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炭酸珈琲、意外と旨いってよ

N君、Y君、ごめん。
ずっと今まで黙ってた。
35年間も。

嘘つきとなじってくれてえぇで。
もう絶交や!ゆわれてもしゃあない。
ホンマごめん。
ずっと言えんかってん。

珈琲ではなく、炭珈琲だったこと。

「なぁ、炭珈琲て知っとぉ?」
「何それ、気持ち悪いな」すぐさまN君が返す。
人物は優しいがツッコミは厳しい、まさに関西人を地で行くN君だ。

じっとしていても汗が滲む真夏の盛り、僕らはまだ高校2年生だった。
その日僕は、町で見かけた炭珈琲を友人に力説していたのだ。

僕はその前日、家の近所の喫茶店に炭珈琲の幟を見つけたのだった。
心地よい風に揺れる茶色の幟に、誰の目にも鮮やかな黄色で「炭珈琲あります」と書かれていた。
おぉ、何それ、炭珈琲、新しい、そう来たか!
僕の頭の中にはまるで覚えたての言語のように単語が次々と浮かんだ。

「そやろ? でもあの幟は自信満々やった」僕は言葉尻に力を込めた。
「シュワシュワコーヒー…やっぱりキショいって」N君は歯に衣着せない。
「でもちょっと試してみたない?」
「なぁ…それ炭珈琲なんちゃうん」Y君が冷静に口を開く。
「何ゆうとん、炭珈琲やったら俺も言わへんわ」

そう言いながらも不安になり、その日の帰り、再び確認した。
前日と打って変わって無風のなか、幟は受験に失敗した学生のようにうなだれていた。
よれて少し見にくいが、うん、炭珈琲で間違いない。

「もっかい見たけどやっぱりちゃんと炭珈琲やったで」
「ふーん、ほなそうなんやろな」明らかに興味のないN君。
なんでやねん、こんなスクープを鼻であしらうとは!
「炭珈琲は飲みたいけど炭珈琲はいらんわ」とY君も。
まったくいつの間にそんな保守的な頑固ジジイになったのだ。

その日の帰り、いつ飲みに来ようかとわくわくしながら店の前を通る。
視界に茶色の幟が入った。

――う、嘘やん。(嘘じゃない)
――え、誰が幟替えたん。(誰も替えてない)
――昨日までの幟はどこ行ったん。(だからこれがそれ)

染め抜かれた黄色の文字はたしかに「炭珈琲」と読めた。

「夏休み入ったら、その店に飲みに行ってみる?」N君が言う。
「あ、あぁ…」(キショいんやなかったん)
「幟まで作って宣伝しとんやったら旨いんやろ」Y君も言う。
「へ、へぇ…」(炭珈琲はいらんのやなかったん)
「いつにする?」N君とY君の声がぴたりと揃う。
「か、カフェインて未成年にはあんま、あ、あんまようないらしいで」

高校を卒業してからも、2人とは何度となく呑む仲だ。
2人が「た…」とか「す…」と言うたびビクンとしてきた。
もう逃げられないと観念したこともあったが、自白できなかった。

今や、炭珈琲をメニューに加えている店もある時代。
時は確実に進んでいるのだ。
今さら「炭珈琲ちごたわ、ハハハ」と言えば混乱を来すし、かといって「ほらな、炭珈琲キター!」と言うほど厚かましくもない。

35年間黙っていたことを反省しよう。
珈琲を作って飲んで懺悔しよう。

ネスレのインスタントをトップバリュの炭酸水で溶く。
35年前、幟に書かれていた(だから書かれてな…)炭珈琲が目の前に。

苦っ! まずっ!
…いや、あれ? ん? 旨いんちゃう? 旨いんちゃうのこれ!

N君、Y君、炭珈琲、意外と旨いってよ。

(2023/7/5記)

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