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屏風歌と漫画

日本の和歌は、絵画と深い関係を持ちながら発展してきました。その一つの例が、「屏風歌」です。室内に立てた衝立としての家具で、その表面には絵画は書が飾られました。

10世紀頃に大流行し、屏風歌の代表的な歌人が紀貫之です。多くは、長寿や入内などを祝う場に飾るための屏風として作られていました。

屏風歌は元来描かれた絵画とセットで鑑賞されるべきものですが、屏風(障子も)は家具、つまり消耗品と見なされ、書物のように残すという発想がなかったため、ほぼ廃棄されるという運命にありました。唯一残されるのは、書物などに別途書き留められた屏風歌で、その内容から失われた屏風絵を想像するしかないのです。

屏風歌の詠み方は、題詠と重なる部分もありますが、やはり絵画との関係で様々な工夫が必要でした。歌人顕昭は、屏風歌の詠み方について、「屏風、障子等の絵を詠むは、やがて絵に描かれる人の心になりて詠むなり」(『拾遺抄註』)と説いています。つまり、屏風絵に描かれた人物の心になりきって詠むべしと言っているのです。

そういう意味では、役者さんと同じですよね。絵画の中に入り込み、画中人物になりきって、歌を詠むという点で、別人になりきる演技です。

例えば、紀貫之作「宰相の中将(藤原敦忠)屏風の歌」435~437番を引いてみます。

  月に琴ひきたるをききて、女
弾く琴の音のうちつけに月影を秋の雪かとおどろかれつつ(貫之集435)
月影も雪かと見つつ弾く琴の音の消えて積めども知らずやあるらん(436)
  男
弾く琴の音ごとに思ふ心あるを心のごとく聞きもなさなん(437)

詞書があるので、屏風の絵を推測することができます。月光のもと、琴を演奏する一人の男がいて、女の歌が二首あるので複数の女がその音色を聴いている、そんな絵だったのかなと想像されます。

女たちの歌の「おどろかれつつ」の主体は画中に描かれた女の心中ですし、「知らずやあるらん」は「あなた(男)は知らないのでしょうか」と推測する女の心中です。

437番末句の「なん」は他者へのあつらえの終助詞で、「あなたへの思いを琴の音にこめているのを聴き取ってほしい」という男の心情を述べた歌です。

この屏風を見る人は、画面ごとに、登場人物ごとに視点を次々と変えながら鑑賞していったわけです。これは、現代でいえば、屏風絵が漫画の「人物の絵」、屏風歌は漫画の「吹き出し」に近いでしょう。

最後に私の『和歌文学の基礎知識』から引用します。

絵とことばがお互いを補完し合う関係といえば、そもそも日本の漢字がそうですよね。漢字という、絵に近い文字を輸入し、日本の音による読みをそこにあてはめていった歴史を持つ日本文化にとって、和歌と絵画の組み合わせは、既に経験ずみのことだったのかもしれません。(谷知子『和歌文学の基礎知識』「和歌と絵画」角川選書・KADOKAWA)

紫陽花が美しい季節となりました。品種がここ数年で増えたような気がしますね。雨に濡れた紫陽花を存分に楽しみたいと思います。


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