見出し画像

「日常を紹介する」を考える

また「日常」に関する記事になる。これもまた不図、疑問として頭に浮かんできた内容である。

「日常」「普通の日常」

この文言を、ネット上に公開するということになんとなく疑問を抱いた。いやより正確に述べるのならば、その文言の後景としての心情や意志についての勝手な違和感といったところかな。もちろん、このnoteにおいても、その疑問は例外ではない。それが変だとか(違和感を抱いたという意味では「変」かもしれないが)、悪いとか、受け入れられないとかではなく、どうしてだろうという(純粋であってほしい)疑義である。

「日常」或いは、「普通の日常」。この言葉ほど、特殊なものはないということを前提としていることには、わざわざ言及する必要もないと思うが、一応書いておく。

倒錯が起こっている気がする。でもその倒錯や違和感みたいなものに懐疑の目をむけるひとは、なかなかいないように見えて。(多分ね)いやもしかしたら、そういったことについて考えた上で、敢えて、「日常」や「普通の日常」について言及したり、紹介したりするのだろうか。

とりあえず、ワタシの思索を展ねていこう。

これはアナロジーとして、「観光」を用いると分かり易いかもしれない。「「異日常」と「非日常」の違い」という記事でも、ちらと書いているのだけれど、「日常」はいわゆる「平均」「ありきたり」「周知」「偏差値50」の類語としての意味だけを持ち合わせているわけではない。

「日常」という言葉は、おおよそ場合、「異」なる意味、つまり「異日常」という意味を持ち合わせていると考えられるのではないか。

ネット上に転がっているのは、「平均」「ありきたり」「周知」「偏差値50」としての「日常」であることは少ない。というかほぼない。字面だけなら、そのように見えるかもしれないが、使われ方という点から見れば、おそらくそのような意味ではない。

大体、「紹介する」「伝える」という動詞の対象となるような「日常」は、その背後に「異日常」が隠れている。音楽が見世物となった、二つ目の系(レゾー)のような。(ジャック・アタリ、2012)演奏としての「日常」がそこには感じられる。ネット上で消費されるコンテンツには、おそらく多少なりとも、「意外性」が付与されているのではという勝手な思い込みの結果である。

でもさでもさ。

今日は、朝おきて。運動して、勉強しました。

という情報は、わざわざ載せるものなのだろうかと思う。

しかし実際にこのような文章が、延々と投稿されているとして、「冗談だろ?」や「ネタか?」と少しでも感じるのであれば、「日常」の中の、いや「日常」を「異日常」として使い、そう認識していることの証左になる気がする。

さてこの文章への批判は、なんら意外性が無いような情報としての批判であって、これに似た文章そのものを否定するわけではない。ただこれは、「異日常」的な「日常」という要素を欠いているがゆえに、なんとなく違和感があるだけなのだ。

そういえばなんとなく今思ったのだけれど、「普通」や「日常」を名の付くワタシの記事は、正直内容はほぼ一緒だ。最初から変わっていないと思う。(その分その直観があっているのかもしれない・・・)もしかしたら、同じようなことに対して、異なる言葉を尽くして語ることが割とトクイなのかもしれん。

閑話休題

さて、言葉を文字拘泥的に、字面通りに見たときに感じる違和感を、なんとなく文字におこしてみた。「日常」が伝えようとするエンコーディングは、「日常」としてワタシがディコーディングするのようなものではなく、どこかに特殊性というか、「異日常」が感ぜられる。

そういった意味で、ネット上にある「日常」を名乗る文の衆は、「異日常観光」と、その本質を軌を一にするのかもしれねえの。

正反対である二対は不思議な協和音を奏でる、ということかな~。


今日も大学生は惟っている。



🔵メインブログ🔵

サポートするお金があるのなら、本当に必要としている人に贈ってくだせぇ。