【映画評】「食屍鬼ダーマー」(1993) 「空っぽであること」の悲哀

「食屍鬼ダーマー」(デヴィッド・R・ボウエン、1993)

評価:☆☆☆☆☆

 カナザワ映画祭2022で鑑賞。かつて、「ジェフリー・ダーマー ミルウォーキー連続虐殺食人鬼」としてビデオ発売されていた作品だ。
 実在の連続殺人鬼ジェフリー・ダーマーの評伝映画である。殺しを日課にするダーマーの生活が淡々と描かれる。ところどころ、「警察がこのとき俺を捕まえていれば、のちの犠牲者の命は助かっただろう」とか「軽々しく他人を信用する人々には、いつも驚かされる」とかといったダーマーのモノローグが挟まれ、一応、殺人者への警戒を促す映画としての枠をはみ出さないよう作られている。
 だが、映画はあくまでダーマーの一人称である。ダーマーがどのように世界を眺めていたか、ダーマーにとって社会とは何だったのか、観客に追体験させる映画と言えるだろう。
 ヒッチハイクしていた青年を拾い、一方的に青年を「所有」した気になり、他者との一体感に浸っていても、そんな幻想は、青年が「彼女との約束があるから帰らなきゃ」と一言いえば、すぐ崩れ去るものでしかない。パニックに陥ったダーマーは、思わず青年を殺害、解体。これが最初の殺人だ。相手が黙っている間だけ浸ることのできる、脆い幻想の世界だけが、ダーマーにとっては他者と繋がれる場所である。
 泥酔して無意識に犯した2度目の殺人を経て、3度目あたりから、ダーマーの殺人は淡々とした儀式のようになっていく。「150ドルで写真のモデルをやらない?」とバーで青年に声をかけ、自宅に連れ込み、睡眠薬を飲ませ、殺し、解体する。祖母の家を追い出され、アパートに一人暮らしするようになってからは、ダーマーにとっての殺人はもはや、滑稽なほどミニマルで、どこまでも退屈な、生活サイクルの一部でしかなくなってしまう。
 なぜ、そんなことをするのだろう。
 生育環境が悪かったから? 社会が性的マイノリティに不寛容だったから? ドラッグのように、殺人に依存していたから?
 どれもそれなりにもっともらしく思えるが、やはり、ダーマーが犯した「退屈な連続殺人」とは微妙に釣り合わない。「理由なき殺人」という出来事の周りを、もっともらしい言葉がぐるぐると取り囲み、核心に到達できないまま、断片的に「わかりそう」な説明を与えるだけである。
 例えば、一番理解しやすいのは、ダーマーが孤独だったということだ。社会と繋がれない孤独感を抱えているときに、やっと見つけたと思えた「友達」が、彼女との約束などという平凡な理由であっさり離れていこうとしたならば、殺したくなるほど腹立たしく感じるのも無理はない。だからといって本当に殺す者はほとんどいないだろうが、少なくとも断片的な感情としては、理解不能というほどでもない。殺したからには隠さなければならないし、隠すためには解体しなければならない。死体と化した相手を「所有」する性的な多幸感も、まあ、SM的で凡庸といえば凡庸だ。また、たかがゲイというだけで異常者扱いしてくる社会への憤りも正当だし、憤りゆえにかえって性的興奮を掻き立てられるのも健全だ。断片の一つ一つは、けして、完全に理解不能というわけではないのである。
 しかし、それらの断片をつなげる一本の糸は、どうしても、上手な説明を寄せ付けない。どれだけ説明を並べても、ダーマーがここまでやらなければならなかった理由を納得させてはくれない。ダーマーを連続殺人鬼たらしめる「中心」のピースは、空っぽなのだ。
 常識的な倫理観に照らせば、2件目を除いて、ダーマーの犯罪に情状酌量の余地は乏しい。せいぜい、生育歴と社会的孤立というキーワードを挙げられるくらいだろう。社会が同情しやすい物語は何も用意されていない。
 だが、それにも関わらず、映画は真実に触れている。ダーマーが、ある種の「可哀想な人物」だったという真実だ。
 どのような理路整然とした「物語」からも拒まれ、殺すことでしか他者と繋がれない人生――それは、徹底して「空っぽ」であるからこそ、逆説的に、悲哀に満ちているのである。この作品は、むき出しの「異物」として社会に放り出されたモンスターの悲哀を、観客に追体験させる傑作と言えるだろう。
 そして、この作品はまた、「空っぽであること」が、空っぽゆえにこそ、社会を共振させるメカニズムをも垣間見せてくれるかもしれない。

 なお、同じく「あまりにも空っぽゆえに、可哀想」な連続殺人鬼を描いた名作映画に、「ハウス・ジャック・ビルト」がある。こちらも必見。

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