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あちらとこちらが関係を持つまでの物語 ~『イニシェリン島の精霊』解読マニュアル~

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第74回ヴェネチア国際映画祭で脚本賞、続く2017年度トロント国際映画祭で最高賞の観客賞を受賞、さらに主演のフランシス・マクドーマンドに2度目のアカデミー賞主演女優賞をもたらし、その年、映画ファンを最も興奮、震撼させた傑作『スリー・ビルボード』から5年。
いまなお演劇界・映画界の最前線に立つ鬼才マーティン・マクドナーの全世界待望の最新作。
本作の舞台は本土が内戦に揺れる1923年、アイルランドの孤島、イニシェリン島。島民全員が顔見知りのこの平和な小さい島で、気のいい男パードリックは長年友情を育んできたはずだった友人コルムに突然の絶縁を告げられる。
急な出来事に動揺を隠せないパードリックだったが、理由はわからない。賢明な妹シボーンや風変わりな隣人ドミニクの力も借りて事態を好転させようとするが、ついにコルムから「これ以上自分に関わると自分の指を切り落とす」と恐ろしい宣言をされる。
美しい海と空に囲まれた穏やかなこの島に、死を知らせると言い伝えられる“精霊”が降り立つ。その先には誰もが想像しえなかった衝撃的な結末が待っていた…。

キャスト   コリン・ファレル (パードリック), ブレンダン・グリーソン (コルム), ケリー・コンドン (シボーン), バリー・コーガン (ドミニク)

監督・脚本   マーティン・マクドナー





・あちらとこちら


馬鹿、まぬけ、うすのろ、を意味する言葉が頻出する。
stupid, dull, dim, bored, donkey·····
対する言葉はただひとつ。
niceness。
優しさ。

これは二人の男が対岸で向かい合う物語である。
ふたつのなにかが、あちらとこちらで。
パードリックとコルムの関係においては、動物的で無目的な生と文化芸術的な生き方が睨み合う。
コルムはパードリックの聡明な妹シボーンを文化芸術を愛するこちら側の人間として捉えているようだが(自身の不合理な行動について『あんたならわかるはずだ』と二度共感を求める)、両者の間にも実は断層がある。
シボーンの胸中には、『なにもない』『悪口ばかり言う人しかいない』イニシェリン島とその外に広がっている世界=アイルランド本土というさらに大きな二項対立が存在しているためだ。
島内で唯一『madness』ではない生き方を選択する例外者としての彼女を軸に、内戦という概念もまたパラレルになっている。親しい友人同士だからこそ一度こじれると際限なく増長していくパードリックとコルムの争いは、本土で繰り広げられているアイルランド人同士の殺し合いの身近な比喩になっているのだ。
だが、内戦の気配は川を挟んだ向こう岸から届く砲撃の音によってかすかに感じられる程度であり、殺人事件といった重大な事実は、警官のピーダーが詮索好きの雑貨屋の女主人の元に運んでくる『News』を介して間接的に伝えられるに過ぎない。つまり、イニシェリン島ではあらかじめ暴力が抑圧され、目に見えないあちら側へ遠ざけられている。
それは抑圧されている限りにおいて退屈を持て余す人々にとっての見世物として機能し、『悪口』や『噂話』を通じて消費される商品としてぎりぎりのバランスを保っている。しかし、コルムの重大な決断によりひとたびその危うい均衡が破られるや、島は破滅への道を突き進んでいくのだ。



・生と死、ランドマークと分岐


だが、イニシェリン島はそもそもの最初から暴力の可能性を内包していた。ざわめきはランドマーク(道標)と分岐によって表現される。
島を貫く雄大な川。そのきざはしにシボーンがやって来る。ふと見ると、霧に霞んだあちら岸に誰かの姿が。真っ黒い装束に身を包んだ老婆。イニシェリン島の予言者として周囲から敬われ、同時に恐れられている人物だ。その現実離れした存在は理性的なシボーンにとってなおさら不気味なものに感じられているに違いない。彼女が老婆と『会うのを避けていた』事実がパードリックの口から明かされている。シボーンは慌てて否定するが、パードリックが良くも悪くも嘘がつけない性格であることは明らかだ。
老婆がこちらに手を振ってくるので、シボーンも笑顔を作り、手を振り返す。しかしどういうわけか、対岸の手は同じ動きをやめようとしない。もう一度目を凝らしよく見てみると·····「ひっ!」とっさに悲鳴を漏らし、目を背ける彼女。
予言者は手を振って挨拶していたのではなかった。こちらに向かって「おいでおいで」をするように、ゆっくりと手をこまねいていたのだ。
そこに現れるのが、周囲から厄介者扱いされている少年ドミニク。突然背後から声をかけ、シボーンを驚かせる。
『心臓が止まるかと思ったわ!』
シボーンにしてみれば、凶兆に凶兆が重なる事態に感じられたに違いないが、ドミニクに害意がないことを知りひとまず安堵。老婆を指差し、
「あれ見てよ!まるで死神みたい」
「奇遇だね。僕もあの婆さんのことを死神と呼んでるよ」
この一事で弾みがついたものか、ドミニクは「ほら、僕らって気が合うし·····」と話を続け、シボーンに交際を申し込む。
返事は当然NO。自身の口癖通りに見事『当たって砕け』てしまったドミニクは絶望感に打ちひしがれる。ふらふらとよろめきつつ『じゃあ、僕はあっちに行くから』『あっちに·····』と老婆が手招きする対岸の方を指差す。そうして後日、まさにその川で溺死体となって発見されることになるのだ。
アイルランド本島での職を見つけ、今しも因襲的な島を去ろうとしているシボーンを引き戻そうとする死神の手。
死神が手招きする対岸へ旅立ってゆくドミニク。
一連のシークエンスは、イニシェリン島の内部において、川を挟んだあちらとこちらが生と死が鋭く対峙する場として機能していることを示している。ランドマークと分岐を活用した見事な象徴表現には、マクドナー監督の出自であるアイルランド~ケルト系に特有の地理学的な死生観が反映されてもいよう。
今ひとつ重要なモチーフがある。
ハンドサイン。
手招き。指差し。指の切断。冒頭からたびたび印象的に捉えられる手指の運動は、まるで持ち主から切り離され(文字通り!)独立した生を持っているかのように蠢き、人々の運命をさまざまに翻弄していく。

・ドミニクはなぜ死んだのか?

最後に、主人公パードリックの中では、まぬけさ=『dullness』と優しさ=『niceness』とが時々でその分量を譲り合いながら、怒りと暴力=『madness』がとめどなく高まっていく後半の展開を用意していく。
だが、それにしても、なぜドミニクは死ななければならなかったのだろう?
パードリックやコルムではなく、なぜ粗野ではあっても純朴なあの少年が?
きっかけは、パードリックがコルムに対して行った悪事にある。
島を訪れた音大生たちとともに自身が作曲した曲をバーで演奏することに新たな生き甲斐を見出しはじめるコルム。文化芸術的な生の彼なりの実践方法だ。ところが、そのような生き方をどうしても理解できないパードリックは、かつての親友の関心を取り戻したい一心から嘘をつき、音大生の一人を島から追い払ってしまう。
このささやかな嘘を自慢げにドミニクに打ち明けると、それまでどんな馬鹿話にもつきあってくれ、むしろ率先して悪事をけしかけているようにも思えた彼はひどく落胆した様子を見せ、突如としてパードリックの元を去っていく。
「嘘をついたの?」
「それはいけないことだ」
「あんたはいい人(niceness)だった」
「あんただけは他のやつらと違うと思ってたのに」
ドミニクにとって、嘘をついて人を欺くことは、彼が日常的に接している身体的な暴力以上に優しさや善良さ=nicenessから逸脱する重大な裏切り行為として捉えられていることがわかる。
パードリックにしてみれば、目的のためなら手段を選ばぬ一人前の男という新たに獲得した自己像を披露したつもりだったが、肩透かしを食らった格好だ。
折れてはいけない柱が折れた。
パードリックが“悪人”へと転向し、イニシェリン島の無意識を支えていたdullnessとniceness(実は両者が同じひとつの美質の裏表であることが徐々に明らかにされる)の柱を失った世界は、それまで抑圧されていた暴力が一挙に噴出する危険極まりない事態に直面する。
だれかが責任を取らなければならない。
だれかが、この狂った世界の辻褄合わせを。
こうしてパードリックを凌ぐ島一番のdullness=nicenessの持ち主として知られているドミニクが、イニシェリン島の人柱となって死ぬハメになるのだ。
もしかすると、善良なシボーンが死神に手招きされた理由は、彼女が老婆の前で兄に嘘をついてしまったからなのかもしれない。
「(わたしが老婆に会うのを避けていただなんて)でたらめ言わないでよ!」
別段気にするほどでもない小さな嘘だが、ドミニクが信じるnicenessの基準からすればやはり見逃すべからざる罪だった。
つまり、nicenessを喪失しあちら側に行ってしまったパードリックと、あちら側から呼ばれたシボーンを救うために、ドミニクは対岸へ渡らねばならなかった。自らと同じ数少ないこちら側の人間として信頼を寄せていた二人からの“裏切り”。その代償を支払うために、ドミニクは死ななければならなかったのだ。


・象徴読解 、寄り添うロバと犬の動線


本作には無数の象徴が二重三重に張り巡らされている。なかでも見やすいのが動物に仮託された象徴性だろう。
即ち、
パードリック=ロバ=馬鹿、まぬけ
コルム=犬=貞淑、従順
という構図。
パードリックは自宅でロバを飼っており、日頃から格別の愛着を持って接している。シボーンにいくら注意されても、ロバを室内に入れることをやめようとしない。
『寂しい時はロバを中に入れる』
コルムに拒絶され茫然自失のていとなった彼は、ロバを室内に入れ、うつろな表情でからだを寄り添わせる。まるで失った大切な感情を取り戻そうとするかのように。そう、ロバは単なる家畜ではなく、パードリックの生き写しの姿なのだ。
とはいえ、われわれの主人公には実に気の毒な話だが、英語圏でロバ=donkeyといえば即ち愚か者のことを指し、それは聖書に登場するロバが徹頭徹尾うすのろとして描かれている事実に由来する。キリスト教に馴染みのないわれわれには不可解に感じられる発言、コルムの告解中に神父が口にする『しかし、神がロバの死を気にされるだろうか?』というセリフはこの点に発しているのだ。
『いいやつ』だが『まぬけ』で『退屈』。パードリックに対する周囲の一致した評価は、まさにロバに与えられた象徴性そのままだ。
では、一方のコルムはどうか?
彼がパードリックに見せる態度は従順なり貞淑といった観念からまるでかけ離れたものではないか?
実はそうではないのだ。
西洋絵画において、犬は夫に対する女性の貞淑の象徴として主に婚礼の図像の中に描き込まれてきた。その伝統は後発メディアたる映画にも引き継がれ、例えばポン・ジュノ監督の傑作『パラサイト 半地下の家族』(2019)では、傲慢なエリート夫が階段を登って自室に引き上げる場面で、三匹の子犬が尻尾を振り振りその後をついていく様子が映し出される。これは妻と娘と息子、残りの家族三人が夫の力によって支配されており、常日頃からその背中に従順につき従っていることを表現している。家庭内の権力関係を端的に表す演出だ。
また、トム・クルーズ演じる若手弁護士が陰謀に巻き込まれる映画『ザ・ファームー法律事務所ー』(1993)では、同様の象徴が少々捻った形で利用されている。トムには学生時代から交際している妻がおり、飼い犬をいたくかわいがっている。例によってこの犬は妻の夫に対する愛情=貞淑さの比喩になっている。陰謀の渦中で次第にふるまいが乱暴になっていくトムに愛想を尽かした妻が家を出ていく際、犬も一緒に連れていくのはそのためだ。そして、すべての問題が解決した後に訪れるラストシーン。男一人きりの寂しい部屋の扉が開かれると、妻の姿はなく、犬だけがトムの元へ駆け寄ってくる。やはり彼女は戻らなかったか·····トムが肩を落としていると、一呼吸置いた後に妻登場。両者抱き合い、ハッピーエンド。
観客の期待を焦らす上手い演出だが、あらかじめその象徴性を知って見れば、犬が戻った時点で二人の愛情が復活したことは充分に推察できるはずだ。
したがって、本作の象徴を解読しようとする際にもっとも重要なのは、犬の位置関係である。
コルムが飼っている犬はパードリックに対する親愛の情=貞淑さを表しているため、その動きに注目すれば、映画中で直接には語られない二人の真実の関係が明らかになるという仕掛けだ。結論を先出ししてしまえば、それは一般にホモセクシュアルと呼ばれている関係に近いものだろう。
そもそも、仲違いする以前には両者の関係はどうだったのか?犬がパードリックに当然のようになついており、パードリックの方も仲違いの渦中にあってすら犬の安否を気遣っていることから、きっとわれわれが想像する以上に、コルムはそれまでパードリックに対して従順な振舞いを見せてきたに違いない。あたかもダメ夫に甲斐甲斐しく付き添う年上の女房のように。
だからこそ、パードリックが男らしく(?)ドアを蹴破って入ってきた時、犬は一目散にその足下に駆け寄っていく。この演出は、あれほど頑なだったコルムが「前みたいにパブで一杯やらないか?外で待ってる」というパードリックの口説き文句にあっさりほだされる謎に対応している。「あらあなた、ようやく男らしく生まれ変わってくれたのね!素敵!」といったところだろう。通常であれば、『ザ・ファーム』の例と同様、犬が駆け寄った時点でコルムの愛情が復活することは約束されているはずだった。
だが、希望の可能性はまたしても嘘によって潰える。
コルムの態度が軟化したことで油断したパードリックは、ついうっかり自らの悪事をバラしてしまうのだ。
「こんなことならあの音大生を島から追い出す必要もなかった」
結局コルムは、かねてからの宣言通りに自分の指を切り落とす恐るべき計画を実行に移すことになるのだが、その描写がなんとも奮っている。
パードリックが去った後、事態の急変を察した犬が慌てて毛刈りバサミを口に咥え、飼い主が凶行に及ばないよう外へと引っ張り出す。おや、パードリックへの愛情はかろうじてまだ残っていたか!観客がわずかな期待を寄せた次の瞬間、コルムはそっと犬の頭を撫で、静かに毛刈りバサミを拾い上げるのだ。
殺伐とした印象をもたらす場面だが、犬の象徴性を知って見れば、愛と暴力がぎりぎりの駆け引きを繰り広げるコミカルな一幕であることがわかる。
まだある。
告解の最中、神父がコルムに「同性に性的欲望を抱くことはあるか?」と脈絡なく尋ねる場面は、二人の関係がホモセクシュアルに近いものとして周囲から眺められていることの傍証になっている。
さらに言えば、島で最も暴力的な人物である警官ピーダーが椅子に腰かけたまま裸で居眠りしており、いかにも不自然な体勢でペニスを晒しているショットのアップや、息子のドミニクに性的虐待を行っていることは、ホモセクシュアリティの仄めかしとしても読める。
もし仮に、彼があえて過剰に男性的なポーズを取ることで自らのセクシュアリティを隠蔽しようとしているのだとすれば、それはそのままコルムの不可解な振る舞いとパラレルになっているのではないだろうか?
パードリックと絶縁して以来、コルムがどう見ても文化的だとは思えないピーダーと親しく交わろうとする矛盾も、このように考えてみれば理解できる。
自身の真実のセクシュアリティを隠し通すため、うだつの上がらない夫との夫婦仲を改善するために、コルムは生き方を変える決意に至ったわけだ。


・怒りが怒りを来した先に待つもの、『スリー・ビルボード』からのテーマ反復


『怒りが怒りを来す』
マーティン・マクドナー監督の前作『スリー・ビルボード』(2017)中に登場する印象的なセリフだ。
これが旧約聖書からの引用である事実が示す通り、今作もまた、一見すると、果てしない暴力の連鎖を神や運命といった大きな力の流れの中に置き、「怒りが怒りを来」してゆくさまを観察する無慈悲で残酷なドラマであるかのように思える。
だが、そうした見方だけでは片手落ちというものだ。
『スリー・ビルボード』で直接に怒りを来たし合うミルドレッドとディクソンがまるきりあさっての方角を向いた正義心によって共闘し、同じ目的のために車に乗り込むラストシーン。滑稽だが胸が熱くなる展開のその先に待っているかもしれない可能性をこそ、本作は描こうとしているからだ。
怒りと暴力の極限的な高まりの果て。いっそ清々しいまでの喪失の経験を超えた先で、皮肉にも二人は、初めて一人と一人として向かい合うように見える。
それは友情の終わりではなく、なにかしら強固な人と人との結びつき、安易な名付けを拒む永続的な関係の始まりを告げるものなのだ。
「終わりではない。始まりだ」
「これでおあいこだな」というコルムの言葉に対してパードリックが口にするこのセリフもまた前作の反復になっているが、それぞれが意味する内容はかなり異なっている。
再び動物の象徴性に注目してみよう。
ロバは“夫”パードリックのまぬけさを、犬は“妻”コルムのパードリックに対する貞淑と愛情を表現しており、コルムは夫のまぬけさに心底嫌気が指し、別れを切り出したのだった。
コルムが絶縁の理由として真っ先に挙げるのが『おまえはこの間ロバのクソの話を二時間もした』である点は実に示唆的だ。パードリック曰く、実際には『ロバじゃな』く『馬の話』であったにも関わらず。 聡明な彼にしては珍しく、事実を事実として認識できないほどコルムは頭に血を上らせていた。よっぽど夫のまぬけさ(donkey)にクソ(shit)ムカっ腹を立てていたのだろう。
クライマックスにおいて、パードリックがかわいがっていたロバはコルムの指を誤飲してしまい、死に至る。これは直接には、ドミニクとの一件において失いかけたnicenessに続き、パードリックのdullnessが完全に消失した事態を表すわけだが、動物の象徴誘導にしたがって二人の関係をホモセクシュアルなものとして捉え、映画の全編を行き過ぎた夫婦喧嘩が描かれるラブコメディとして考えるなら、様相は違ってくる。
要するに、パードリックは愛のために自らのdullnessを克服すべく奮起したのではないだろうか?だからこそ、ロバの死は、コルムの指を呑み込むという風変わりな形で、妻の暴走を夫がまるごと受け入れたことの結果としてもたらされる。そう考えてみれば、ロバが死した後にパードリックがコルムの家に火をつけるタイミングにおいてなお、前もって妻に危険を告げ知らせ、犬を助け出そうとすることにも合点がいく。
『犬は外に出しておけ』
パードリックはそれまで妻の悩みの種だった自身の軟弱さを克服し、最後まで愛情を守り抜くことで、二人の関係を永続的なものに変えることに成功したわけだ。
映画の最後を飾るコルムのセリフが、一見さして重要にも思われない『犬を預かってくれてありがとう』である理由は、この言葉が本当は「わたしたちの愛情を守り抜いてくれてありがとう」ということを意味しているからなのだ。
あっぱれ!まことに感動的なラブストーリーではないか!


・人と人が関係を持つことの不思議


だが、それにしても、人と人が真に“関係を持つ”とはどういうことなのだろう?
優しさ(niceness)と音楽(music)とでは、愚かで動物的な生と人間のうちに潜む獣性を文化芸術によって乗り越えようとする生き方とでは、どちらが長持ちし、強く“残る”のか?
『18世紀に優しさで名を残した者がいるか?』
『モーツァルトの音楽は今でも残っている』
コルムは言う。
そんなことはない、とパードリック。
『母さんは優しかった。妹も優しい。俺はその優しさを一生忘れない』
人間が生きて死に、それぞれの生き方が束の間交錯することによって残されるなにかが、たしかにあるとして。
そのなにかとはいったいなんなのだろう?


これは、二人の男が対岸で向かい合い続けることによって、あちらとこちらがうっかり出会い、同じ岸辺で関係を持つまでの物語である。








本作の真実のテーマ曲(笑)

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