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来年のこともわからないまま、ロンドンで踊る

来年どこに住んでいるのか、まだわからない。

夫は今年大学院へ通っているが、来年は会社に戻る。このままロンドン勤務となるか、あるいはアメリカで働く可能性もあるらしい。

「確率は五分五分だ」

と、夫はいう。

ここロンドンは移民や外国人が多いところで、人の出入りも激しいらしい。

私たちのように長くて数年程度の在留者もいれば、国を出て半永久的に住み着く人もいる。
引っ越してくる理由も様々で、仕事を求めてくる人、留学生、あるいは単にロンドンが好きだから、と答えた人もいた。

また難民として、その意思に関わらずこの街に住む人もいる。

私のダンス教室でのパートナーであるナターリャは、ウクライナ人だ。
夏のバカンスをドバイで過ごしていた時に開戦を知ったという彼女は、祖国ではかなり裕福な部類であったらしい。

ネイルアートを欠かさず、休みのたびに旅行へ行く彼女は、難民と聞いて思い浮かぶイメージとはかけ離れている。
ロンドンでは珍しい築浅のマンションに住み、二人の娘を私立校に通わせる暮らしぶりは、むしろイギリスの平均的な家庭よりもかなり余裕があるようにみえる。

やや好奇心過剰気味の私は、どうしても彼女のことを色々と知りたくなり、お茶に誘った。

「飲んだことないけど、日本人と一緒に飲んでるとかっこいいと思われるかも」

と、ちょっと気取って抹茶ラテを飲みながら、ナターリャは私の質問に対し雄弁に答えてくれた。

エネルギッシュな語り口とは裏腹にその内容は、毎日ミサイルが飛んでくる故国に残っている兄や祖父に会うために一人帰国したとか、子供を遊ばせていた公園が爆撃で消えたとか、穏やかな日常とはかけ離れた話ばかりだ。

話の途中、彼女は唐突に隣の日本料理店から寿司を買ってきて、カフェのテラス席で私に勧めた。

「日本人であるあなたの基準で美味しいかどうか教えて」

「サーモンは美味しいけど、米は硬すぎる」

そう伝えると、そうかあ、という手応えのない反応を見せる。
器用な箸使いで寿司をつまみながら、彼女の夫であるレオが密かに出国した際の話もしてくれた。

戦火のウクライナを脱出するため、ポーランド国境を目指すレオが雇った車のドライバーは、

「無事に辿り着ける可能性は50:50だ」

と言ったという。

小学校への送迎をするレオをよく見かけるから(私たちの娘は同じ学校に通っている)、そのドライバーは夜の闇に沈む森を抜け、彼を無事国境まで送り届けることに成功したらしい。

戦火をくぐり抜けることができるか、という命運をかけた試みは、私からひどく遠い。
心を寄せることも難しいほどの、その隔たりに言葉は見つからない。

だが、語弊をおそれずに言えば、誰もが常に生きるか死ぬか、五分五分の瀬戸際にいるのではないだろうか。

命というものの危うさと、生々流転の人の世と。

あるいは仏教的な感覚なのかもしれないが、帰りのバスでそんなことを考えていた。

それでもなお、隣人の哀しみはやるかたない虚しさとして私に伝わる。

だが、私たちにはまだ幼い娘がいる。
また何の因果か、年末にはダンスの舞台に立つ予定もある。
無常感に浸っているひまはないのだ。

ああ、ブッダは男だから出家なんかできたのではないだろうか。女には、やるべきことが多すぎてそんな隙はない。

食事を作ろう。洗濯をしよう。踊りを練習し、本を読み、英語を学び、雨のなか学校の送迎もしなくては。

哀しみの募る世界で、手に余る悲劇に立ち尽くしても、私たちはそこに留まるわけにはいかない。

見つからない言葉を微笑みで補いながら、明日もまたここで暮らすのだ。

見た目も故郷もかけ離れた者同士が手を取り合って踊る、風変わりなこの街で。


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