好きな曲は好き~世界が終わる夜に/チャットモンチー~
はじめに
今日はチャットモンチーの『世界が終わる夜に』という曲についてお話しします。
この曲は私が中学生の頃に初めて聞いた曲で、当時はロックだけどポップな印象をチャットモンチーに持っていたので、この曲が際立っていて、印象に残っています。
世界の終わりに気付くか
電車を思わせるスピード感のあるMVとは対象に、すこし粗い雰囲気のギターから始まります。
この曲はたとえ話から始まります。
孤独感を感じる夜をどうにかやり過ごしても、朝は来てしまって、多くの人がなんだかんだで一日を始めようとするでしょう。
そして、何か出来事が起こった途端、自分にはどうにもできないことだとその時だけ神様なんかを信じてみようとするでしょう。
そんな多くの人々の“仕方のない普通”を揶揄っている歌詞だなあと思っていました。
中学生の時からずっと『しまった! もう世界は終わっていた』とここで言っている意味がよく分かりませんでした。
なぜ、仕方のない普通があることに気付いて、それを世界の終わりだと判断してしまうのか。
最近はなんとなく言葉にすることができそうです。
作詞したあっこさんは、そんな“仕方のない普通”が普通になることで、
世界が終わりに向かっている事にも気づけなくなってしまう、と言いたかったのではないでしょうか。
毎日同じことの繰り返しで、なんとか惰性で生きている、なんて日常を送っていると、
社会への変化へのアンテナも鈍感になってきて、
世界の終わりなんて大きな出来事も、気付いたときにはもう遅い、なんてことがあるんじゃないか、と危機感を持っているのではないかと感じました。
そのためやはり現代社会を、多くの人々の普通への警鐘のように思えました。
特に、曲調や歌い方もぽつりぽつりとつぶやくようで、その静かさが逆に注意を引き付けていると感じました。
ここは不透明な未来への不安を持ちながら生きていても、
その不安を直視せず、毎日を適当に、テキトーにやり過ごすような人々を指しているように感じました。
私が神様だったら?
サビです。
中学生の時、私は「この人(あっこさん)にはきっと理想の世界があって、現実は理想通りじゃなかったことに気付いたんだな」と思っていました。
確かに今考えても、サビ前までで“仕方のない普通”を揶揄しているからこそ、そうではない社会を強く望んでいたのかな、とは思います。
しかし、最近は少し違うことを考え、感じていました。
なぜ理想の世界をサビに書かなかったのでしょうか。
『こんな世界は作らなかった』ではなく、なぜ、例えば「私が神様だったら〇〇な世界を作ったのに」と書かなかったのでしょうか。
先ほど書いた“鈍感”の対義語である敏感を使っても良いと思います。
「私が神様だったらもっと敏感な世界を作ったのに」とかです。
その理由は、この曲は世界の改善ではなく、単純な世界への失望・絶望を示したかったからではないでしょうか。
中学生の私が感じたような「現実は理想通りではないことに気付いた」だけではなく、「失望・絶望した」です。
わざと理想の世界を書くのではなく、ただ感嘆、「私だったらそんなことしなかったのに」という感想です。
この、ただの感想があることによって、
「この曲の『私』も他の人と同じように世界への当事者意識があんまりないな」、と感じていました。
結局、一番の歌詞に出てきた『みんな』と『私』も同じである。
そういうことなのではと考えていました。
…考えすぎでしょうか。
ここの歌詞は何を表現しているのでしょうか。
そのまま解釈すると、
「“絶対に上手くいかない“ってほとんどの人が判断するであろう環境で、“災い”が生じる。
でも、それを“上手くいかない”って思っている人は誰も対処しようとしなかった」
ということでしょうか。
これは社会に生きていると、何度も遭遇する出来事の抽象化ではないでしょうか。
具体的なことは書けなくても、似たような状況は想像に容易いです。
ここもまた“仕方のない普通”の批評でしょうか。
中学生の時、ここの歌詞を「幸せを感じているときに、次の不幸に身構えてしまう」ことの表現だと考えていました。
当時の私はなんとなくその現象を悟っていて、嬉しいことがあると「あ、次は悲しいことがあるんだな」って絶望して、
でも悲しいことがあっても、「次は嬉しいことがある!」なんてポジティブなことは考えられない、ということを実感していました。
これは今でもそうです。
『やさしい風』に一瞬油断してすぐに『後悔』が群集のように襲い掛かってくる。
私の悲しい思考回路を表現してくれている歌詞だと思っています。
中学生の頃、この歌詞に共感していたので、
「ああ私は今心に穴が開いている状態なんだ」と考えていました。
でも、その穴をふさぐ方法は約10年経った今もわかりません。
命の砂時計は必要か
二番のサビです。
ここでは悪魔になっています。
では悪魔の定義とは何でしょうか。
Wikipediaによると『悪魔は、仏教では仏道を邪魔する邪神を意味することもある。キリスト教ではサタンを指し、神を冒涜し試みる、人間を誘惑する存在とされる。』だそうです。
簡単に言うと、人間を誘惑する存在。
私はずっとここに共感できませんでした。
なぜならば、世界は悪魔が作ることができると考えていなかったからです。
しかし、最近は世界が善と悪で成り立っているのであれば、
其々の象徴である神と悪魔が世界を作っていると考えてもおかしくはないのだということに気付きました。
そのため、この曲を通して、「私が世界を作れる力があったとしても~」と言っていると考えました。
『命の砂時計』とは何でしょうか。
神様を信じるとすれば、人には初めから生きられる時間が定められているなんて考え方があります。
私には理解できませんが、そう考えると楽なのかもしれません。
そのため、この砂時計はその神様が決めたそれぞれの人の寿命であり、
それを信じていたけれど、あまりにもふいに人が亡くなることがあるから、
そんな砂時計の中に砂なんか入ってなかったんじゃないの?
って言いたかったのかなと考えました。
でも、私はそんな砂時計あってほしくないと思います。
全て自分が決めるとしんどいけれど、誰かに決められているなんて思うのは納得いかないような気がします。
楽なのかもしれませんが。
でもこの感情を上手く言葉にできていないような気がします。
…伝わっていますかね。
欠如感
Cメロです。
中学生の頃、自分を空っぽだと感じるのはなぜなのかよくわかりませんでした。
一生懸命学校に通って、勉強をして、社会に出て、きっと学びも経験も私よりもしている大人なのに、どうして空っぽだと感じるのか、理解できませんでした。
今ではなんとなくその虚無感がわかるような気がします。
勉強して経験して学んできたからこそ、自分に不足しているものがどんどんわかってくるのでしょうか。
しかも、その欠如感は自分を見つめれば見つめるほど大きく感じて、結局何位も持っていない、意味のない存在のように感じてしまう。
それでも生きようと必死にどうにかもがいてみる。
その様子が痛いほど伝わってきました。
愛は無償か有償か
最後の歌詞です。
私は最近『愛という名のお守りは 結局からっぽだったんだ』という歌詞に共感できました。
それは両親の存在です。
私は両親が私に期待していることが大きくて、重くて負担で、
自分が何のために生きているのか、
もしかして両親の願いを叶え、両親の思うように生きるために存在しているのかと考えてしまうことが多かったです。
私がどんなに過干渉に拒絶してみようとしても、「大切だから、大事だから心配するんだ」を愛を盾にされてしまい、どうしたらよいかわからなくなってしまっていました。
そんな時に、このこれまで信じていた無償の愛は有償だったのではないか、と思うようになりました。
少し悲しい共感の仕方かもしれませんが、信じていた事が真逆だったことに気付く時の絶望感は大きく、それこそ私の存在が虚無のように感じてしまいます。
こんな私の最近にとても寄り添ってくれる歌詞でした。
さいごに
ここまで読んでくださってありがとうございました。
皆さんはこの曲をどうお考えですか?
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