七六二)                       
(生き長らえて見るのはつらいけれど、白菊の花のように、離れがたいのはやはりこの世であるよ)
 
菊と長寿の結びつきをふまえて、離れがたく愛惜するものとして、憂き世と白菊を並べています。もちろん、移ろい行く菊は和歌における菊の本意ともいうべき普遍性を持つものですし、それを惜しみ、歎く心情に主眼があるものなのですが、後鳥羽院の肉声をふと耳にしたような、そんな気がする一首です。
 

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