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見守る側にはそれしかできない

ベランダの緑が元気だ。

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お、もしかしてミニトマトに花芽?

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ついについに!
これがいわゆる第一花房というやつか。

野菜は植物、そして生き物。
あまりに栄養を与えすぎると、株が安心しきって自己満足に陥り、種を残そうとしなくなるのだとか。
やや飢えた状態になると花をつけてタネを生み出そうとするらしく、ここ数日は水さえも控えめにしてきた。
肥料は有機なので、化学肥料みたいに与えたらすぐ効果が出るというものではないから、ジタバタせずドーンと構えて見守ってきた。
そしてついに飢えを感じたか、花を咲かせてみることにしたようだ。

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前の職場では無農薬のお茶に関わった。
全国各地で講演をした際には、無農薬で厳しく育てるからお茶の木が自分でがんばろうとする、だから香り豊かなお茶になる、と話したものだ。
まさにそこで話した〈自然〉が、今目の前の小さなベランダに展がる。

ヨーロッパの〈自然〉には人間が含まれていないという。
宗教観的に、あくまで人間は自然から独立した存在で、自然は人間が克服し征服していく対象でさえある。

しかし東アジア、とりわけ日本において〈自然〉には人間も含まれる。
万物が本来あるべき姿であることを〈自然(じねん)〉と呼んでいたのだ。
人間がよけいな手を加えない、それが〈自然〉。

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子育ての柱に〈自立〉を置いてきた。
えらそうに言うほどのこともなく、一人で生きていけるようになってね、ということだ。

勉強も運動も、そして芸術も、人の幅を広げ、人生を豊かにしてくれる。
でもいちばん大切なのは、岐路に立った時(ちっぽけな岐路であっても)、自分なりの判断ができること、それに尽きると思っている。
人生に双六のような〈上がり〉がない以上、終わりの日まで常に選択と修正を積み上げていくしかない。
いや、結局のところ、それが人生だといえる。

自分で下した判断は、たとえ間違っていても人のせいにはできない。
そこから軌道修正し、立ち直るのもまた本人。
いつでも周りが判断すると、親が決めた、先生が決めたといって誤りを認めない人間になるのは火を見るより明らかだ。

三人の子供たちはちゃんと選択できるようになっただろうか。

過保護に育ててロクなことがないのは、人間もミニトマトも同じ。
みんな〈自然〉の一員だ。

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おぉぉぉ! てっぺんにもう一つ、花芽発見! 第二花房!

がんばれ、がんばれ、と念を送る。
見守る側にはそれしかできない。

(2021/6/26記)

サポートなどいただけるとは思っていませんが、万一したくてたまらなくなった場合は遠慮なさらずぜひどうぞ!