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数字を嫌う必然

 物事を数値化すると、それを「抽象化」という。「赤色」というと何を思う浮かべるだろうか。夕日の色か、紅葉か、虹の一番外側の色か。または厳密にいうと赤ではない、赤飯のような色もある意味赤に入ってしまう。数字を用いない世界とは、各々の感覚に依存し、ばらついている。

しかし「610nm~750nmの光」と言ってしまえば認識のずれなど起こるまい。赤なんて言うと不便だから、この言い方に統一してしまえばいい。○○nmの光と言ってしまえば誰しもがすれ違わずに会話ができる。

これを抽象化という。抽象どころか定義が細かくなってむしろ具体的になったように思うが、抽象化である。

「具体」は実態を具す(=ともなう)と書くが、「抽象」はイメージ(象)を抽く(ひく)と書く。つまり数字は実態を伴わない。目に見えるもの、触れられるもの、感覚世界をすべて置いてけぼりにして、無味無臭の情報だけがただそこに残る。

何の面白みのない地方都市を包む圧巻の夕暮れも、日差しに輝く枯れを帯びた欅の紅葉も、私と毎日布団を共にする大きな黄熊の愛くるしいつんつるてんの衣服も、nmからではなにか実感が湧いてこない。

別にそれらに含まれる歴史や思いを想像しましょう、という小学校の国語の綺麗事を言いたいのではない。ただ、五感の何かが生きる感覚、それこそが人間が肉体を以って生きている真髄なのに、それをそぎ落としたものとして残る数字。これこそが抽象化。

妙に壮大な話になっているが、話の核はスタエフになる。本日私のフォわー数は444人。記念すべき数字をたたき出した。そうではなく、右も左も分からない状態はだいぶ前に終わり、今でも続々と入ってきている可愛らしい新規たちから見れば中堅感が出てきていることだろう。

同時期に始めたユーザーたちには明暗が分かれ始めており、収益化に成功したり、すでにここから去っていたり。私もフォロワー数や再生数を教えるたびに尊敬を伴う驚きを受けるようになったり、自分の数字に目が眩む。極力、今来てくれているひと、アイコンの向こうの人格を見ているつもりではあるが。

収益化連中にもsppまでの道のりが終盤だと思ってるユーザーがいることだろう。spp承認の報せが増え始め、焦りを感じボロを出している人が多い。あるユーザーに言われた。フォロワーを人ではなく数字として見ている配信者は面白くない。

これに尽きる。

なんのためにスタエフがランキングを設けず、フォロワー数を隠しているか。数字に踊らされ戦場となった他のsnsを見てきたからである。本当に死者も出て、戦場が比喩ではなくなった。おかげで口コミが命のムラ社会となってしまったが、フォロワーが多いこと、すなわち人から多く支持を集めることの意味を改めて問い直さねば。

カネにも、フォロワーにも数字に踊らされない。分かり切ったことだが、中堅はこれがよく揺らぐんだな。スタエフの基本は長くいること。それを前に無駄な消耗はしていられない。

それと、タイトルで数字をdisっているが私だってある程度数字が果たした役割を買ってはいる。数字と科学が発達しなかったらスタエフは始められず、私が文を書く場も得られなかった。だがしかし

世の中には数字が美しいと賛辞している人たちが多くいることだろう。それは違う。数字ではなく、この世界が美しいのだ。世界が美しいから、弾き出される数字が美しい。これに気が付かない豚どもに中指を立てて差し上げよう。数字はただただ無味無臭。

カネが手段に徹してくれないと使い手の人間が破滅していくように、数字も手段に徹してくれないと日々はかすれていく。数字を目的として追い求めることになんの意味もない。改めてその事実を確認して。また具体の世界に戻る。


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