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オーロラに駆けるサムライ(11)サヨナラ日本

ジェームス和田重次郎

4年ぶりの日本へ

この年の8月、日本郵船のシアトル航路が初めて開かれた記念すべき年である。ジェームスはこのニュースに接して、日本への帰国を決めたのだろう。

ジェームスは幼い頃に、愛媛県にあった製紙会社に丁稚奉公していたことがある。そこは、いとこの戸田金兵衛が同様に働いていた。ジェームスが日本に帰国したときの記録を、金兵衛が書き残しており、日記(金兵衛覚書:きんべい・おぼえがき)にはこう書かれている。

「帰国は明治29年でした。3か月位滞在して再渡米した訳です」によって確認できる。更に、「直ぐに親子2人で東京並びに六大都市見物へ参りました。私も商用で大阪まで3人一緒で参りました」とある。金兵衛覚書

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短い日本滞在の時間を精一杯、母と一緒に過ごそうとしたジェームスの姿が目に浮かぶ。

明治27年から28年(1894~1895年)は、日本と清国の間で朝鮮半島をめぐって繰り広げられた日清戦争で日本が勝利し、伊藤博文と清の間で日清講和条約(下関条約)の調印が行われ朝鮮の独立が認められている。

更に、現在のジェームスの血縁者の家には、「余りに派手に札びらを切るので、とうとう刑事の尾行がついた」というエピソードが伝えられている。

しかし、ろくに読みかけさえできないジェームスが日本に住んでも将来は見えている。子供の時と変わらず丁稚奉公が関の山だ。アラスカには未開拓のフロンティア、そしてオーロラのような無限の夢がある。

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自分の生活はアラスカでなくてはならないとジェームス自身も感じていたのではないだろうか?

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<一時帰国したジェームス・和田重次郎 1896年 21歳 愛媛県松山市>

再びアラスカへ

ジェームスは、アメリカにいる親友フランクに自分自身が語ったことを思い出した。

「フランク、今振り返ると捕鯨船での日々はつらく、きつい学校だった。しかし、料理の腕は上がった。ノーウッド船長は仕事には厳しいが、話しているうちに大変よい男に映った。幸いなことに、バラエナ号には非常に充実した図書館があり、そこにあった本を全て読み、航海術、測量術などをみにつけたんだ。3年後、東海岸のニューベットフォードに寄港したときには十分な英語力を備えていたよ。船長には感謝してもしきれない」

やがて故郷を離れる日が来た。「心おきなく」というわけにはいかないが、一応の区切りはついた。これから新しく出発すればよいのだ。

これが彼の最後の日本での滞在となり、もう二度と日本の土を踏むことはなかった。

<つづく> 次回はサンフランシスコに戻ったかれに思いもよらぬ話が持ちかけられる。

<コラム:和田重次郎の故郷愛媛県松山市日乃出町>

重次郎が4才から15才位まで母セツと一緒に住んでいた松山市日の出町の句碑公園内に、和田重次郎像がある。

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松山市日の出町の石手川沿いにある「和田重次郎像」(左)、「和田重次郎顕彰碑」(中央)、「新田次郎文学碑」(右)。新田次郎の文学碑は、和田重次郎の半生を描いた小説「犬橇使いの神様」を記念するもの。此処には松山が生んだ俳人正岡子規の石碑もある。

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和田重次郎(1875-1937)は現在の西条市小松町の生まれ、幼少期を母の実家があった松山市日の出町で過ごした。犬橇を使った探検家、アラスカ開拓の先駆者であった。

幼い重次郎が母に手を引かれて、石手川の新立橋を渡って素鵞村(そがむら)に移住してきたという目撃者の証言がある。また、アラスカから一時帰国した時もこのこんぴらさんの前を通り新立橋を渡り我が家に辿りついた。

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ジェームス・和田重次郎にはヘレン・和田・シルベイラという一人娘がいた。現在彼女が残した子孫は100名以上となる。写真は 玄孫のマイケル・オヘア、とパティ―・オヘア(2017年)




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