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芸術の脱儀式と、アウラの喪失

「それで誰かを殺せればいいぜ」


妙に頭に残る。

「盗作」のトレーラーに少しで登場する「レプリカント」の歌詞には、このフレーズが流れる。ほんの少ししか流すことの出来ないトレーラーに、何故このフレーズを選んだのかについては、予想の域を出ることは無い。

でも、何かが分かったような気がした(理解したかもしれない暴力)。ヨルシカさんにとっての音楽が、どのようなものなのかの一旦を垣間見せるような、そんな文章を、偶然にもこの目にする。複数引用します。


音楽は、儀式としての殺人に起源を有するその模倣であるが故に、供儀のマイナーな形式であると同時に、変化の告知者としてあらわれる。(ジャック・アタリ、2012、9)
雑音はひとつの凶器であるー音楽はその起源において、儀礼的殺人の模倣という形での、この凶器の使用の形態化、馴化、儀礼化に他ならない。(ジャック・アタリ、2012、43)
それは、そもそものはじめから、殺戮の権力による独占の模倣、儀礼としての殺人の模倣なのだ。(ジャック・アタリ、2012、50)

偶然であればそれでいい。必然視する気も、特にない。ただ、「それで誰かを殺せればいいぜ」っていう、一見不自然に見える、音楽の歌詞のなかの「殺人」を仄めかすような文言は、まったくの無意味ではないのだなと考えるようになる。

もしかしたら、ヨルシカさんというか、作詞をしておられる「n-buna」さんは、四つある系(レゾー)、「供儀」「演奏」「反復」「作曲」(ジャック・アタリ、2012)の中の、「供儀」を継承する音楽を目指していたのかなと、何となく感じる。(※もしかしれば、「作曲」の系の延長線上にあるものであるかもしれません)


人を殺すための音楽を作りたいのではなくて、「n-buna」さんの求めているような音楽が、偶然にも人を殺す(儀礼として)ことに起源を持っていただけだったのかもしれない。


見世物としての音楽。商品としての音楽。売れるだけの音楽。或いは真のオリジナリティを持たない音楽。褒めちぎるられるだけの音楽。スター性に隠れてしまった音楽。

そういう音楽ではなくて、経済に組み込まれないような、伝統や儀式や儀礼に埋め込まれた、ある意味では非常に本質主義的な考えに基づく音楽。たんなる「もの」でも、個人に特化したものでもなく、どこまでも伝統や共同体に依存している、消費されないような音楽。

そこに、「アウラ」がある音楽。

観光的ではない音楽(本質主義を受け入れた場合の)。

まだ、ヨルシカさんの音楽には、2つの系(レゾー)、「演奏」「反復」の系たちを否定したり、そこから脱却しようとしていると考えられるものもあるから、それについてはまた今度。



今日も大学生は惟っている。


参考・引用文献

ジャック・アタリ.2012.ノイズ 音楽/貨幣/雑音.(金塚貞文訳).みすず書房

ヨルシカ.2020.盗作. Universal Music Japan

ヨルシカ.2019.だから僕は音楽を辞めた.Universal Music Japan

ヨルシカ.2020.レプリカント.Universal Music Japan



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