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心霊現象再現ドラマ・『霊のうごめく家』2

 1970年代ののオカルト番組と欧米のホラー映画
 

 1961年生まれの小中千昭と、1960年生まれの鶴田法男。それに1959年生まれの高橋洋、1955年生まれの黒沢清。彼等はそれぞれ、70年代に起きたオカルトブームから多大な影響を受けて育った。

 オリジナルビデオ版『ほんとにあった怖い話』は朝日ソノラマから刊行されていた、同名の女性向けの漫画雑誌を原作とする。朝日ソノラマ『ほんとにあった怖い話』のおもな読者層は若年層の女性であったが、女性読者を主体としたホラー漫画は、60年代後半には少女漫画の人気ジャンルとなっていた(※6)。また70年代初頭から民放テレビで放送されていたオカルト番組は、ブームが本格化する1973年以降、急速に放送回数を増やしていく(※7)。
 
 とくに1973年1月13日『火曜スペシャル』(日本テレビ)で放送された「沖縄のひめゆりの塔を写した16ミリ・フィルムに映っていた亡霊」は、小中千昭と高橋洋にとって強烈な恐怖を感じさせ、欧米のホラー映画と並んで両者の作品に大きく貢献することになった(※8)。オカルトブーム以降、主に日本テレビは『お昼のワイドショー』から派生した「心霊現象再現ドラマ」である『あなたの知らない世界』や超能力実験の生放送など、視聴者参加型のオカルト番組を90年代まで大量に放送しつづける。
 
 
 90年代のJホラーの作り手たちがしばしば「実話性」に拘っていた理由に、彼等が子ども時代に体験したオカルトブーム、その最中に接していた欧米のホラー映画や、オカルト番組の存在がある。

 1968年の『俺たちに明日はない』(監督:アーサー・ペン)に始まるアメリカン・ニューシネマは、それまでのアメリカ映画のモードを刷新、ベビーブーマー世代のサブカルチャーを反映したリアリズム志向の作劇と演出を、ジャンル全般に浸透させていく転換点にあった。また、当時の欧米や日本でヒットした欧米のホラー映画には、ストーリーは「事実に基づいている」と宣伝された作品が目立ち、同時にそうだと観客や視聴者に錯覚させるだけの完成度も備えていた。

 1974年に日本公開された『エクソシスト』(1973年)では、アメリカ国内で実際に起きた悪魔祓い事件からインスピレーションを受けた、そう各媒体の宣伝では強調していた(※9)。同じ1974年に日本公開された『ヘルハウス』(1973年)では、ストーリーの進行に合わせて日時の経過を字幕で示し、あたかも実話の再現と錯覚させる演出を採用していた(リチャード・マシスンの原作は完全な創作である)。恐怖の対象は幽霊ではなく人間であっても、『悪魔のいけにえ』(1974年。日本公開は1975年)冒頭では「1973年8月18日」にテキサス州で起きた猟奇殺人事件の「再現映像」であることを、字幕とナレーションが語る。もちろん嘘だが、『悪魔のいけにえ』は『エクソシスト』と同じニューシネマの渦中に製作された作品であるだけに、それまでの「怪奇映画」から飛躍した「ドキュメンタリータッチ」のリアリズムと、「実話性」を感じさせるだけのリアリティがあった。

 『エクソシスト』と『悪魔のいけにえ』が実話の再現ではないか。そう感じさせたのは作品の完成度ばかりではなく、事実関係を確認する情報量が不足していたことも作用していたが、本カテゴリでは触れない。
 
 とりわけトビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』は、黒沢清と篠崎誠(1963年生まれ)、小中千昭と高橋洋にとって強烈な古典であり続けている。重要なのは彼らが『悪魔のいけにえ』に代表されるホラー映画や「恐怖映像」と最初に遭遇したメディアが、劇場ではなくテレビCMやバラエティ番組での宣伝であったことだ。

 『エクソシスト』公開を2日後に控えた、1974年7月12日の21時。東京12チャンネルは『金曜スペシャル』枠において『恐怖!悪霊と怪奇の世界・あなたは一時間正視できるか』を放送した。『エクソシスト』をふくむホラー映画の宣伝番組である。この番組は『エクソシスト』だけではなく、公開を控えた『ヘルハウス』『悪魔のいけにえ』などのホラー映画から、配給会社がセールスポイントと判断した映画のシーンを、抜粋して放送した。黒沢清と篠崎誠の対談をまとめた『恐怖の映画史』では、『悪魔のいけにえ』との最初の出会いを振り返った証言が収録されている。
 
 黒沢清は「封切りで観たんじゃないんです。文芸坐で観たのをはっきり憶えてるんですね」と断ったうえで、「…ただ、なんかね、テレビかなんかで予告編のようなものを、やっていたのは記憶していたんです。…」と、曖昧な記憶を語り出す。それを受けた篠崎誠は「恐怖映画特集とか、よく金曜スペシャルなんかで、やってましたね」と返答。おそらく黒沢清が観たのは、『恐怖!悪霊と怪奇の世界・あなたは一時間正視できるか』であろう。その篠崎誠も、『悪魔のいけにえ』を最初に観たのは劇場ではない。「正味時間ちょっとに短縮されたものを。「2時のロードショー」とか、そんなようなので。…」であった(※10)。外国映画の日本語版制作を手掛けるザック・プロモーションの記録によれば、確かに『悪魔のいけにえ』は1979年7月24日、東京12チャンネルの『火曜映画劇場』で放映されていた(※11)。
 
 高橋洋は著作『映画の魔』のなかで、少年時代に観たテレビ番組の恐怖を執拗に語っている。『怪奇大作戦』『アウターリミッツ』といった素性の明らかなテレビドラマだけではない。偶然に観てしまった『シェラ・デ・コブレの幽霊』のテレビ放映を予告するCMの恐怖は、その映像の正体が長きにわたって不明であったために高橋を呪縛しつづけ、『女優霊』のプロットに結実したのはファンのあいだで広く知られている(※12)。黒沢清が生まれて初めて恐怖を感じた映像も、映画館で観たホラー映画ではない。日本テレビが放送したテレビドラマ『恐怖のミイラ』(1961年7月4日~10月8日)であった(※13)。
 
 小中千昭、鶴田法男、高橋洋、黒沢清、篠崎誠。90年代の日本映画界にあって、ホラー映画の制作と批評に熱心であった彼等の発言を辿っていくと、映画館ではなくテレビで視聴した映像から強烈な印象を受けた体験を、曖昧な記憶を辿りつつ繰り返し語っているのが目に付く。
 
 日本で最初のテレビ放送が開始されたのは、NHKと日本テレビが開局した1953年である。第二次大戦を体験した大島渚や深作欣二、団塊世代にあたる北野武や崔洋一。彼等とJホラーの作り手たちを決定的に分かつ要因のひとつは、幼少期からテレビが日常生活に存在していた点である。映画館で観る行為と同じほどに、Jホラーの作り手たちにとってテレビ視聴が重要な映像体験であったことは、それぞれの発言のみならず、デビュー後の脚本や演出の細部に反映され、最終的に『リング』第一作の恐怖は成立しえた。

 ジャーナリズムの文脈でしばしば語られるテレビ観とは異なり、テレビはエンターテインメント産業として発展したからこそ、映像メディアのヒエラルキーを映画からテレビへと転換させた(※14)。戦後のテレビは社会的出来事を伝える報道番組と、他のジャンル(テレビドラマ。バラエティ番組。スポーツ中継。CM。テレビ放映される映画等)を一緒くたにして、プライベートな生活空間にむけて放送していた。『悪魔のいけにえ』が、欧米やヨーロッパでは上映やビデオ発売の是非をめぐって政治問題にまで発展した状況とは、驚くほど対照的な生活環境である。
 
 テレビを通じて『悪魔のいけにえ』などの欧米のホラー映画やその断片を視聴する経験と、劇場で完結する映画を観る体験は、根本的には異なっている。同時代のオカルト番組の「ひめゆりの塔の亡霊」、『シェラ・デ・コブレの幽霊』のCMと同じメディアである、プライベートな生活空間に置かれたテレビで視聴したからこそ、フェイクであるオカルト番組の「心霊」とホラー映画が地続きであるかのような認識を与えた痕跡が、小中千昭、高橋洋、鶴田法男だけではなく、黒沢清や篠崎誠の発言からは見受けられる。
さらにオカルトブームは、少年漫画『うしろの百太郎』(※15)や、オカルト番組とも深く関わった中岡俊哉が編集する心霊写真集など、異なるメディア媒体を横断。ポップカルチャーのジャンルとしての、オカルトへの認識を共有させるメディア・フレームを形成していく。それが彼等に「リアルな」ホラー映画への志向を強化させた(※16)。
 
 一方、既にエンターテインメント産業としては凋落していた日本映画業界は、欧米の「リアルなホラー映画」の動向に対応することが出来なかった。「実話性」はむしろ、東映実録路線において積極的に活かされることになるが、ここでも「実録」なる呼称は疑わしいものであった(※17)。その後、オカルトブームが収束して以降の1980年代に入ってもなお、心霊体験と心霊写真、超能力、UFO、未確認生物、それに占いはテレビバラエティと出版業界において一定の商品価値を持ち続けて、現在にいたっている。
 

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